Koromo Tsukinoha Novels
翌日に週が明けて、私はいつも通り出勤した。自分のデスクに近づき、そこに誰か勝手に座って突っ伏しているのに気づいた。
誰かというか、大ぶりのイヤリングやウェーヴの茶髪が明らかに武上だ。「席、間違えてるぞ」と腰に手を当て、平静を保ちながら声をかけると、「先輩いいい……」と武上が厄介なことを言い出すときのトーンで唸りながら顔をあげた。
「どうしよう……」
私は真顔のまま、「仕事でミスが見つかったの?」と問う。
「仕事なんて、どうでもいいですよ」
「どうでもいいなら出勤すんな」
「先輩に聞いてほしくて」
「辞表の書き方か?」
「違います、ほんとに仕事とかじゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「……健太くんが、」
どきっとして言葉を飲むと、武上は私の腰にすがりつくようにして、おまけにはた迷惑にわんわん泣き出した。
「あのねえ、武上。あんた、幼稚園児じゃないだから──」
「昨日、あたし、健太くんとデートだったんです」
語り出した武上に、それは知っていたけれど、「そうなのか」としれっと言っておく。
「話があるって言われて、夜にはレストラン行って」
「……話」
「もしかして、プロボースかもって思うじゃないですか」
「まあ、うん……」
「そしたら健太くん、奥さんと子供がいるって──」
「はっ?」
思い設けない方向に、思わず声が裏返りそうになる。
「あ、離婚はしてたんですけど」
「何だよ。じゃあ……別に、」
それでも複雑だな、と思っていると、「より戻すって」と武上は鼻をすする。
「え……」
「子供のために会うのを続けてるうちに、何か、また……って」
心臓が、ざわざわと逆撫でられてくる。
奥さん? 子供? よりを戻す? 古村、そんな女がいたの?
武上は周りからの視線も意に介さず、泣き顔で化粧をぐちゃぐちゃにしていく。
「お前じゃあいつのこと忘れられなかったって……何ですかそれえ。あたし、奥さんの代わりだったんですかあ」
「お、落ち着いて。とりあえず落ち着け、武上」
「やだ、もう死にたい……あたし、健太くんのこと本気だったのに。結婚したかったのに」
「………、」
「昔の女が忘れられないって何ですかあ。そんな情けない男だったんですかあ」
そこのところは、古村は初恋を引きずるぐらいの男だからな。結婚までした女がいたのなら、それもけっこう未練すごそう。
「もう先輩があたしを殺してくださいいいい」とか武上に軆を揺すぶられ、「前科は嫌だわ」とすげなく言いつつも、仕方ないなあと私は内心で舌打ちした。
決めたけど。わざわざ話なんかしない。話しても、どうせうまくいかない。だから、黙ってブロックしようと思った。
でも、昨日の今日で、まだ私は古村をブロックしていない。
武上は気に食わない奴だけど、この状態で職場にいられても困る。ひとまず、この問題児は自分のデスクに引きずっていき、私はスマホを取り出した。古村のトークルームを呼び出す。
『話があるから、今夜会いたい』
そう送ってスマホを引き出しにしまったとき、始業の時報が鳴った。いつも通りの朝礼のあと、今日もPCに向かって入力作業をしていく。どうしても古村のことを考えてしまって気が散るので、いつもより慎重に作業を進めた。
終業の十七時まで働いた。案の定、本日の効率が悪かったらしい武上は、残業になっていた。けれど、デスクでほうけていて私に声をかけてくる様子はない。「武上くん、君ねえ」と課長が武上に小言を言い出しているのを横目に、私はオフィスを素早くあとにした。
スマホには古村の返信が来ていた。『仕事終わったら公園行く』とあって、『了解』だけ返しておく。
今日は部屋に寄らずに、まっすぐ実家の最寄りに向かうと、例の公園のベンチで仏頂面で腕を組んでいた。武上のためのというのが癪だけど、今日こそ流されずに古村を批判して、ついでに私も手を切らなくては。
そう思っていると、ふと「城嶋」と声がかかって、あたりもすっかり暗くなって、秋の夜の冷気が降りていることに気づいた。
