「……少し」
私の耳元で、実成くんがふと声を絞り出す。
「え」
「少し、俺が我慢してればよかったのにね」
「何、」
「茉那子さんがあの男をブロックするのを待ってたら」
「実成、く──」
「そしたら、茉那子さんとつきあえてたのかな」
私は実成くんを見上げた。
何で、そんなこと言うの。それは言っちゃダメでしょ。私たちは手遅れなんだから。恋心がお互いあったのは分かっている。でも、それはすでに廃棄しなくてはならないものだ。
「……実成くんは、彼女さんいるから」
「………、」
「私とつきあえなくても、幸せじゃない」
「そんな、……こと」
「彼女さんとうまくいってないの?」
「……一緒に初詣行った。合格祈願」
「じゃあ、」
「でもどうしても茉那子さんが、心残りというか。俺さえしっかりしてれば、もしかしてって考えて。あきらめきれないんだ」
「実成くん……」
「茉那子さんのこと、好きなんだ。ほんとに、見つけたって思ったんだ」
私はうつむき、実成くんの胸に顔を伏せた。スーツはクリーニングの匂いがした。
そんなことを、言われても。私はどう答えればいいの。彼女と別れてほしい? もうそんなの遅い? それとも──
二番目でもいい?
「いや、まなちゃん、それはダメだから」
やや生活が引きこもりみたいになっている私を、真智ちゃんが買い物に連れ出してくれた。一月中旬、今日は陽射しが暖かくて着込んでいればわりと寒くない。
ふたりでモールをウインドウショッピングして、ひと息つこうとフードコートで席を確保してクレープを食べた。私はガトーショコラ生クリーム、真智ちゃんはベリー&ベリー、飲み物はふたりともホットカフェラテ。
「家にこもってばっかじゃダメだよ」と言われて、「実成くんには会ってるけど」と言うと「えっ」と真智ちゃんはまばたいた。そこで最近の成り行きを説明すると、クレープを食べながら聞いていた真智ちゃんは「待って待って」とストップをかけて、そう言い切った。
「ダメ、というと」
「彼女いる男とお茶するのも、実成くんが言ってることも、二番目とか考えるのも、全部ダメだから」
「……んー、やっぱそうかなあ」
私は首をかたむけて、はむ、とたっぷりの生クリームを食べる。
「いくら未練があっても、実成くんは彼女を選んだんだから。まなちゃんを振りまわすようなこと言ってるのはダメ」
「まあ、二番目って安純さんの二の舞だよね」
「でしょ? またそういう恋愛したいの?」
「それは嫌」
「実成くんは、あきらめる方向で考えよう。二番目とか絶対ダメだよ」
「お茶するのは?」
「それはギリ自由だと思う。下心がなければ」
「好きだって言われたんだよなあ」
「会わないに越したことはないけど」
真智ちゃんはこぼれおちそうなブルーベリーとラズベリーが絡まった生クリームを頬張り、私はカフェラテにミルクと砂糖を溶かして飲みこむ。
「彼女の立場だったら、彼氏が私みたいのと会ってるの嫌だよね」
「たぶんね」
「やっぱ、きっちり離れないとダメかあ」
「会ってる限り、期待しそうじゃん。まなちゃんの次の出逢いもないよ」
「出逢いかー。あ、真智ちゃんは彼氏とどう?」
「一緒にいるのが楽だからつきあってる」
「そういうのが一番いいよ」
「どきどきしないよー?」
「私も、実成くんとは安心するって感じだったしなー。あー、惜しいことしたなー」
まだそんなことを言う私に、真智ちゃんは肩をすくめて「でも」と話題を切り替える。
「安純さんを断ち切ったのはえらかったよね」
「あっさりしたもんだったよ。ほかにももっと女いたのかもしれない」
「本命だけじゃなくて?」
「うん。婚約者とか言われて、彼女さんは別れられなくてむしろ可哀想なのかな」
「さんざん浮気されてるわけだもんねえ。知ってるのかな、彼女さん」
「安純さんはばれてないって言ってた」
「絶対ばれてるじゃん」
「会ってるあいだ、ずうっとスマホが鳴り続けてたときがあったな」
「怖っ。確実に気づいてるな、それ」
「だから、最後のほうは安純さんとつきあいたいとは思わなかった。あの人とつきあうなら、浮気相手程度がちょうどいい」
クレープを食べると、ごろっと入ったガトーショコラがほろ苦く甘い。
「でもさー、実成くんは浮気しなさそうだな」
「もう話題は実成くんから離れよう」
「いや、私と浮気してるようなもんか」
「………、浮気するんじゃないの、実成くん」
「そうかな」
「告られたら、簡単に流されたんだよ。多少意志があれば、まなちゃんとつきあいたいって気持ちからぶれないでしょ」
「なるほど」
「そう考えると、つきあってもすぐ浮気されてたかもしれないよ」
「そうだなあ……はあ、それでも逃がした魚感が」
「逃がした魚をつかまえても、たいして大きくないもんだよ」
真智ちゃんはカフェラテにそのまま口をつけ、私は息をついてクレープの包装をぐるっと破って食べやすくする。
そうだよな、なんて思う。実成くんがあれこれいい男の子に見えるのは、手に入らなかったからなのかもしれない。冷静につきあっていたら、不満も見えていたのだろうか。
意志があれば告白されてもぶれなかっただろうというのは、的を射ている気がする。だけど私もさんざん安純さんについて話しちゃってたからなあ、と思う。
『まなこさん。
今、通話できる?』
