砂糖づけの人形-6

 やがてサイレンを鳴らして警察がやってきて、連絡を受けたおかあさんも、私と佳月くんを迎えに来た。おかあさんは私のことも佳月くんのことも抱きしめて、「買い物なんか頼んでごめんね」と泣いた。佳月くんから話を聞くのは後日ということで、私たちは三人とも鼻をすすりながら家に帰った。
 佳月くんも私も、シャワーを浴びた。そのあいだにおとうさんも帰ってきて、私と佳月くんはおとうさんの腕にも抱きしめられた。「佳月くんのそばにいてあげなさい」と言われて、私は一緒に佳月くんの部屋の部屋に入った。
 いつのまにか夕方は終わって暗かったけど、明かりはつけずに佳月くんはベッドに横たわる。私はベッドサイドに腰かけて佳月くんと手をつないだ。「僕、汚れてない?」と不安そうに問うてきた佳月くんに、「大丈夫だよ」と私は言って、すると佳月くんはやっと手を握り返してきた。
「でも、また波で洗いたいな」
「明日、一緒に海に行こうか」
「ん……ごめんね」
「ううん」
「情けない、よね」
「そんなことないよ」
「律樹くん、あの男の人を殴ってくれて。僕も、そんなふうにできたらよかったのに」
「佳月くんは、心を治してる途中だから」
 佳月くんは、哀しそうに伏し目になった。窓の向こうでは澄んだ虫の音が響いている。クーラーがシャワーを浴びた肌を冷まし、髪からはシャンプーの匂いがする。「結菜」と不意に名前を呼ばれて、「うん?」と私は佳月くんを見る。
「いつかね、ちゃんと、何かあっても自分で抵抗できるようになるから」
「うん」
「そしたら、僕を男だって認めてくれる?」
「えっ」
「結菜のそばに、いたいから」
「佳月くん──」
「結菜が好き、だから。律樹くんみたいな、しっかりした彼氏になるから」
「………、」
「……ダメ、かな」
 口調に陰を落とした佳月くんに、私は慌てて首を横に振った。「けど」とぽろりと自信のない言葉が零れる。
「私、でいいの? こんな、……かわいくないし」
「結菜はかわいいよ」
「……ブスだよ」
「綺麗だよ」
「私──」
「結菜は綺麗だよ」
 佳月くんを見つめた。佳月くんはゆっくり身を起こすと、両手で私の前髪を分けて、月の光で顔をさらした。佳月くんの微笑が直接瞳に映る。
「僕たち、おじいちゃんとおばあちゃんが姉弟なんだよね」
「……そう聞いてる」
「やっぱり、似てるね」
「似てる……かな」
「うん。睫毛も長いし、肌も白いし、唇も──」
 佳月くんの唇が、唇に柔らかく触れる。私はつながっている手をつかみ、泣きそうになって睫毛を伏せる。佳月くんは優しく唇をちぎってから、私を抱き寄せた。
「……佳月くん」
「うん」
「私も、佳月くんが好き」
「うん」
「だから……ね」
「うん」
「佳月くんがかわいいって思ってくれるなら──」
 佳月くんは私の髪を撫でて、言う前に「うん」とうなずいてくれた。私は佳月くんにしがみついて、同じシャンプーの匂いを吸いこむ。
 佳月くんが好き。佳月くんが綺麗だよって言ってくれる。だったら、私はきっと、もう自分を隠さなくていい。
 レースカーテンの向こうで、月と星が陽光を受けたせせらぎのようにさらさら光っている。
 私は佳月くんの体温に包まって、この男の子と一緒なら怖くない、と思った。佳月くんと一緒なら、光も怖くない。日陰に逃げなくても歩いていける。私は隠して守らなくていいんだ。
 そう、これから私は、佳月くんと一緒に光の下を歩いていける。
「ほんとに変じゃない?」
「かわいいよ」
「笑われないかな」
「大丈夫」
 久しぶりに制服を着た九月一日、玄関でそんな押し問答をして外に出ることを躊躇ってしまったけれど、佳月くんにつないだ手を引っ張られて、私は晴天の下に出た。
 朝陽がまばゆく顔に当たる。何年も浴びなかった光にすくんでしまっても、「結菜」と佳月くんに呼ばれて私は足を踏み出す。
「いってらっしゃい」