「そっちから呼び出してくれるの初めてだな」
歩み寄ってきて街燈に浮かんだのは、スーツすがたの古村だった。「言うほど会ってないでしょ」と私は挨拶もせずに隣をしめす。
「とりあえず、ここ座れ」
「俺の家、行かないの?」
「行かねえよ。てか、おかあさんに新しい嫁と思われるのも申し訳ないわ」
「新しい嫁」
「あんたに嫁がいたとか、マジでビビったし」
「は?」と古村は首をかしげる。
「俺、未婚だけど」
「離婚歴あったら、未婚とは言わないんだよ」
「離婚歴って……ああ、実留香に何か言われた?」
「思いっきり泣きつかれました」
「そっか、ごめん。でも、嘘だから」
「は?」
「そうでも言わないと、実留香は別れてくれないと思って」
「な、何を言ってるの?」
「だから、俺には嫁も子供もいたことないって。それは全部──」
私にぎっと睨みつけられ、初めて古村は口ごもる。私はあからさまなため息をつくと、「最低かよ」とつぶやいた。
「武上の味方とかほんと腹立つけど、それでもあんた、その嘘はひどすぎると思う」
「……ごめん」
「武上に言え」
吐き捨てると、「それは無理」となぜか古村は頑固に返してきた。
「はあ? 何でよ」
「城嶋のせいだから」
「何が私のせいだよ」
「実留香と終わらせないと、城嶋と始まることもできないだろ」
私は眉を寄せる。古村は、隣にやっと座った。
街燈の中、じっと見つめられてたじろぐと、「城嶋」と古村はゆっくりと切り出す。
「好きだ」
「……あの、ねえ──」
「忘れられなかった女っていうのは、お前のことだよ」
「そんなん、」
「俺とつきあってほしい」
「っ……んなの、あんたみたいな奴、どうせどうとでも言って、浮気するでしょ」
「そう思われて仕方ないけど。城嶋にまた会えて、嬉しかったんだ。すごく。再会しなかったら、忘れることもできてたかもしれない。でも、また会えたから」
古村は、私の腕を引き寄せた。もがこうとしたけれど、強い力で抱きすくめられる。
古村の匂い。胸板。心臓の音が鼓膜をたたく。
「お前が好きなんだよ」
肌を伝うようにして、その言葉が聞こえた。
私は目をつぶり、何で、と思った。武上にかなりひどいことをしている男だぞ。私に対して、そうならないなんて絶対に言えない。
なのに、「お前が好きなんだよ」って──あの夢と同じ台詞はずるいでしょ。
古村が昔、私を想っていたのは知っている。あの頃から? 本当に? そこまで私を忘れられなかったの?
いや、こんなのダメだ。流されるな。たとえ忘れられていなかったことが嬉しくても、こんな、誰かを踏みにじって幸せになるなんて──
古村が覗きこんできて、キスしようとしてきた。それを顔を伏せてよける。
……けど、古村のスーツをきゅっとつかんでしまう。
「武上……に」
「うん」
「……どんな、顔したら」
一瞬、その意味に小さく古村は息を飲んだ。けれど、「大丈夫だよ」と私を抱きよせる。
「俺と結婚しよう」
「は……っ?」
「俺と結婚したら、苦労はさせない。仕事も辞めればいい。もちろん、働きたければ転職は応援するけど」
「……本気、なの?」
「本気だよ。昔から」
あー……もう‼
何だか、自分の心にかえっていらついてきて、どうしようもない吐息をついてしまう。
ぜんぜん、抵抗も批判も、できていない。むしろ、全身の細胞が歓喜でざわめいている。
そんな自分が悔しい。悔しいけど──
昔から、か。揶揄われて否定していなかった幼い古村が、脳裏をよぎる。
「……もっと」
「ん?」
「もっと……早く、言えよ」
「早くって、同窓会の日?」
「小学生のときだわ」
「いや、ガキには告白とか無理すぎるだろ」
「どうせ知ってたし」
「えっ、そうなのか?」
「ばればれだったわ」
古村はまた笑って、「そっかあ」と私をいっそう抱きしめた。「時間差すぎるし」と私はその胸に額を当てる。
「小学生からつきあってて、これ……だったら、めちゃくちゃロマンティックだったのに」
「それだと、逆に雰囲気が所帯じみてなかったか?」
「……そうかな」
