夜から月をすくって-4

「城森は、そういう父親って平気なのか」
「もう分からない。慣れてしまった」
「……そっか。俺はさ、かあさんとふたり暮らしの片親なんだ。父親は浮気ばっかで、最後には離婚。そんなふうに育ったから、不倫とかには偏見も多かった。だから正直、分からないときもある」
「愛人を作ったりすることが?」
「ああ。昔から、浮気とか二股は間違いだと思ってきた」
「梨多のことは平気みたい」
「………、何にも感じないってわけではないよ。でも、あいつ自身は悪くないんだろうし」
 城森は小さく咲って、サイダーを飲んだ。俺もひんやりした冷房とカフェラテで、体温をなだめていく。
「真村くんは、梨多のことが好き?」
「は?」
「そういうふうに見えるけれど」
「いや、見るなよ。違うし」
「そう」
「そうだよ」
「じゃあ、もし私が告白したら、間に合うの?」
「え」
「こうして話してみて、楽しかったから」
「いや、告白とかそれだけでするもんじゃないぞ」
「ご褒美をくれるっていうのも、嬉しかった。本当に、そんなことを言ってくれたのは真村くんが初めてで」
 城森は俺をまっすぐ見つめてきて、俺のほうがどぎまぎと狼狽えてしまう。城森の顔立ちは本当に整っていて、直視していていいのか分からなくなる。
 え。えと。これは。
 頭の中を混乱させていると、城森がさらに何か言おうとした。そのときだ。
「ありがとうございましたー」
 そんな声と、右脇を同じ制服がすりぬけていくのが重なった。スカート。長い黒髪。純白にきらめくピアス。
「あ」と俺は顔を上げ、とっさに思った。
 嘘だ──
 立ち上がっていた。「ごめん」とは、口走っておいたような気がする。でも、荷物を持つのは忘れて、駆け出してその背中を追いかけた。
 自動ドアを抜けたら、地獄に踏みこんだように次元が違う。むっとした空気をかきわけ、真っ白な太陽の下、つかつかと遠のこうとしている背中の手首を捕まえた。
 びくん、とその人が立ち止まって、振り返ってくる。
「……木島」
 そんなつぶやきに、木島は俺の手を振りはらって、その手で頬の涙をはらった。何でこいつが泣くのか、分かるような分からないような。
 いや、分かったら、それはうぬぼれだろう。分からない。俺が城森に告白のようなことをされていて、なぜ木島が──
「みんな、伊緒奈なんだ」
「えっ」
「結局ね、伊緒奈を選ぶの。そうだよね。分かってる、昔からそうだったし。それが正しいし。真村くんだけ違うかもしれないなんて、私、バカだよね」
「違う、って──」
「私のことなんて選ぶわけないよね、愛人の娘なんか間違ってるもんね!」
 目を開いて突っ立った隙に、木島は俺を突き飛ばして走っていった。
 間違ってる、って。聞かれたのか。
 何でだろう。それは俺の中でしっかりした意見だったのに。それだけは揺るぎない感覚だったのに。だから、木島の存在は俺には許しがたいはずだ。
 なのに、いつのまにか普通に話せるようになっていた。受け入れていた。俺の心が動いたのか。木島が動かしたのか。それなのに、俺は、木島の存在を弾き出すみたいに、「間違い」なんて──
「真村くん」
 吐き気がするほどの暑さなのに、茫然としていて、立ち尽くしていた。不意にそんな声がして、隣を見た。
 城森だった。城森は丁重に俺の荷物を下ろして、スカートのポケットから取り出したハンドタオルで、背伸びをして俺の流れる汗をぬぐった。
「城森……」
「日陰に行きましょう。熱中症になる」
「……木島がいるって、」
「私の席からは背中で分かった」
「聞こえさせた?」
「梨多には幸せになってほしいの」
「だったらあんなの、」
「真村くんになら、梨多を任せてもいい。萠のことを大切にしてくれた人だもの」
「萠……」
「梨多が真村くんと幸せになったら、私も幸せになれる気がする」
「え……え、俺のこと、」
「告白したら間に合うかは訊いたけど、『好き』だなんてひと言も言っていないでしょう?」
 城森の焦げ茶の瞳を見つめた。城森はおかしそうに笑みを噛んだ。俺は思わず、大きく息を吐いてしまう。
「お前な、性格悪いぞ」
「ふふ。私はそんなにいい子ではないの」
「らしいな」
「それに、私が好きな人は、昔からずうっと変わらないから」
「ずうっと」
「そう」
 俺はちょっと視線を伏せて、「分かった」とだけ言った。城森は微笑んでハンドタオルを持つ白い手を引き、「日陰に行かないと」と俺の荷物を持ち上げて渡してきた。それを受け取って、俺たちは駅の構内に避難した。
 改札のそばまで来て、熱気に当てられた意識がくらくらしてきて、壁伝いに地面にしゃがみこむ。「俺は木島と、どうなるか分かんねえけど」とほてった頬に手の甲を当てながら城森を見上げる。
「城森が幸せになるって、そこは勝手じゃねえの」
「それは、梨多を除け者にすることにもなる」
「理解するだろ」
「でも、きっと寂しい。そして、梨多は我慢するから」
「………、」
「梨多は、自分が生まれなければよかったって、誰よりも感じているの。自分さえいなければ完璧だったって。いらないのは私だねって梨多は昔から言っていた」
「……幼稚園とかか」
「そう。梨多は自分が認められないことを一番分かっている。だから、私は梨多を置いて幸せにはなれない」
