romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

雪薬-1

 黎明のように、意識がうっすらと暗闇を失いはじめる。
 無秩序な夢が乱れる、浅い眠りから目が覚めると、いろんな症状があたしを襲う。
 頭痛。吐き気。無気力。
 あたしはいつも、起床すると必ずこの台詞をつぶやく。
「……死にたい」
 言ったあと、ぼんやり空中を眺めて、うんざりしたため息をつく。
 起きたくない。手足が融けたように重い。何だかもう、本当に腐敗して、もげてしまえばいいのに。
 軆を捨てたい。感情も思考も捨てたい。あたしなんか死ねばいい。
 なのにどうして、ふらふらと起き上がって、つくえの上の自分を保つ大量の錠剤をかきあつめて、ペットボトルのカフェオレで流しこんでいるのだろう。
 椅子を引いて、どさっと軆を放り投げる。回転椅子はぎしっときしむ。
 充電したままのスマホを手に取って、眼鏡をかけてカレンダーをタップした。病院は五日後。一瞥した薬は、ODなんかやっていないけど微妙に足りない。
 安定剤、増やすか、強くするか。してもらえるかなあと虚ろに天井に目を泳がせる。
 頭が痛い。薬の中から頭痛薬を選んで、それも口に放った。ついで甘ったるいカフェオレを飲む。おかしなものだ。それで、頭痛はすうっと消えるのだから。
 プラシーボという奴だろう。分かっている。これを飲めば落ち着く。そう信じているから、効いているだけ。
 軽い薬を処方する先生を責めるつもりはない。処方された薬を粘着質に調べて、重い薬ではなかったら「プラシーボで効くと思いやがって」──そんなわけの分からないことを言い出す、メンヘラちゃんのようなことは思わない。
 効けば何でもいい。信じるだけで、この忌まわしい抑鬱を体内から削ぎ落としてくれるなら、あたしは信じる。これを飲めば、救われると。
 来ているメールに目を通した。くだらない文章が視覚を圧迫する。
 どいつもこいつも、何を言っているのだろう。読めば読むほど気分が悪くなって、人混みに酔ってしまったような拒否反応がせりあげる。
 やがてあたしは、一度クラッシュしたこともあるスマホを乱暴に投げて、気だるく頬杖をついた。
「あー……」
 次第にまぶたが緩み、喉から声が垂れる。
「自殺したいなー……」
 虚しく響く五階の部屋はカーテンで薄暗く、静かだ。酒と薬と鬱が、メルトダウンしている。内臓からは、ヘドロがあふれているみたいだ。
 気持ち悪い。あたしはカフェオレで胃薬を飲んで、吐き気止めも飲みこんだ。ついでに不安の薬も飲んだ。緊張をやわらげる薬も飲みたかったけど、これは処方が少ないから大事に飲む。
 緊張をやわらげる薬。銀色の個装を、サイバーピンクに染めた指先でなぞる。謎の処方だが、この薬はなぜか効く。
 あたしは何に緊張しているのだろう。ただ生きることに緊張しているのだろうか。だからこんなに、毎日起きるだけの行為も、薬任せなのだろうか。
「……うぜえ」
 薬で潤びて、ぼんやりしてくる頭で吐き捨てる。
「世界中、みんな、死ねばいいのに……もうみんな、消えろよ」
 言いながら、がくっとつくえに伏せる。眼鏡がずれて、視界がぶれる。
 一瞥したデジタル時計は、“11:19”。五時間寝た。でも、まだ出勤まで八時間ある。かったるくあくびがもれて、あたしは眼鏡を毟り取ると立ち上がる。
 突っ立って、真昼をさえぎる星の刺繍の紺のカーテンを見る。少しだけ、寒い。素足にフローリングだと、ペディキュアの爪先が痛むような気もしてきた。でも、息はまだ白くない。
「……死ぬ」
 ゆらゆらとベッドに近づき、撃たれたゾンビのようにシーツに倒れる。
 頭がぐらぐらして、眠りを邪魔した苦痛が消えていく。はっきりした意識が、砂のようにこぼれおちていく。
 このまま、死んだように眠ってしまえばいい。浴びるように薬を飲んで、痛みが引けば、あたしはそれでいい。
 ──出勤しても、仲のいい子なんていない。職場の後輩の名前もいちいち憶えない。
 すぐに辞めてしまうから? すぐに飛んでしまうから?
