Koromo Tsukinoha Novels
「えっと──初めまして……」
「……初めまして」
しかし、そんな白々しい挨拶を交わして、私はまた古村と向かい合っている。その古村の隣できらきら咲っているのは、私に勝手に懐いているうざい後輩、武上だ。
「先輩、あたし本日残業できないんで、これやっといてくれません?」
「やっといてくれません」
その日、秒で私が答えると「えーっ、先輩いいいい」と武上は私の肩をつかんで揺すってくる。
十七時、オフィスは終業してふっと空気が緩んだところだった。そんな中、すすすっと私に近づいてきた武上は、またくだらない甘ったれを言いはじめた。私はきっと武上を睨みつけると、「いいか」と肩の手もはらう。
「残業できない日もあるのは分かる」
「はいっ。今日そうなんですよー。彼氏が、」
「残業できないなら、死ぬ気で終業までにノルマこなせ。以上」
「でも、彼氏があ」
「彼氏が死にそうでも理由にならない」
「彼氏が迎えに来てくれるんです。今夜デートだから」
「そんなもん、待たせとけ」
あっさり切り捨てると、「えーっ」と武上はわがままな声をあげる。
「嫌ですよお。今すぐ会える状態なのに」
「会える状態じゃないから。ノルマこなしてない時点で」
「お願いしますっ。今日だけ! 一生のお願いで!」
「あんたの一生軽いな。──課長、私のぶんのデータOKですか?」
課長のほうを振り向いて訊くと、「んー、城嶋くんは問題ないねえ」とのんびり返ってくる。
「でも、武上くんが終わってないだけじゃなくて、入力ミスも多いねえ」
「はあ? 何、あんた給料泥棒なの?」
「わっ、リアルでそれ言う人初めて見た」
「あんたのことなんだよ! ちっ、しょうがないなあ。ミスは自分で修正しろ。残ったぶんは私がやる」
「わあいっ。って、え、ミス……? え、自分では自分が間違えたところなんて分からないですよ」
「正論みたいに言うなよ……?」
私が拳をちらつかせて声を震わせると、逆鱗手前なのは察したのか、「頑張りまーす」と武上はきゃらきゃら笑って自分の席に戻っていった。
「お疲れ」とねぎらってくれる同僚には礼を言いつつ、武上からありがとうも聞いていないことに、またいらっとする。
去年の私の教育、そんなに悪かったのかなあ──若干泣きそうになりつつ、私はデスクに着きなおして、武上のぶんの仕事を片づけはじめた。
そんなわけで、課長に頭を下げさせるまで武上の面倒を見て、私は缶コーヒーでひと息ついてから、会社を出た。今日は夕ごはんファミレスでいいわ、ファミレスのお肉とデザートで豪遊するわ、と思いながら車道沿いに出ると、「あ、先輩っ。お疲れ様でーす!」という忌まわしい声がする。
我ながら鬼の形相で振り返ると、路上駐車の車の窓から武上が顔を出している。
「……何してんの。デートは?」
「今からドライブデートですっ」
「ああそう。よかったね。お疲れ」
「今、彼がドリンク買いにいってるので」
「ああそう。よかったね。お疲れ」
「あっ、来た来たー! そうだ、先輩にも彼氏紹介しちゃいますねっ」
「いらねえ」
「健太くーん!」
ああもう、うざったい。そう思っていると、「実留香、アップルティーなかったんだけど」という男の声が背中に聞こえた。「えーっ」と言いながら武上は車を降りてきて、「あたし、あれが期間限定だから飲みたいのに!」と通常運転でごねる。
彼氏どんだけ可哀想だよ、と思いながら振り返り、私ははっと目を見開いた。同時に、彼氏も私を見てかたまる。
「え……」
思わず声がもれてその人を見直したけど、間違いない。数日前とは少し雰囲気は違っても、そこにいたのは古村だった。
「実留香、この人──」
「あっ、この人ねえ、あたしの職場の先輩! ちょっと怖いの」
うるさいな、と武上を一瞥したものの、「えっと、」と私はだいぶ気まずく古村を見る。
「初めまして……」
「……初めまして」
そう合わせて答えながらも、古村も動揺を隠せていない。武上は古村の隣でにこにこしていて、「健太くんからも言ってよー」と彼の腕に親しく腕をまわす。
「武上に、もうちょっと優しくしてやってくださいって」
「え……ああ、彼女の面倒見てもらってありがとうございます」
「えっ、何それ何それっ」
「……いえ。彼氏さんも大変ですね」
「もーっ、先輩までひどい!」
「武上、私、マジで帰るわ。今日ちょっと疲れたから」
「えー、歳ですかねえ」
言い返す気力もない。古村とはどうにか目が合わないようにして、私は身を返すと駅への道を歩いていった。
何? ほんとにもう、何? 武上の彼氏? 古村が? 古村が結婚考えてる相手って武上?
バカなの⁉ 仮にも私のことを引きずっておきながら、タイプ違いすぎるだろうが!
