Koromo Tsukinoha Novels
「茉樹くん、あれから親御さんと喧嘩したりしてない?」
「口論は減ったかもしれないです」
「話聞いてると、おとうさんとか茉樹くんを想ってらっしゃるなあと思うよ。茉樹くんのことがどうでもよかったら、高校辞めろなんて逆に言わないよ」
「俺はビビりましたよ」
「獅子は我が子を千尋の谷に落とすの。いいおとうさんだと思う」
「……そうなんですかね」
「私たちのおとうさんは、違ったよ」
俺は深光さんを見て、「おねえちゃんが、私の親代わりなんだよね」と座卓で向かい合った深光さんは、また哀しそうに微笑む。
「両親、私が小学生のとき、離婚してそれぞれの相手のところに行っちゃって。ここ持ち家だったから、住む場所はあったけど、ほかは何にもなくなっちゃって──おねえちゃんが高校辞めて働いて、私のこと育ててくれたの」
「そうなんですか……」
「私も大学なんて行ってる場合じゃないのに、おねえちゃんが『行っておきなさい』って言ってくれるから、甘えて通わせてもらってる」
「優しいおねえさんなんですね」
「うん。私が大学出て就職できたら、おねえちゃんにはゆっくりしてほしい。仕事がいそがしいせいで、高校行ってたときの彼氏に振られちゃったのも知ってるし……恋愛もしてほしい」
「美糸さんなら、もっといい男に出逢えますよ」
「そうだよね。支えてくれる人がいるよね」
そんなことを話していると、ほんのり生姜っぽい匂いがただよってきた。美糸さんがお盆に乗せて持ってきたのは、冷やしたゆで麺に、薬味でトマトやきゅうりといった夏野菜を混ぜ合わせた、冷やしうどんだった。
「こんなうどん食べたことない」と俺が素直に言うと、「簡単に作れる奴だけど、おいしいの」と美糸さんはにこっとしてくれる。麦茶のそそがれたグラスも持ってきてもらうと、三人で食卓を囲む。俺の家では、うどんは基本温かいから、食べてみると新鮮な味だった。
「深光、茉樹くんに、私が高校時代の彼氏に振られた話してたでしょ」
「あ、聞こえちゃった?」
「聞こえてました。もう、いまさらなこと憶えてるんだから」
「私は今でも、あの人許せないんだもん」
「普通重いでしょ、高校中退して働くことにしたなんて」
「それ以来、おねえちゃんの恋バナ聞かないしー……」
「はいはい。深光が大学まで出たら、婚活もやってみようかな」
「それ、約束だからね。茉樹くんも証人として聞いたから」
美糸さんは楽しそうに咲って、ほんとにいい人がいるといいな、と俺も一緒になって咲いながら思った。美糸さんが幸せになったら、きっと深光さんはもっと笑顔になってくれるだろう。
深光さんは──俺が幸せにするとか、ありなのかな。もちろんそれを聞くことはできなかったけど、そうできたら俺も幸せなのにと思った。
ときおり、深光さんと美糸さんの家を訪ねるようになった。いきなり訪ねることはもちろんしなくても、メッセで『お邪魔していいですか?』と深光さんに問うと、『もちろんおいで』とか『今は留守だから夜にね』とか、気さくな返答が返ってくる。
そして、深光さんに勉強を見てもらったり、美糸さんの料理をいただいたりしてるのを知った俺の両親は、「そういうのは早く言いなさい」と俺を小突き、慌ててふたりの家へ挨拶に行っていた。交流をどう言われるかどきどきしたけど、深光さんと美糸さんのことを両親も気に入ったようで、「たまには、うちにもいらしてください」とナイスなことも言ってくれたらしい。
そんなわけで、ふたりとは自然と、家族ぐるみみたいなつきあいになっていった。娘がいない両親と両親がいないふたりは、いい感じに噛み合ったみたいだ。そして、みんなで俺をかわいがったり、揶揄ったり、時にはしかってくれたりする。
今年も残暑がずいぶんと長引いた。秋という季節は知っているが、秋だなあ、と感じたことは、俺は生まれて此の方ない気がする。十月までみっちり暑くて、さんざん気をつけるよう言われていても、ハロウィンには密になって騒ぐ奴らがいる。そして十一月になり、不意に朝晩の冷えこみに気づく。そしたら急いでクローゼットから冬服を引っ張り出しておかないと、あっという間に、暖房が必要な寒さが舞い降りてしまう。
二学期の期末考査ではなかなか頑張った結果が出て、放課後、電車の中で一番に深光さんにメッセで報告した。
『よかった!