「そうだよ。今から初恋をやり直すから、ロマンティックなんだよ」
そう言って、古村は私をもう一度覗きこんできて──今度は、私たちはキスをした。濃密なキスでなく、軽く触れるだけのキス。
そっと顔を離して、「へへ」と嬉しそうに咲った古村を見上げると、「あー、もう!」と私は声を上げて彼の胸に突っ伏した。
「掠奪とか、柄じゃないんだけどなーっ」
「俺がお前を選んだだけだし」
「武上に、何も話さないの?」
「話していいの?」
「………、私から言い寄ったことにはしとけよ」
「何だかんだ、城嶋は実留香をかわいがってるよな。だから実留香も城嶋に懐くんだろうし」
「それをこれから裏切るわけだけどね」
「実留香の気持ちが気にかかるなら、俺はうまく言えるよ?」
「……まあ、正直、『ざまあ』って気持ちはあるな」
古村はからから高笑いしたあと、「夢みたいだ」と私の髪に頬をあてて頭を撫でる。
「でも、これって現実なんだよな」
私は睫毛を伏せ、そうだな、と思った。
夢みたい。ずっと夢だった。好きになった人に、私と同じくらい好きだと思ってもらうこと。そして、その想いを「好き」と言葉にして伝えてもらうこと。
キスも知らない幼い頃から、ずっと忘れられなかったくらい、古村が私を愛してきてくれたこと。
全部、夢みたいけど、私は確かに、彼の腕の中でその体温を感じている。
──その後、私と古村はファミレスで武上と向かい合って、「そういうこと」になったのを伝えた。
武上は初めは信じていなくて、「何のどっきりですかあ」とかドリンクバーを飲んでいた。しかし、古村が「俺は学生の頃から城嶋が忘れられなかったんだ。会えることがなくなっても、片想いをしてきた」とか何とか、なぜか私が恥ずかしくなってくるくらい真剣に長年の想いを語るうち、みるみる武上の顔色が変わってきた。
「そっ……そうだとしても、先輩、断りますよね? あたしの彼氏ですよ?」
理解が追いつかないような武上に、「あんたにはいつも迷惑かけられてるし、詫びだと思ってもらっとくわ」と私はそっけなく答えた。「そんな!」と武上はテーブルを殴り、食器ががちゃんと音を立てる。
「先輩よりあたしのほうが若いし、かわいいし、何でよ⁉」
詰め寄られた古村は、「そう、若くてかわいいだけなんだよなあ、お前」としみじみと言った。
「じゃあ、奥さんと子供は⁉ まさか、先輩がその奥さん⁉」
「そんな感じだな」
「でも、子供は言いすぎだわ……」
「子供いないんですか?」
「すぐ作るから、いるのと同じだな」
「信……っじられない、あたしが健太くんと結婚するのに! それは決まってるのに」
「俺はプロボースはしてないぞ」
「指輪くれた! ペアリング!」
「それは、実留香にねだられて仕方なく……」
「あたしが悪いっていうの⁉」
「まあ、悪いのは私だわ、武上──」
「んなこと分かってんだよ、おばさん。健太くんが騙されてるだけだよね?」
「実留香といるのは疲れる。俺、下僕みたいに使われるし」
「私のためになりたいでしょ?」
「別に。期間限定の紅茶ぐらい、自分で探して買ってほしい」
「……じゃ、じゃあ、これからそうするからっ。あたしを捨てないで。結婚しよ?」
「無理。俺は城嶋がどうしても好きなんだ」
武上は肩をわなわなとさせると、「最低!」とわめいてファミレスを走り出ていった。自分が注文していたパスタ代は置いていかなかった。「こういうとこなー」と古村は伝票を見て、「これくらい出してあげなきゃ」と私は肩をすくめた。
それ以降、職場で武上に徹底的に嫌われることになった。当然ではある。そして正直、すっきりした。
今までがひどかったから、武上に声をかける人より、私に「嫌がらせはない?」と心配してくれる人が多いのも皮肉だった。私がここを辞めなくても、もしかして武上が辞めるかもしれないとさえ思う。
筑紫の全国ツアーを追いかけていた糸依が帰ってくると、例の鉄板焼きのお店で、私は古村のとの顛末を語った。糸依は初めは堅い面持ちで聞いていたけど、次第にため息が増えてきて、くたびれたように脱力した。
