夜から月をすくって-3

 校舎を出ると、灰白色の曇り空だったが降ってはいなかった。六月になった。梅雨に入るのもすぐだろう。空気は湿気を含んでいて、それが蒸された匂いがする。
「迎えに来てー」とスマホで誰かに甘える女子や、相変わらずこちらを見てくる男子をすりぬけ、木島と校門も出て駅に向かった。
「お礼が言いたかったの」
 セルフサービスのカフェは、寒いぐらいの冷房がかかっていた。それでも俺はアイスコーヒーにしたけど、木島はホットカプチーノにしていた。
 禁煙席には、同じ制服すがたがちらほらしていて、ふたりがけの狭い席しか取れなかった。その席で向かい合い、荷物は足元に置くと、カプチーノに口をつけて木島はそう言った。
「お礼?」
「私、真村くんのこと、よく知ってるわけじゃないけど。真村くんが萠と友達になってくれててよかったなって思ってるから。あんまり友達作るの上手じゃないでしょ、萠」
「んー、取っつきにくいけどな。中学時代、俺以外にも友達はいたぜ。ただ、この高校に進んだ奴が、ほとんどいないんだよな」
「真村くんがここに進んだのは、偶然?」
「え、いや──萠をひとりにするのは心配だったし」
「でしょ。そうだろうなと思ったから。そんな友達が萠にいて、ほんとにほっとした」
 木島の顔よりピアスを見ながら、冷たく香るアイスコーヒーにストローをさして、苦味で喉を潤す。ピアスは小粒だが、純白の光をこぼしていて、ダイヤに見えるけど本物なのだろうか。
「私も、仲良くなれるかな」
「え」
「真村くんと」
 やっと、木島の顔を見た。が、木島がうつむいているので、目は合わない。
「私、誰とも仲良くなれないから」
「……すげー、人気じゃん。男が多いけど、女もいるだろ」
「男の子はたぶん、外見しか見てないの。女の子は、私を見下してるんじゃないかな」
「いや、男はそうかもしれねえけど、女は木島には憧れるだろ」
「憧れてたら、声なんかかけられないよ。嫉妬されてるなら、それはそれで無視される。みんな、私としゃべるのは、愛人の娘だって下に見てるから」
 どきん、と鼓動が心臓に刺さる。
「男の子も、軽々しく遊ぼうって誘ってくる。そういうの、すごく嫌なんだけど。強く断ったら、不倫から生まれておいて清純ぶってるとか言われる。真村くんは、無理ならお茶を断ったり、私に普通にしてくれるよね」
「そう、かな」
 むしろ、俺も愛人の娘のくせにとか思っていたクチなのだが。木島はやっと顔を上げ、らしくない暗い表情からゆっくり微笑む。
「昔は、萠と伊緒奈が、そんなふうに偏見せずに接してくれてた。今は、あのふたりもどうなのか分からない。……これ、萠には言わないでね。萠なりに考えて、私に接してるんだと思うから」
 木島のころんと大きな黒い瞳を見つめた。
 萠は、木島は踏みこんでくると言っていた。そういう言い方をするということは、萠はすでに木島をよく思っていないのかもしれない。
 が、木島はさらに輪をかけて、萠にそう思われていることを分かっているのだ。そこで一歩引いたら、萠に排斥されると分かっていて、あえて踏みこんでいる。
 何というか、すごく華やかな奴に見えて、俺もひがんで見ていたけど。本当は、木島はもっと孤独な奴なのかもしれない。黒い瞳は、夜の海のように寂しげだった。
 そんな角度で木島を見ていると、相談みたいなことをされたのにほっとくのも冷たいかと、たまに萠と帰宅が合わないと木島とカフェに寄り道するようになった。同じクラスだから、授業もクラスメイトも一緒だし、話題はいろいろとある。萠のことが話題に出るのは、意外と少なかった。
 木島は、俺と話すときは、瞳の静寂をほどいて感情を波打たせるようになっていった。そうしていると、当然「つきあってんのか」のクラスメイトの野郎に詰め寄られたが、俺は首を横に振った。実際、俺と木島にそういう空気はない。それでも、萠の気持ちは気になって、いつも通り一緒に帰宅するとき「俺があいつとしゃべるの、萠は嫌かな」と訊いてみた。「空羽の自由だよ」と萠は思っていたより明るい感じで咲った。
 七月に入った直後に期末考査が行なわれて、俺は上位成績者なんかに貼り出されるわけはないが、萠の名前を確認しに発表を覗きにいった。四位だった。この高校で四位だからすごい。上位五位くらいまで、総合点はほとんど接戦だった。
 首位は城森伊緒奈だった。代表だったんだもんなあ、とそれを眺めていると、「真村くん」と呼ばれて振り向き、たじろいでしまう。そこにいたのは、栗色の髪も白い肌も折れそうな腰も、壊れそうに儚い美少女──首席の城森伊緒奈だった。
 顔立ちは彫りが深く、まぶたがふっくらして気だるく見えるのが、本当に中世の絵画の中の人物のようだ。「こんにちは」と言われて、俺はとりあえずうなずく。
「真村くんの名前も出てる?」
「まさか。萠の名前を見に来ただけ」
「そう。惜しいね、あと二点で三位だった」
「首位は城森だな。すごいよ」
「ありがとう。あんまり言われないから照れる」
「え、言われないのか?」
「ふふ、言ってほしい人には言われないかな」
 俺は、城森の伏せ気味の睫毛を見下ろした。言ってほしい人。親かな、と何となく思った。
