Koromo Tsukinoha Novels
南向きの部屋には、優しくて暖かな陽が、今日も射しこんでいる。窓の下にうずくまる俺は、フローリングにその陽射しが映るのを、虚ろに見つめている。
死にたい、と思った。いや、死なせてくれ。殺してくれ。死んだほうがマシだ。
死刑があるだけ、きっと刑罰のほうが慈悲がある。
「茉樹くん。おはよう」
不意に部屋のドアが開き、彼女の声がかかる。俺がびくんと振り返ると、彼女はにこりともせずに近づいてきて、手にしていた犬用の皿を俺の前に置いた。
俺は彼女に上目を使う。「食べて」と彼女は言った。
青虫が無数に伸び縮みしている、汚れた土が盛られている。
吐き気がして、深呼吸する。「早く」と彼女は口調を強くした。
俺はまた涙を垂らしはじめながら、泥臭い土に顔をうずめる。手を使わないのは、犬の真似でなく、定期的に剥がされる爪で指先が膿みきっているからだ。
俺は、いつまで、この部屋に閉じこめられて過ごすのだろう。彼女の冷酷な狂気に囚われているのだろう。
舌の上を柔らかな青虫がねっとりと這う。死にたい、とまた思った。しかし、俺は、死をもってしても彼女に許されることはないのだ。
◆
「もうすぐ試験でしょう。ちゃんと勉強してるの?」
クーラーのきいたリビングで、カウチに寝転がってスマホに熱中する俺に、かあさんがおなじみの台詞を投げてきた。俺は眉を寄せても、動画から目をそらさずに「やってるよ」としれっと嘘をつく。
「お前、高校生になってから、スマホばっかりじゃないか」
PCで仕事を片すとうさんも、苦い声でそんなことを言う。俺はやっぱり画面を見つめるまま、「これが普通なんだよ」と寝返りを打ち、ふたりには背を向けた。
自分の部屋にエアコンさえあれば、リビングなんかでは過ごさねえのに。内心そう思いつつ、炎上中の人気配信者が人妻とつきあっていたことを謝罪し、活動を自粛すると発表しているさまに笑いを噛む。
「この子、スマホ与えてダメになったね」
「しかし、もう持たせないわけにもいかんしなあ」
「おとうさんがそうやって甘いから。スマホなんて、成人して持たせればよかったんですよ」
さすがにやばい意見を述べながら、かあさんは腰に手を当てる。
「茉樹、試験結果次第では、スマホ没収だからねっ」
「は? 何言ってんの? 大丈夫?」
「どういう意味よっ」
「それはヒくわ。俺がイジメられていいの?」
「スマホくらいで──」
「イジメられるに決まってんだろ! メッセのグループとかどうするわけ? それチェックできないことが死って分かってる?」
「茉樹っ。言い過ぎだぞ。勉強さえちゃんとしてくれるなら、とうさんもかあさんも文句はないんだ」
勉強、勉強って、本当に両親は、中学になったあたりからうるさくなった。逆にやる気なくすし、と舌打ちを殺していると、動画が終わっていた。俺はカウチを起き上がり、「分かったよ」とふてぶてしい声を残して、リビングをあとにした。
六月下旬、皮膚にじっとり熱と湿気が絡みつく梅雨も、あとひと息で終わる。七月に入れば、すぐに期末考査で、確かに勉強はしなくてはならないけど。中間がだいぶわけが分からなくて、あのとき、俺は焦るより開き直ってしまった。
中学時代、二年生になるまでは勉強を頑張っていた。それでも成績が振るわなかった俺は、元から頭が悪いのだろう。「このくらいにしとけ」と中三の担任は熱意もなく俺にレベルの低い男子校を勧め、その男子校は家から近いところが俺も気に入った。両親には「もっと頑張ればできるのに」と言われたものの、「だって先生が言ってるし」と言っておけばよかったのは助かった。
受験で楽をしたぶん、高校に入ってからの授業は、つかみどころがなかった。その状態のまま受けた中間の結果で、俺は自分をあきらめた。だから、期末もやる気はない。
そんなことより、高校時代に童貞は捨てたいのだけど、そこはどうしようとか考えている。
あの人とそういうことができたら最高なんだけどな、と思う。でも、童貞のまま、そういうことになるのもちょっと恥ずかしいな。練習台みたいな女がいればいいのに。