 背中にパートに出る前のおかあさんの声がかかる。私と佳月くんが振り返ると、「ほんとにこんなに似てたんだね」とおかあさんは咲う。私は佳月くんと顔を見合わせてから、笑顔を作る。
「いってきますっ」
 家の中にそう声を残すと、私と佳月くんは道に出た。
 朝はまだ蝉の声が名残っている。残暑も厳しく、日射しが肌を焼く。
 眉まで切った前髪、肩まで切った長かった髪、やっぱりクラスメイトとかに見られるのは恥ずかしいなあと思う。一週間くらい前に、美容室とかは行けなくておかあさんに切ってもらった。まだ家族にしかこの新しい髪型は見せていない。鏡を見るのも慣れなくて、自分のすがたじゃないみたいに感じる。
 佳月くんと手をつないで、「まぶしい」とか話しながら通学路を歩いていると、「はよっ」と後ろから駆け足が近づいてきた。もちろん声の主は律樹で、私が振り返ると、「おおっ」と立ち止まってそんな声を上げた。
 私はどんな顔をすればいいのか分からず、むすっとしてしまい、律樹はにやにやしながら私と佳月くんに並ぶ。
「好きな男に言われると、言うこと聞くんだなー」
「……悪かったね」
「うん、次は笑顔だな」
「律樹って注文ばっかり」
「佳月くんも咲ったほうがいいと思うだろ」
「結菜、僕の前では咲うから」
「んだよ、のろけかよー。まあいいや、織衣んとこまで走ろ。じゃなっ」
 海辺沿いの道に出ると、そう言って律樹は一直線に走っていく。
 渚から心地よい波の音が押し寄せて、朝陽を受けた海は、きらきら輝いている。少し涼しくなった風が、潮の香りと共に首筋をすりぬける。
「織衣も髪びっくりするかなあ」と私がつぶやくと、「似合ってるから大丈夫だよ」と佳月くんは微笑む。
 ──夏休み、佳月くんを襲おうとした男の人はちゃんと逮捕された。海にナンパに来た大学生だったのだそうだ。友達に抜け駆けを食らってむしゃくしゃして、佳月くんを女の子だと思って手を出そうとしたらしい。
 佳月くんは、あのあと一週間ぐらい元気がなかったものの、私や両親に気遣われて落ち着きを取り戻していった。
「結菜! 佳月くん!」
 道を歩いていると、そんな元気な声がして私たちは前を向く。いつもの角で織衣が手を振っていた。律樹もその隣にいて、あくびを噛んでいる。私と佳月くんは顔を合わせ、「おはようっ」と言いながらふたりの元に駆け出す。
 佳月くんは、人形だった。大人に砂糖づけにされて、その果蜜を搾取される、おとなしい人形だった。
 でも、今は違う。息をして、自分の意思があって、動くこともできる。友達がいて、私の隣で咲ってくれる。だから、あんな目にまた遭ってしまっても、されるがまま落ちこんだりしない。私のそばにいるために、強くなりたいと願ってくれる。
 そんな佳月くんがいて、私もやっと重い枷を捨てることができた。ずっと日陰に隠れていたけれど、佳月くんと一緒なら光の中に踏み出せる。軽くなった髪に物怖じせず、教室で過ごすこともきっとできる。
 私も佳月くんも、過去には捕らわれないように、これから一緒に過ごしていけることを見つめる。お互いに寄り添えるなら大丈夫だ。私もあの記憶に縛られて、身動きできなくなっていた。
 でも、自由になっていいのだ。怯えなくても、佳月くんがそばにいてくれる。
 怖くない。
 私たちはひとりぼっちじゃない。
「佳月くん」
「うん?」
「佳月くんが、この町に来てくれてよかった」
 佳月くんは私を見つめて、柔らかく微笑するとうなずいた。つないだ手に力がこもる。
 海しかない田舎町だけど、ここで佳月くんと暮らしていきたい。いつまでも、佳月くんと過ごしていきたい。そうしたら、私も佳月くんも──
 太陽が空気を熱しながら輝いている。海風が頬を撫でていく。それに肌をさらして、私はもう逃げたりしない。
 自信を持って咲おう。そうしたら、思うよりずっと楽に、私は佳月くんと共に、この町に溶けこんでいけるはずだから。

 FIN

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