それから数日経った夜、シャワーを浴びて部屋に戻るとスマホのランプが明滅していて、手に取ると実成くんのメッセが来ていた。投稿時間は十分くらい前だ。乾かしたばかりでひんやりしている髪に櫛を通し、私は直接通話ボタンを押す。出るかなー、と思っていたら、『もしもしっ』と実成くんの声が耳に飛びこんできた。
「あ、もしもし。メッセ見た」
『ごめん、今いそがしかった?』
「お風呂入ってただけ。話せるよ」
『そっか。よかった』
「今日は仕事は?」
『もう上がって家だよ。疲れた』
「寝なくていいの? 零時近いよ」
『少し茉那子さんの声聴きたかった』
私は髪を指ですくい、口説かれてるのかどうかよく分からずに「そっか」とだけ言う。
「彼女にそういうのは甘えたらいいのに」
『年下に甘えられないよ』
「そんなもんですか」
『うん。茉那子さんはタメだから、かっこつけなくていいや』
「年上だったら?」
『それは緊張する』
「年上とつきあったことないの?」
『年下かなあ、みんな』
「じゃあ、今までの彼女にはかっこつけてきたんだ」
含み咲って言うと、『まあそうだね』と実成くんはちょっとむくれた声で言う。
『茉那子さんにはそんなことしてないよ』
「つきあってないからね」
『……そう、だけど』
「こないだ、真智ちゃんに会ったんだけど」
『真智さん』
「おしかりを受けました」
『え』
「彼女がいる実成くんとは、お茶したりするのもよくないって」
『………、』
「未練があるなら、むしろ会わないほうがいいんだよね」
『でも、俺は』
「彼女さんが可哀想だよ」
しばし沈黙が挟まったのち、『茉那子さん、俺ね』と実成くんの声が続く。
『彼女に話したんだ』
「え」
『受験で大変なあいだは黙っておこうと思ってたけど、落ち着いたと思ったところで突き放すのも悪いかなって』
「突き放す、って」
『忘れられない人がいるって言った』
「──え」
『彼女、すごく混乱して泣いてて、まだどうなるかはっきりしてないけど。もしかしたら別れる』
私はスマホを握りしめた。別、れる。実成くんが彼女と別れる。忘れられないから、別れる。
どう反応したらいいのか分からなかった。単純な喜びはなく、複雑な罪悪感がこみあげてきた。だって、彼女さんは何も悪くなくて、好きな人とつきあえることになったのをバネに受験勉強をしていて、それを──
何も答えられないまま、零時を過ぎたので通話を切った。ベッドに横たわり、日向の匂いのふとんに顔を埋める。もっとタチ悪いかも、と思った。安純さんのときより、今回のほうがもっと、私は迷惑な女じゃない?
安純さんの連絡先を削除したのが十一月で、それからは何もない。アプリはブロックしたけれど、電話やメールも残っているのに、何もない。それはその程度だったということだ。
安純さんには、やっぱりたくさん女の子がいたのかな。あるいはやっと私と切れて、さすがに彼女さんと結婚でもしたかな。いや、きっとあの人のことだから、結婚していてもしていなくても女の子をふらふらしているのだろう。よくそんな人を必死に愛したな、と思う。
実成くんとも、似たような状況になりつつある。彼女がいる男の子。いくらあと一歩で結ばれそうだったとはいえ、やはり手が届かなかったことは変わりない。
時間切れ。どんなに温めていた恋心でも、もう手遅れ。この想いは廃棄処分だ。拾って食べていたらお腹を壊すかもしれない。だから、もったいなくても捨てなくてはならない。
私が実成くんを想っていても、実成くんが私を想っていても。事実として、実成くんとつきあっているのは彼女さんで。尊重されるのは彼女さんだと私は思う。
急に押しのけても、かえって実成くんの執着心をあおる恐れがある。さりげなくフェードアウトするしかない。真智ちゃんも実成くんはあきらめたほうがいいと言っていたし、私自身もそう思う。そっと消えないと、と思いつつ、いきなり拒否るのも怪しいかななんて、一応実成くんとのお茶にはまだ出かける。
「茉那子さん、真智さんにはいろいろ話してるんだね」
改札でなくコーヒーショップで直接待ち合わせて、マフラーをほどきながら実成くんが先に来ていた席に歩み寄る。注文したカフェオレがやってくると、それで指先や軆を温める私に、実成くんがそんなことを言ってきた。
「真智ちゃんは容赦なく意見もくれるしね」
「はは、確かに。俺もけっこう相談してた」
「え」
「茉那子さんのこと。真智さん、いろいろ応援言ってくれてたんだけどね」
「そうなんだ」
「真智さんの話聞きながら、俺は茉那子さんとはダメかも、って思ったんだ」
「えっ」
「俺は茉那子さんに似合わないかもって」
「何、で。何か言われたの?」
「茉那子さん、真智さんには言ってたんでしょ? 好きなら押し倒してほしい的な」
「え……ああ、言ったかも」
「それが、茉那子さんとは価値観違うかなってショックで。そんなときに今の彼女に告白されたから、茉那子さん忘れたくてつきあいはじめたんだ」
「………、え、じゃあ、私が押し倒すとか言ってたせい?」
「押し倒せばよかったのかな、とか結局今はぐちゃぐちゃ考えるけど」
「いや、私──そういうことは、確かに言ったけど。それは前の人がそういう人だったから」
「前の人」
「そう。だから、少し強引にされないと自信ないって感じだっただけだよ。実成くんが私を大事にして、簡単に手出ししなかったのは分かってる」
実成くんはしばたいて私を見つめてくる。私も「えー」とテーブルに肘をついて額を抑える。
【第五話へ】