「城森は、性格がいいのか悪いのか分かんなくなってきた」
「梨多はいい子でしょう?」
「……そうだな」
「私はそろそろ帰らないと。ご褒美ありがとう。おいしかった」
「俺、けっこう、城森にハメられたよな」
 城森はくすりとして、もう何も言わずに、定期を取り出して改札を抜けていった。
 俺は手のひらで自分をあおぎ、しばらくそこで休んでいた。荷物に腕を放ると、硬いコンクリートに寄りかかり、木島通るかなあ、と制服が減っていく人通りを眺めていた。けれどその気配はなかったので、明日にすることにして、ようやく立ち上がった。
 日がかたむきかけていた。少し空いた電車に揺られながら、萠にメールをして、最寄り駅に呼び出しておいた。冷房で涼む俺が地元に着くより先に、「コンビニ入ってるよ」という萠のメールが来た。
 十九時半過ぎ、暗くなったホームに降りると、ぜんぜん冷めない熱気が肌に重たくまとわりついてきた。虫の声は澄んでいるが、蚊の羽音は聞こえるとうざったい。「暑い」と意味もなくつぶやき、引きずるように歩いて、定期ICで改札を抜けて、すぐ左手にある明るいコンビニに入った。
 ブックラックの前にいた私服の萠は、俺のすがたに目をとめて、雑誌を戻すと「アイスおごろうか」と言った。素直にうなずくと、萠は俺が夏によく食べているマンゴーフレーバーのアイスキャンディを買ってくれた。
「ありがとうございましたー」と言われてコンビニを出て、俺はアイスの包装を破いてゴミ箱に放る。萠は俺に首をかたむけてきた。
「伊緒奈のことで話があるって」
「うん」
「梨多じゃなくて?」
 うなずいてアイスキャンディをかじって、早くも暑さでさくっと崩れた冷たい甘さを頬張る。
「お前、城森に告られてる?」
「は?」
「それとも、お前が告ってる?」
「な、何──」
「言い方がかなり断定的だったから」
 萠は怪訝そうに眉を寄せた。
 太った猫みたいにのろく抜けた夏風はぬるい。たぶん後輩の中学生っぽい女の子たちが、騒がしくコンビニに入っていって、しりぞいた俺たちはとりあえず歩き出した。
 萠は考えていたけど、「どっちもないよ」と不意に言った。
「ただ、すごく子供の頃に、伊緒奈と梨多に結婚したいって言われて、伊緒奈のほうをお嫁さんにしたいとは言った」
「あー、それか」
「何? 伊緒奈と何か話したの?」
「城森に告られた」
「えっ」
「と、木島に見せかけた」
「……え?」
 俺は、今日の城森とのやりとりを萠に全部話した。城森ははっきり名前は言わなかった。が、「ずうっと変わらない好きな人」は萠のことだろうと思う。
 萠は次第に相槌も少なくなって、話を聞いていた。ただ、木島の疎外感も、城森は自分と想い合っていることも、察しているとぽつりと言った。萠は街燈で苦しげな瞳を向けてきた。
「それで──また僕に、子供の頃と同じことをふたりに言えって?」
「言いたくないのは、木島のためか?」
「違う。僕はもう知ってる、自分が伊緒奈に釣り合わないって」
「………、近いって言ってたじゃん」
「だから? 伊緒奈は、ご主人と本妻さんの娘なんだ。どんなにしたって、僕は一番ダメじゃないか」
「ダメだったら、同じ学校行かせないだろ。それで木島にも見せつけようってんだろ、お前らの親は。ほんと勝手だなと思うけど、お前と城森さえくっつけば、……木島の気持ちなんか、どうでもいいんだろうよ」
 萠は立ち止まって、うつむいた。俺はアイスキャンディの棒を捨てるに捨てられなくて、たまに噛んでいた。食いこむ歯形を見て、焦れったくため息とかついていると、萠は小さな声を絞り出した。
「梨多は、今はもう僕を想ってるわけじゃない」
「……どうだか」
「空羽のことが」
「俺、そういや、泣かれただけで『好き』とかぜんぜん言われてねえわ」
「選んでくれるって言われたんだろ」
「んー、まあ近いことは」
「僕は、梨多をお嫁さんに選ばなかった」
 俺は萠を見つめて、「選びたい?」と訊いた。萠は首を横に振った。そして顔を伏せるまま、つぶやいた。
「僕は、伊緒奈じゃなきゃダメだ」
「そんなもん、俺に告るな」
「うん」
「明日、本人に言え」
「うん」
「俺も明日、言うし」
「うん」
「泣くなよ」
 萠は目をこすって、うなずいた。俺は咲って萠を小突き、萠は俺を見ると仕方なさそうに咲った。
 俺たちはまた並んで歩き出し、街燈があまり並ばない、アパートの住宅街の暗い道に出る。足音が妙に響く中に、どこかの家のにぎやかな団欒が流れる。
 明日、木島に伝えよう。お前の笑顔をかわいいと感じていたこと。それを見るのが当たり前になっていたこと。そういう放課後が、俺の毎日には必要だということ。
 俺だけ違うとか、お前を選ぶとか、そういうのはよく分からないが、ただ、俺は木島が好きだ。
 萠と城森が落ち着いても、お前の隣には俺がいる。お前の存在は、間違いなんかでもないよ。生まれてよかったと俺は思う。だって、俺が生まれて初めて惚れた女だ。
 空を仰ぐと、満月だった。その優しい白い光は、木島のピアスの光に似ている。手を伸ばせば、暗い夜からすくいだせそうだと思った。

 FIN

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