いつもの甘いハラミステーキ、表面はかりっとした焦がしチキン、トマトとモッツァレラのシンプルなマルゲリータ、今日も色とりどりのおいしくて香ばしいものでテーブルがいっぱいだ。
「真幸はほんとに」と確認するように糸依は言った。
「古村くんが、好きなんだな?」
「まだ心はそこまで自覚ないけど、軆が勝手に喜ぶ」
「長年想ってくれてたことへの情ではない?」
「長年想ってたことは、今もちょっとヒイてる」
「それだけ言ってるってことは、結婚もするんだな?」
「武上が辞めれば、仕事は続けるけど」
糸依はマルゲリータを口に押しこんで、咀嚼しながら考え、ごくんと飲みこんだ。
「後悔もしない?」
「さんざん古村に、告ればよかったって後悔させてきたので」
「そうか……」
「うん」
「じゃあ、まあ──言うの遅くなったけど、おめでとう」
「うん」
「真幸に彼氏かあ」
「続くかなあ」
「あんたの恋、短命だもんね」
「それなんだよ」
「聞いてる感じ、古村くんがかなり真幸に執着しそうだね。そこに賭けるか」
私は照れ咲いして、うなずいた。やれやれ、と言った感じで糸依はもう一枚マルゲリータを頬張る。
「筑紫のツアーどうだった?」と訊いてみると、糸依は身を乗り出して目をきらきらさせ、筑紫のかわいさや愛らしさを生き生きと語りはじめる。ほんとぶれないなあと思いつつ、それが糸依の幸せならいいのかなと思う。
おかあさんとおとうさんにも、結婚を前提にした彼氏ができたことを報告した。おとうさんはちょっとほうけたけど、おかあさんは涙ぐんでまで喜んだ。
しかも、あの同窓会がきっかけだったと知ると、「行ってよかったでしょ!」と誇らしげに言う。「今度連れてくるわ」と言うと、「前の日に言ってね、ごちそう作ってあげるから!」とおかあさんは気合いを入れていた。
私も古村のおかあさんに改めて挨拶して、「俺の初恋の人でもあるんだよ」と古村が言うと、「あらあら」とおかあさんは微笑ましそうにうなずいていた。
そのあと、古村の部屋に行って「ベッド座るよ」「おう」と言い交わしてベッドサイドに腰かける。古村もその隣に座ると、「真幸」と私の名前を呼んで頬に触れてくる。
「私に触るの好き?」
「好き。確かめられるから」
「はは」
「真幸が俺の部屋にいるの、まだ信じられない。夢みたいだ」
「私も──変な感じ」
「変な感じって何だよ」
「健太のこと、正直忘れてたからなあ」
「え、俺の気持ち知ってたって言ったじゃん」
「それごと忘れてたよね……」
古村が何だかむくれた顔になったので、「でもね」と私は思わず咲ってしまう。
「夢を見たの」
「夢?」
「同窓会のちょっと前くらいかな。ガキの頃の健太に、『好き』って言われる夢を見た」
「………」
「あの頃、言われたわけではないのにね」
「……おまじないのこと、憶えてる?」
「男子もけっこうやってたって奴?」
「そう。俺、けっこういろいろやったんだよな。でも、何だよどれも効果ないじゃんって思って」
「いろいろやるところが女々しい」
「うっせ。でも……その中に、あったよ。『真幸ちゃんの夢に、俺が登場しますように』って」
私は古村を見た。古村も私を見る。ふたりで同時に噴き出して、「ほんと時間差すぎる!」と私は古村の肩をはたく。
しばらく一緒に笑っていたけど、古村はふと私の手をつかみ、優しく恋人つなぎで握った。もう一度彼に顔を向けると、やっぱり、蕩かすようなキス。
このキスにたぶらかされたなあ、と思いながらも、今は素直に気持ちよくなって力を抜ける。古村にしがみついて、深く舌を交わす。
夢でくらい幸せな恋がしたい。そう思った私に、あの頃の古村が「好き」と伝えてくれた。おまじないが働いたのかは分からない。まあ、もうそれはどうでもいいや。今、私は目を覚まして、現実で古村の隣にいる。やっぱり、私を「好き」と言ってくれる彼。
幸せになりたいと思ってきた。もう恋は夢じゃない。今、リアルに、私は古村の体温や鼓動、腕の力を感じている。
幸せになってやろうじゃない。
そして、君の初恋は、私の初めての愛になる。
FIN