 違う、あたしはあたし目当ての客の席にしかつかないからだ。
 歳を多く偽るほど若い子より、色気のあるお姐さんより、時にはママより、客はあたしを贔屓する。
 贔屓してもらわないと、困る。
「ありがとうございましたあっ」
「絶対、絶対、また来てくださいねっ」
 二十歳かそのへんの、あたしよりだいぶガキの女の子は、スーツの客に必死に訴える。けれど、その客は黒いマーメイドドレスのあたしにだけ、「また来るからね」と微笑む。
 また来るからね──だから、やらせろよ。
 小汚い小娘のくせに、好みの男としか寝ない。そんな後輩たちへの憫笑を微笑に変換して、あたしは客に手を振る。イルミネーションに、黒い指先のラメが映える。
 客の背中が見えなくなった途端、ママでもいない限り、後輩たちは客の悪口を言いはじめる。
「あいつ、あと一杯飲めば、あたしらの席でボトル入れてたのに」
「ほんとだよ。いつでもてめえの席についてやれるわけじゃねえっつうの」
 同伴、酔っ払い、角の煙草屋から、どこかのボーイが商品とお釣りを握りしめて駆け出していく。
 夜の喧騒の道でも、大通りの街路樹から飛ばされてきた枯葉がひるがえる。寒いな、と引っ張り上げたピンクのシースルーストールは、おろしたてなのに煙たい匂いがもう染みついている。
凪子なぎこさん、店、帰りましょー」
「ん……ああ、ちょっと飲みすぎたから、風当たってくわ」
「けど、お給料引かれませんか」
 引かれるかなあと思っても、特に何も感じない。
 ひんやりとした風が、いつもママに品がないと文句を言われる脱色したあたしの金髪をなびかせる。
「うちのママは、そのへん緩いから」
「でも、こないだ……」
「ま、まあ凪子さんがいいなら。うちらは戻ってますね」
音夜おとや先生がもうすぐ来ると思うから。それ待ってるって言っといて」
「えっ、マジっすか。あの人、かっこいいですけど、『先生』って何者なんですか」
「売れない作家」
 売れないと言ったのに、色めく彼女たちが雑居ビルの中に消えるのを見送り、あたしは手の中のスマホで、音夜おとや一紗かずさ先生からのメールがないか確認する。
 ──やっぱり、来ている。
『無理、何も書けねーわ。
 今夜行く。
 アフター、空けてるよな?』
 書き終わったから今夜行く、ではないから売れないのだと思う。でもツケは出さないし、作家だけに知識はあるから、ママと話も合って、店には気に入られている。
 あたしは返信を作った。ガラケーの頃は長い爪が邪魔になったけど、フリック機能は便利だ。
『こんばんは、凪子です。
 アフターの予定はないですよ。
 ただ、ホテル代の割り勘はやめてくださいね。
 音夜さんのお部屋に行きたいです。』
 作家なんて、「先生」とか「様」とか呼んでおけばいいと思っていた。でも、音夜先生は「先生」と呼ばれるのが嫌いだ。作家先生は、教師や医者とは一緒にされたくないらしい。
 しばらく返信を待ったけど、何もない。あたしは息をついて、オフホワイトのスマホを手の中に忍ばせて、うるさい着信のようなネオンを見上げた。
 スマホにしてから、「友達」とか「彼氏」から連絡が来たことはない。「親」からだって数回だ。
 誰とも関わらない。人と関わると、いらいらする。あたしはそのいらだちが怖い。たとえば、こんなふうに即レスが来ないとか。それだけで不安になる。どうでもいい奴の連絡は、平然と画面から目を離せるけど。