明日、道を歩いていて、あの人とすれちがうことはあるかもしれない。だから、汗ばんだ軆にシャワーを浴びせることは欠かさずに、俺は自分の部屋に入る。
真っ先に、柔らかな雨音が鼓膜に染みこむ。冷感色の白い明かりをつけると、扇風機を部屋の真ん中に持ってきて、「強」で首固定した。扇風機と向かい合って、風で長めの黒髪を乾かしたあと、寝起きに毛先が跳ねないようにムースをなじませる。
俺の両親は就寝が早いので、リビングは零時になる前に空く。だから、そのあとになって俺は扇風機を切ってリビングに戻り、クーラーをかけて寝る。睡眠中に熱中症になって、死亡する事案も聞く昨今、両親もそうしろと言う。
今は二十二時半だから、まだ両親は起きている。俺の時間がやや余るわけだが、やっぱり勉強はしない。
窓に近づいて、カーテンをめくると、冷えたガラスに額を当てる。このあたりは、ハイツやコーポ、メゾンが立ち並んでいる。灯る家の中の明かりはわりと多く、この中のどれかが、あの人の家の明かりなのだろうと思う。せめて家知りたい、と思うけど、知ったところでお邪魔できるようになれる自信はない。
よくすれちがう、おそらく近所に住むあの人。俺は意識しまくってるけど、あの人は俺を気にも留めていなのだろう。俺なんか景色の一部で、たまに挨拶をしたら返してくれるのも、条件反射っていうか──
でも好きなんだよなあ、と俺の挨拶に応えてくれるときのあの人の笑顔が、どうしても心をつかんで離さない。
雨は夜中に上がったようで、重い雲も撤退した空は、久々に青が突き抜けていた。太陽のぎらつきは、今年も猛暑だと予告していて、異常気象もウイルスもいい加減にしろと思う。
俺が小学校のとき、世界規模でパンデミックが起きた。手指を細かく消毒して、マスクを外せない小学校時代は、抑圧されてあんまり楽しくなかった。
クラスターを恐れ、登校しない生徒も多かった。俺もそうできればよかったなあと思う。しかし、俺の両親は「できれば、先生に直接教わりなさい」という教育方針を取った。
当時より世界の混乱は落ち着いたと思うけど、生活が元通りになることは、もはや人類はあきらめた。外出から戻れば、まず手の消毒と検温。装着義務ではなくなっても、マスクは生活必需品。時期がまわってきたらワクチン接種。あとは、ソーシャルディスタンス。
時間差登校が当たり前になって、小学生よりもっと子供の頃に体験したことのある、芋洗いみたいな満員電車が緩和されるようになった。だから、パンデミックで逆に正常化したものもあるのかなと思う。
今は流行している新型もないし、暑そうだからマスクはせずに家を出た。ぬるい夏風が、さらされた頬や半袖の腕を舐めていく。大股で歩くのは、急いでいるわけでなく、駅までの道のりを歩く人たちの中にあの人を見つけたら、自然と追いつくためだ。
「おはようございます」
今日も発見できた彼女は、両サイドをみつあみにして、それをローポニーでまとめていた。ラベンダーのカーデと白い花柄のロンスカ。足元は、全体を甘くしないためかスニーカーだ。隣に追いついた俺に、彼女は歩調を緩め、スモークピンクのマスクをしていても愛らしさが伝わる笑顔で「おはようございます」と答えてくれる。
このまま、今日は天気になりましたね、とか会話にできればいいのだけど。並行すれば、決して叶わないわけではないのだけど。
どうしても緊張して、なめらかに声が出ないのを隠すために、何とか会釈だけはして、俺は早歩きで彼女を追い越してしまう。
だから、彼女の名前も知らない。年齢も知らない。大学生だと思ってるけど。とりあえず年上。分かるのは、このへんに住んでいることだけだ。
こんなの、接点でも何でもない。そう悔しくなっても、女の人と自然に近づくきっかけなんて、俺には分からなかった。
乗り換えはなく、三駅のぼれば高校最寄りには到着する。
「はよー」と教室に踏みこみ、教壇にあるプッシュボトルで無造作に手指は消毒する。「はよー」と返してくれた友達が集まるところに、スクールバッグも下ろさずに近づいてみる。