「そういえば、真村くんは、梨多の彼氏になったんだっけ」
「何でだよ。違うよ」
「みんなそう話しているけど」
「たまに茶してしゃべってるだけ」
「そっか。それでも──いいな、男の子とお茶なんて」
「そうか? 別に、城森とも茶ぐらいできるぞ」
「本当に? じゃあ、お誘い来るの待ってる」
 城森は本気ではない様子でくすくす咲ってから、階段のほうへと歩き出した。俺はその背中を見つめ、一瞬考えて、追いかけて城森の肩をたたいた。
「じゃあ、今日の放課後ヒマ?」
 城森は立ち止まって振り向いて、さらさらした髪を揺らして首をかたむけた。俺はちょっと口ごもっても、続ける。
「無理ならいいけど。期末首位のご褒美に、コーヒーくらいおごれるし」
「……でも、」
「あ、城森はどっちかっつーと紅茶か? たぶんあのカフェ、紅茶もあると思う」
「………、私、炭酸が好きよ」
「え、マジで」
「家では飲ませてもらえないから、外出先ではコーラやジュースが多いの」
「そう、なのか。まあ、ジュースはあるだろ」
「ほんとにいいの?」
「俺が褒美って、城森には違うかもしれないけどな」
「そんなことない。嬉しい」
 城森はそう微笑んで、何秒か沈黙したあと、「それじゃあ、甘えようかな」と俺を見つめた。「おう」と俺はうなずき、その場で放課後に校門で会うことを約束すると、城森と別れた。
 教室に戻ると、萠に今日は先に帰っていていい旨のメールを送信しておく。スマホのあつかいにも慣れてきたと思いながら、画面を落としたところで、チャイムが鳴る。急いで教科書を引っ張り出し、視界に入る木島のすがたに、なぜかちょっと悪いことをするような気がした。
「真村くん」
 放課後、席を立って椅子をつくえに突っこんでいると、木島が駆け寄ってきた。
 一気にまばゆく夏が始まっていた。クーラーが切られてしまうと、この席はむちゃくちゃ暑くて汗ばんでくる。
「んー?」と俺が目を向けると、「試験終わったから、今日お茶できないかな」と木島はこちらを見上げてきた。だが、「あー」と俺が答えに迷う声を出すと、木島はすぐ笑みを作った。
「あ、無理ならいいの。萠と帰るほうが優先でいいし」
「ん、まあ。悪いな」
「ううん。じゃあ、今度ね」
「ああ」
 木島はにっこりとしてから、「俺は空いてるけど」なんて相変わらずの野郎をかわし、教室を出ていった。
 嘘ついたな、とぼんやり思った。別に城森と約束していると言ってもよかったのに。でもそれを言ったら、何というか──何だろう。木島が傷つくなんて、うぬぼれた考えなのに、妙にリアルに想像してしまう。
 俺のほうが、校門で五分くらい待った。日射しと蝉の声が、何だかもう、発狂している。「ごめんなさい」という声がして城森を認め、俺は首を振りつつも、わざとらしいほどの汗を制服でぬぐった。
 いつも木島と来ているカフェにやってきた。城森も美少女だけど、落ち着いているせいか、木島と歩くように視線が来て目立つことはなかった。カフェでは城森が本当にソーダフロートを選んだので、俺は少し噴き出しながら、自分はアイスカフェラテにした。
 トレイを抱えて、空いていた通路沿いの席に着くと、「笑うの?」と城森はスプーンの刺さったグラスを手に取る。
「いや、やっぱイメージと違うから」
「そう?」
「フロート乗ってるから、まだ分かるんだけど。コーラとかほんとに飲むのか」
 城森はスプーンでなめらかなアイスクリームをすくって、桃色の唇に含む。
「真村くんは飲まないの?」
「俺は飲むけど、萠は飲めなかった気がする」
 こくんとアイスを飲みこんで、城森は咲った。
「変わってない、萠」
「木島は、カフェモカとかカプチーノとかさらっと頼むよな」
「そうなの? 梨多とお茶なんて、ずいぶん行ってない」
「俺もたまにだよ」
「梨多と何を話すの? ごめんなさい、私、今も何を話せばいいのか分からなくて」
「んー、今日学校であったこととか。同じクラスだし。もっと萠のこと訊いてくると思ってたけど、わりと少ない」
 俺はストローをカフェラテにさして、一度氷をからんとまわしてひと口吸う。
「萠と真村くんが親しいのは、意外かもしれない。その髪とか、校則では大丈夫なの?」
「特に言われないからいいんじゃね」
「染めてるの?」
「いや、抜いてる」
「……抜く」
「ブリーチで、軽く色を抜いてるんだ」
「本来は黒いの?」
「うん。つか、城森も髪色薄いじゃん」
「おかあさんがハーフだから」
「え、そうなのか」
「知らなかった? おとうさんの会社、海外でも規模があるの。というか、今は海外での事業が主みたい。よく出張に行ってる」
「ふうん」
「おとうさんは、お屋敷にあまりいないの。おかあさんのことも私のことは愛していないし──当然だけど。おとうさんは、出張は梨多のおかあさんと行っているみたい」
 俺はカフェラテのほろ苦さを飲みこんでから、「木島の母親は、萠の母親だよな」と確認する。城森はうなずいて、「梨多に似た、綺麗な人」とスプーンをブルーが鮮やかなサイダーにもぐらせる。

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