 鋭い音を立てて、風が抜けた。とっさにコンタクトの目をかばって、腕に鳥肌が走る。舌打ちしたあたしは、裾をひらりとさせてビルに引き返した。いつもの香水がなびく。
 かつかつ、とピンヒールで大理石を踏んで、エレベーターホールで『△』を押す。
 今年二十七歳になるあたしが勤めるのは、このビルの七階にある店だ。飛んできたのは一年くらい前で、もともとの常連客は、ずいぶん続くねと言う。ママは美人だけど、ものすごく短気で、二言目は同伴してこいでうざったい。
 楽して稼ぎたい最近の子は、この店では続かない。最近の小娘は、やりたくない、ばかりで何もできやしない。飲んで。歌って。騒いで。それで稼げるなら、OLも主婦も女はみんな、水商売に走っている。
 あたしはこんな店でも、しっかり楽して稼がせてもらってはいるのだけど。枕営業という犠牲ははらっている。ママが知って利用しているのか、知らずに「凪ちゃんのお客さんは、ママなんか見ないねえ」とのんきに妬いているのかは分からない。
 水商売は、「店」に来るのが客じゃない。「嬢」に来るのが客だ。ママとなれる「嬢」は、夜の街を網羅した蜘蛛なのだ。ひらり、ふわり、顧客と寝てはたぶらかすあたしは、たぶん蛾なのだと思う。
 夜の街に、古き良き「蝶」はもう存在しない。
「凪ちゃん、遅いよっ」
 零時を過ぎた頃に戻った薄暗い店内は、次元がゆがんだみたいに酒と煙草と暖房で蒸していた。出勤したときには聞こえていたジャズは、爆笑とカラオケで聴こえない。
 あたしのすがたを見つけたママは、さっそく渋い顔で駆けつける。あたしは無表情のまま、「少し休憩していいですか」と目はそらす。
「ダメ、すぐ二番テーブルに」
「音夜さんがいらっしゃるそうです。化粧くらい、直させてください」
「えっ」とママは幼顔の目を開き、喜びを隠さず笑みになる。
「一紗くん、来てくれるの? ママには何の連絡もないんだけど……」
「あの人、あたしのストーカーだからじゃないですかね」
 かなり適当なことを言っているのに、もうママは舞い上がって注意もしない。
「もう、来てくれるときにはママにも連絡してって言ったのにっ。凪ちゃんからも言ってよ」
「……伝えておきます」
「分かった、じゃあ──十分間ね、すぐ戻るように」
 あたしは生返事して、やかましいほど上機嫌な店内から待機室に抜ける。ママはああ言ったけど、ボーイくんは音夜先生が来てからあたしを呼ぶだろう。
 この時間帯、人気のない子もヘルプに出て待機室は誰もいない。ここはドレッサーや貸し衣装が並んで、見事に女子高の部室だ。あたしはバッグで取っていた今日のドレッサーに歩み寄り、鏡を覗いて、一応化粧は直した。
 昨日は切れ切れで浅い眠りだったせいか、目の下の隈が目立つ。口紅を直す前に、ペットボトルのお茶で安定剤をいくつか飲んだ。それから口紅で納得する顔を仕上げると、「あーあ」と喉を剥いて、シャンデリアを眺める。
「音夜は……何でもネタにするからなあ……」
 本当に、あの物書きは油断ならない。ネタに困ると、人の話をかすめとって小説にしてしまう。
 ぶっちゃけ、あたしの家庭もネタにされた。主役級のネタにはならなかったけど。
 よく分からない。書く人って、書きたいことがどんどんあふれてくるのだと思っていた。音夜は、もう書けないと言いながらがらくたをひたすらあさって、いつもかろうじて書いている。
 書かなきゃいいのに。働けばいいのに。音夜はいつも、変なところで大枚はたいて、普段の食生活とかはひどいと言ったらない。