「何かあった?」
「昨日の動画観たか?」
「謝罪動画?」
「そう。続報がリークされてさ、あの配信者、もう別れたほうがいいって言った人妻を殴ってたらしい」
「DVかよー。ないわ」
そう言って、俺はスクールバッグをひとまず床に置く。
「垂れこんだのは旦那かな」
「あ、かもなー」
「終わったな、こいつ」
「コメ欄荒れてる?」
「こんな時間なのに、流れ早いぐらい」
「リモートで家にいる奴らだろうなー」
そんなことを口々に言っていると、予鈴が鳴った。俺はスクールバッグを連れて自分の席に移動する。教室の席も、リモート組の空席をはさんで、ソーシャルディスタンスだ。
本鈴が鳴ったら、すぐ担任が入ってきて、教室を見渡して出欠を確認する。担任の口からも、期末考査という言葉が出て、うんざりした。ギリでも赤点回避すれば何でもいいだろうが。ホームルームを淡白に済ました担任がいなくなると、俺はぼんやり頭の中を揺蕩う眠気に目をこすった。
それでも、今日はいい日だ。彼女と挨拶を交わせた。女子大生に高校生ってありなのかな、成人と未成年に別れるからやばいのかな、といつも通りの思索を巡らせて、授業などまったく聞かない。
──もちろん期末考査の俺の答案はさんざんなものになり、母親をブチ切れさせるにはじゅうぶんだった。
「だから、あれだけ勉強しなさいって言っておいたでしょう!」
帰宅して着替えたあと、期末考査の点数が一覧になったシートをかあさんに渡した。平均点以下の数字が並ぶその結果に、かあさんはみるみる顔を引き攣らせる。ついで、俺の名前を呼ぶと、鬼の形相でそう続けた。
俺はスルーして、アイスを求めて冷凍庫を開けようとする。しかし、「茉樹、ちゃんと聞きなさいっ」とかあさんは俺の肩を鷲づかみにする。
「あんた、進路とか将来とか考えてるの?」
「先のことは、そのとき考えればいいじゃん」
「それじゃ遅いの。後悔するの。茉樹が困ることになるから、おかあさんもこんなこと繰り返し言ってるんだよ」
「別に、そこまで心配しなくていいけど……」
「じゃあ、心配しなくていいぐらいの勉強はしなさい!」
俺はため息をつき、無限ループになりそうな説教に目をそらした。
窓のレースカーテンは、鮮明な橙々色が透けている。蝉の声がまだ響いていて、夕暮れはまだ少し揺蕩っていそうだ。リビングの冷気が足元に緩やかに這っていても、ダイニングは暑い。
「かあさん」
エプロンはまとっても、まだ夕食の準備にも取りかかっていないかあさんに、俺は顔を向けた。
「俺、頭悪いと思うんだよ」
「……何言ってるの?」
「できないもんはできないし、期待しないほうがいいよ」
「茉樹ならできるでしょう! 少なくとも、平均点くらい──」
「俺は平均以下なんだよ。あの高校を勧められたんだから、分かるだろ」
「………」
「息子が出来損ないとか認めたくないのは分かるけど、理想押しつけられるのはきつい」
「本当に……そう思うの?」
声を震わせるかあさんに、「思うよ」と俺は淡々と答えた。その瞬間、かあさんはすごく哀しそうな顔で手を振り上げようとした。
だが、「おかあさん」という落ち着いた声が割って入る。振り向くと、ダイニングの入口に、帰宅したらしいスーツすがたのとうさんがいた。
「茉樹にそんなことをしたら後悔するぞ」
「でも、この子っ……」
「ああ、聞いてたよ。茉樹もおかあさんに謝りなさい」
「……何で」
「お前が自分のことを投げやりに思うのは勝手かもしれない。でも、かあさんを哀しませていいわけじゃない」
「……哀しませるつもりは」
「自分の子供が『俺は出来損ない』と言うのは、とうさんも哀しいぞ」
「………、」
「『やればできる』と言いすぎるのは、あまり良くないかもしれないが──お前は本当にできないのか?」
「できないよ」
「勉強が嫌いとか、面倒とかじゃないんだな?」
思わず口ごもると、とうさんはこちらに近づいてきて、うつむくかあさんの肩をさすった。
【第二話へ】