romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

雪薬-5

 ひらり、と白がひとひら踊ったかと思うと、次から次と舞い降りはじめた。
 窓際の席にも暖房がきいている。でも禁煙席なんかない。だから、その喫茶店は話し声は低めで落ち着いていても、どこも煙草臭い。あたしは副流煙には慣れているけれど、信野はちょっと苦しそうだ。
 あたしはロイヤルミルクティー、信野はレモンティーを、どちらもホットで注文していた。
 同伴なら、うちの店は遅刻してもいい。ただし、三十分間──二十時半までだ。一分でも遅れたら、二十一時までタダ働きになる。
 すでに二十時が近い今、店の遠くへは行けないから、どのみち話すならここしかない。ウェイターが去ると、信野は少し躊躇ったものの、時間がないことは伝えているので、連れていたカーキのリュックを覗いて、たたまれた紙を取り出した。
「何?」
 チョコレート色の指先で、お冷やを取り上げたあたしに、信野はさらりと答える。
「遺書だよ」
 信野の目を見ようとした。けれど、伏せられていて睫毛しか窺えなかった。とりあえず、口をつけたグラスはテーブルに置く。
「……いいの?」
 信野がうなずいたので、あたしは封筒にも入っていないそれを手に取って広げた。何となく、長ったらしい文章を予想していたら、簡潔な三行だった。