「ホテル代はせめて持って連れ込めよ。ちっ、あの金、返ってこねえんだろうな。あー……何か、もう死のうかな……」
 誰もいないから、ぶつぶつとひとりごとを止められずにいると、ノックが聞こえた。怒ったママならそんなひかえめなことはしないから、ボーイの誰かだ。
 案の定、「一紗さんだよ」と一番年長の、ボーイというよりマスターの声がして、あたしは「凪子入りまーす」と答えて立ち上がった。
「凪子って、もうここのナンバーワン?」
 スーツが主流の客層の中で、音夜はいつもカジュアルシャツにジーンズでやってくる。髭は自分が鬱陶しいから剃るけど、髪は無造作に伸ばしてポニーテールみたいになっている。食生活もそうだけど、服装もTPO関係なく、いい加減だ。
 音夜一紗。一応、文学賞を受賞してプロデビューしている作家だけど、授賞式もそんな格好で行ったら、周りが慌ててスーツを揃えた──というのも自分の作品のネタにしていた。歳は二十九歳だったと思う。
「あたしはどこ行っても、ナンバースリーにも入らないから」
 水割りをこしらえる嬢の髪を撫でる作家先生は、敬語を使われるのもなるべく避けたいそうだ。
「わざとか?」
「それだけの実力だよ」
 音夜はあたしの金髪をぐっとひと房つかみ、あたしの耳に口を寄せた。そして、ほかの人には聞こえないようにささやく。
「姫になるほうが、稼げるんじゃね?」
 あたしは、音夜の大きな瞳の童顔を一瞥し、「そうなったらあたしのこと切るんでしょ」と水割りを作る作業に戻る。「まあなー」と音夜はマドラーでよく混ぜる前の水割りを取り上げて、大きくあおる。
「やっぱり、上にのぼりすぎないの、計算だろ?」
「どうだろうね」
「そりゃ、かわいがってる女は、ナンバーワンにのしあげてから捨てたいからな」
「それはどうも」
「自分からドブには行くなよ。突き落とす男を見るまで、俺は凪子の客だ」
「嬉しい」
「さっきから実に心がこもってねえな。なあ、えーと……」
 やっと音夜は、挟んで向こう側にいる女の子を見て、「ニナですっ」とショートカットの彼女は一生懸命笑顔を作る。
「ニナちゃん。君もよく舌のまわるホステスになれよ」
「え、えと……あ、はいっ」
「そんな返事より、音夜さんのお酒、きちんと混ぜてあげて」
「うっわ、怖い姐御だなあ。凪子、俺がこの子に同情して、乗り換えてもいいんだな」
 そう言った音夜は、おろおろとお酒を混ぜようとしていた後輩に腕を伸ばそうとした。
 あたしは、がしっとその腕をつかむ。手出しされかけた後輩は、きょとんとまばたきをする。
「あ、凪子さ──」
「あのねえ、こういうエロい手からは逃げなさい。今頃、胸揉まれてるよ」
「す、すみませんっ。その……音夜さん、どうぞ」
 後輩は音夜に混ぜた水割りをさしだし、音夜はそれを飲むと、あたしの肩を抱き寄せて、一瞬、耳たぶに熱い舌を絡めてきた。
「……妬けよ」
「惚れてるのはそっちでしょ」
「ふん。っとに、凪子ちゃんの心は落とせねえなあ」
 ──心まで落とさせてどうする。あたしは軆をばらまくことで、ホステスという仕事から、心を守っているのだ。
 本来、水商売は逆の職業だ。心で遊ばせ、軆は許さない。でも、あたしはそんな小賢しいことができる頭を持っていない。だから、泡姫のように軆で惹きつけ、心を焦らす。

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