いったん駅に着いてしまったものの、私はスマホを取り出して、糸依のトークルームを呼び出した。『おごる』とだけ送信すると、ため息をついて、切符売り場のそばの壁にもたれかかる。
帰宅ラッシュの人混みを見ていると、頭がくらくらしてくる。いろいろな感情が心臓に絡みつく。
三十分待って、捕まらなかったら『ごめん』って追撃して帰ろう。そう思いながら、胸のあたりをさすって深呼吸していると、手の中のスマホが震えた。
『今どこ?』
糸依だ。『駅』と送信すると、『いつものとこ来ちゃったよ』と返ってきた。私は壁に預けていた体重を足に戻すと、『すぐ行く』と返して、例の鉄板料理の店に急いで向かった。
かくして、個室を取っておいてくれた糸依と合流すると、私はメニューを開きもせずに古村のことを話した。
大学時代からの親友である糸依は、もちろん古村のことなど知らない。いきなり出てきた男の名前に怪訝そうな顔をしていた。が、そんなことは構わず、奴が私に想いを寄せていたことから武上の彼氏だったことまで、私は一気に吐き出した。
焼きおにぎりを食べていた糸依は、それを片づけしまったので、私がやっと黙ると「おごらなくていいからさ」と私にメニューを勧めた。
「肉を食うつもりだったなら食え。デザートも頼め。真幸は頑張った」
「うん、ほんと頑張った……」
半泣きで言いながら、私はメニューを開いた。今日もハラミステーキは外せない。それから、塩豚のロースや生ハムのサラダも注文する。ドリンクはライムチューハイ、食後のキャラメルと林檎のパルフェも抑えた。
「かしこまりました」と店員さんが去ると、今日もスクリュードライバーの糸依は、「古村くんもこじらせてるなあ」とグラスに口をつける。
「男にとって、初恋ってそんなに残るの?」
「古村がいろいろ憶えてることには、ちょっとヒイた」
「私もヒく。てか、真幸もそれならよくキスをしたな? 私だったら引っぱたくけど」
「酔いが残ってたのかな……」
「そして、そのキスがうまかったと」
「あれはうまかったと思う」
「そのまま流れで、致さなかったのは褒めよう」
「あー、そういう危険もあったのか」
「あったね。気づいたらホテルに連れこまれてるほうが自然だったね」
私はお冷やをすすり、「怖っ」とつぶやいた。
糸依は頬杖をつき、「古村くんも、武上さんに集中したくて必死なのかなー」と首をかたむける。長い黒髪ストレートが、その肩をさらりと流れる。
「真幸を忘れられてないのは、マジだったんだろうしね」
「私を忘れてないなら、私と武上は同じ種類なの? それはすごく嫌なんだけど」
「種類は違うんじゃないの」
「私にギャル要素ある?」
「ない」
「私を好きになって、忘れられずにいて、そこで武上を選ぶ古村の感覚が分からん」
「重ならないようにしてたのかもしれないじゃない」
「あー……」と納得していると、サラダとドリンクが先にやってきた。しゃべりまくった私は、さわやかなライムでひとまず喉を潤す。「何かなー」と生ハムで野菜を巻いて口に運ぶ。
「もう会うこともないと思ったから、キスとかしたんだよ。なのに、気まずいじゃん。これから、武上に古村のことをあれこれ聞かされるわけでしょ?」
「武上さんなら、無自覚マウントしそうだね」
「あまりにもいらついた自分が、てめえの彼氏の初恋は私だぞって言わないか心配で」
「そこまでか」
「そこまでだよ」
私も糸依も静かにドリンクを飲み、「武上の結婚式とか呼ばれたら死ぬな……」と私は虚ろに目を泳がせる。
「嫉妬するの?」
「気まずくて爆死する」
「それは古村くんもだろうから、うまく真幸のことは招待から外すんじゃない?」
「頼むわ古村……」
「でもさ、結婚するのって武上さんなの?」
「は?」
「いや、武上さんが古村くんの本命じゃなかったら……」
私ははっと糸依を見て、「それは考えなかったわ」と背筋を伸ばす。
「そうだよな、武上と結婚ってちょっと現実分かってないし……。え、じゃあ古村は二股してるの? 最低だな」
「鵜呑みにしなくていいけど」
「期間限定の飲み物のためにパシらせる女と、結婚する男はいないだろ」
「私もそう思うけど、確定ではないよ。どのみち、そのへんは古村くんと武上さんの問題だから、真幸が心配することではない」
「そうか。古村も私のこと避けるだろうし、問題は武上のマウントか。いっそ寿退社しろよ」
「それが一番の解決かもしれないね」
そんなことを話していると、ほくほくと香ばしい湯気を立てるお肉が運ばれてきた。私も糸依もひとまず黙って、ご賞味の時間とする。
いつものハラミステーキは、やっぱりとろりと柔らかくて、白いごはんと口の中でほどけるのが幸せだ。肉はほんと活力だわ、としみじみ感じながら、追加でナスのチーズ焼きやエビチリも頼んで、デザートもあったな、と締めにはスライスされた林檎にキャラメルソースがかかったパルフェも食べた。
「武上さんのこと愚痴りたいときはいつでも呼びな。筑紫くんのライヴとかイベントで遠征してなきゃ、私は出勤してるだけだから」
駅での別れ際、糸依はぶれない発言を添えて励ましてくれて、私はこくんとして「ありがとう」と答えた。
二十一時前には部屋に帰りついて、リラックスモードまでのルーティンをこなすと、ぼふっとベッドに飛びこむ。
古村は今頃、武上とドライブデートか。今夜はキスも、その先もやったりするのかな。古村はやっぱり、武上にもあのキスをするのだろうか。
あのとき、私はキスさえ久しぶりだったけど、ふたりはいつもあれをやっているわけだ。変な感じで複雑だった。嫉妬ではないと思うけど、ただ、私はあのキスみたいな蕩けそうな恋をしたことがないから──……
【第四話へ】