 信野くん
  私、もうどうしたらいいのか分からない。
  止まらなくて怖い。
  だから、さようなら。
 桜美

「さくら……み、さん?」
「チエミって読むんだ」
「チエ……ああ、チェリーから来てんの?」
 信野はまたちょっと咲った。さっきより力なかった。
「よく分かったね」
「源氏名で、変な名前は慣れてるから」
「そっか」と信野はあたしから紙を受け取り、丁重にたたみながらあたしを見た。
「桜美との生活に参ってたわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、桜美の精神があんまり荒れてて、冷静になるために僕だけ三日間ホテルに泊まって、部屋を離れた」
「一緒に暮らしてたんだ」
「一応ね。僕が離れることに桜美も賛成してた、そうしてくれたほうがいいかもって。離れたのは、少なくとも僕は、桜美を信じてたからだった」
「……うん」
「三日ぶりに部屋に帰った。何にも変わらなかった。インテリアも、物音も、匂いも、そのままだった。だから、カーテンレールで桜美が首を吊って、そんなに時間も経ってなかったんだ。数時間早く帰ってれば、もしかしたら」
 もしかしたら──何を言えばいいのか黙っていると、飲み物が来る。
 ここのロイヤルミルクティーは、蜂蜜が入っていて気に入っている。砂糖とは違う、まろやかな甘みが喉から内臓を温める。
 信野もレモンが浮かんだ紅茶を静かに飲みこんだ。
「僕は……生きてていいのかな」
「え」
「大切な人を見殺しにした。大切な人の大切な人も見殺しにした」
「大切な人の……って、もしかして音夜さんの気持ち、」
「知ってる。桜美も知ってたと思う。カズは隠してるつもりだろうけど」
「桜美さんは、信野さんが好きだったんだよね」
「分からない。ほんとは、三人が一番心地よかった。カズが僕を揶揄って、桜美がカズをしかって、僕が桜美の後ろに隠れる。そんな僕をカズはまた揶揄った」
 あたしは頬杖をついて、外の粉雪を眺めた。風もなく、景色は静かに白に染められていく。
「信野さん」
「うん」
「あたしも、止まらないの」
「えっ」
「桜美さんとは、事情は違うだろうけど。すごく薬に依存してる。病院でもらう奴だよ、でも──どうしたらやめられるか分からないの。一生ヤク漬けかなって、怖い」
「……うん」
「頭の中から消えないことも、落ち着かない精神のいらいらも、終わらないんだよね。でも、一瞬だけだけど、そういうのを薬は麻痺させてくれる」
「………、」
「そういうのって、死にたいっていうより、もう生きてたくないんだ。こんなに弱いなら、自分でいたくない。忘れられないなら、もう考えなくていいように、いっそ消えたい」
「僕は、桜美にとって薬にもなれなかったのかな」
「まあ、そうだろうね」
「……カズ、……なら、なれてたかな」
「さあ」
 信野は首を垂らし、「僕がいらなかっただけなんだ」と絞り出した。ミルクティーをすするあたしは、信野を一瞥したものの、きめ細やかに降る雪片に瞳を戻す。
「信野さん、『雪薬』って知ってる?」
「……カズの本?」
「そう。あのタイトル、アスピリンスノーから来てるんだよね」
「アスピリン……は、薬だよね、確か」
「そう。鎮痛剤で、さらさらした粉雪みたいなの」
 信野は窓の向こうの雪を見た。あたしはちょっと目を細めて、笑みを浮かべた。
「あの雪が全部薬だったら、痛みなんか、なくなるかもしれない」
「………」
「薬なんか飲んで、って偏見もあるけど、しょうがないじゃない。だって、『死にたい』なんてたわごとだもの。ただ、『死にたい』って言葉でしか表現できないくらい、生きていくことがつらいの。薬くらい……いいじゃん」
 息をつき、スマホで時間を確認した。二十時を十五分まわっていた。ミルクティーを残すまま、あたしは椅子を立つ。
「どうする? 無理に店に来なくていいよ。ボトル入れさせられるだろうし」
「あ……、いや、その、ちゃんと行くよ」
「いいの?」
「うん。同伴だから」
 ちょっと笑って、コートに腕を通してバックを取った。信野も立ち上がり、会計は持ってくれた。
 外に出ると、雪のせいか、さらに空気は冷たくこわばっていた。
「凪子さん」
 雪に滲むネオンの中に白い息を吐きながら、信野は空を見上げた。
「この雪は、桜美が降らせてるのかな」
「え」
「そんな人だった。いつも僕を包みこんで、痛みなんて感じないように守ってくれた」
「……うん」
「僕が苦しくないように、こんなに寒くして、感覚を麻痺させてくれてるのかな……」
 信野の手を握った。冷たい手だった。音夜の手は、温かかったな。そんなことをぼんやり思う。信野が息を震わせたので見ると、彼はひと筋、泣いていた。
「……凪子さんは、」
「ん」
「カズのそばに、いてやって」
「……そうだね」
「僕は、桜美を想って生きる」
「ちゃんと、麻痺するよ。痛みは……麻痺させることができるから。それで、何とか生きることはできる」
 あたしたちは、粉雪の中に足を踏み出した。
 雪薬を浴びる。この白に染まったら、あたしは麻痺を越えて、たぶん変わることもできる。
 記憶。思考。感情。すべて麻痺して、痛みのない静けさを手に入れる。
 そして、やっと心を開くこともできるのだろうか。重ねた肌から麻痺さえ蒸発して、初めてあたしは、胸に灯るような感覚を覚えるのだろうか。
 ビルのエントランスを抜けて、エレベーターを待っているときにスマホが鳴った。信野が「いいよ」と言ったのでスマホを確認すると、音夜からのめずらしい電話着信だった。
『あー……脱稿したわ』
「お疲れ様」
『信野、行ってる?』
「うん」
『俺のボトルで飲んでていいから』
「分かった。……音夜さんも来て。アフターも空いてる」
 音夜は苦笑を噛み、『営業だなあ』とつぶやく。
「営業じゃないよ」
『へえ?』
「会いたいの」
 音夜は笑って、『マジかどうか、顔見に行くわ』と電話を切った。そのとき、エレベーターが来て信野と乗りこむ。
 冷たい雪にあてられたのか、なぜか音夜の体温を恋しく感じる。あたしはその熱で、彼を心の奥まで受け入れられるのだろうか。
 薬がまわったときみたいだ。音夜と恋仲になるなら、店を飛ばなきゃならなくて、でも、それも悪くない気がする。薬を飲めば、何とか生きていてもよくなるみたいに、恋ですべて捨ててみるのもいいかもしれないと思う。
 到着した七階の店に信野を案内する。低めのジャズ、暗い照明、染みついた煙草のにおい。
 ここから飛ぶんだ、と思った。そして、音夜はきっとそんなあたしを受け止める。
 今夜、痛み止めの雪薬を浴びて冷えきった軆を、あの情熱的な指先に溶かされる。そしてあたしは彼の手で、心震える物語を綴るように、熱く息づく愛を紡がれる。

 FIN

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