お互いおめでとうだね』
『深光さんもいいことあったの?』
俺もついに、深光さんに敬語が抜けるくらいになっていた。今、深光さんに一番近い男は俺だ。つきあえるのも夢じゃないかも。本気で、そう思っていたのに──
『実は、好きな人にクリスマスデート誘われたの』
……え?
そんなメッセを受信したスマホを見つめ、まばたきが止まった。喉がぴくりと痙攣した。周りの雑音が急に聞こえなくなったのに、がたん、ごとん、と電車の揺れだけは妙に耳に残る。
深光さん、に、好きな……人?
ゆっくりと染みこんでいくように、その染みが広がっていくように、冷たい事実が俺の心を漂白していく。
その白が、急激にでたらめな黒に塗りつぶされていって──ぷつんと、脳内で脈打っていた線が、切れた気がした。
深光さんとクリスマスにデートした男は、もちろんその日に深光さんに告って、あっさり彼氏になった。
深光さんと同じ大学に通う男。深光さんと同い年の男。深光さんと長く友人だった男。俺には追いつけないその大人の男の名前は、「それで、朔馬がねー」とのろける深光さんの口から知った。
「おねえちゃんとか、茉樹くんにも挨拶したいって言ってるんだけど」
「私は構わないけど、茉樹くんも?」
「うんっ。だって、私たちの弟みたいなものじゃない」
「深光にはそうだろうけど。茉樹くんとしてはどう?」
「えっ……と、……俺は、邪魔じゃないかな」
「そんなことないよ! 安心して。朔馬は高校時代から私と仲いい奴だし、安心して大丈夫」
「そ、そっか。じゃあ……」
「茉樹くん、三学期になったらいろいろいそがしくない?」
俺はうつむきがちのまま、美糸さんを見る。この人は俺の気持ち気づいてるのかな、と何となく思った。そして可哀想に感じて、気遣ってくれているのだろうか。
俺は小さく眉間に皺を寄せ、それをすぐにほどくと、明るい表情を作って顔を上げた。
「大丈夫。三学期も進路とか考えていくけど、そんなん、高二の三学期よりマシだと思うし」
「そうだよね。茉樹くんも朔馬と仲良くなれると思うんだ」
「深光さんを、支えてきてくれた人だもんね」
「うんっ。だから、私も朔馬をふたりに紹介したいの」
「はいはい。でも、深光にそんな大事な人がいたなんて知らなかったなあ。ね、茉樹くん」
「あ……確かに」
「大事な人っていうか……友達としか思われてないと思ってたし、片想いの人なんて、紹介できないよ」
「そうかなあ」
「え、おねえちゃんも何だかんだで職場に好きな人とかいるでしょ。茉樹くんも」
「……俺は男子校なんで」
「そうだったか。でも、友達と遊んだとき、かわいい女の子に声かけたりしない?」
「茉樹くんはナンパなんてタイプじゃないでしょー。胸に秘める感じだよね」
俺は引き攣った笑みをもらしながら、あんまり深光さんが感づくようなことは言わないでくれと焦る。もう遅い。俺の気持ちが深光さんに伝わっても、もう遅いのだ。
その後、俺と美糸さんは、深光さんの彼氏である朔馬さんと顔を合わせた。黒い短髪、背も高くてきりっとした顔立ちなのに、人当たりは柔らかい。というか──言い方は悪いが、飄々としていて軽い。
「俺のことは兄貴と思ってくれなっ」と屈託なく言われて、何でだよ、と苦々しくなったが顔には出さなかった。朔馬さんがそう言うのも、仕方ないのかもしれない。深光さんは、すっかり俺のことを「弟分」と朔馬さんに説明しているようだから。
「深光の彼氏としては意外かも」
「え、そうかな」
「おねえさんに反対されたらつらいっす」
「反対はしないけど。何か……そっかあ、こういう人が深光は好きなんだね」
「好きとか、そんなん改めて言わないでよっ」
「えー、いいじゃん。深光は俺みたいなのが好きなんだなあって嬉しいじゃん」
深光さんは、朔馬さんのような人が好き。そう思って朔馬さんを見ると、ぜんぜん俺とはタイプが違うから、改めて愕然とする。俺は本当に「弟」だったのだ。深光さんの対象でさえなかった。
何で。何でだよ。カビみたいな黒が、じわじわと胸の中を冒していく。こんな軽そうな奴より、俺のほうがずっと真剣に深光さんを想っているのに。
弟なんて言い方やめろよ。つらいよ。そんなに無邪気に、俺の心を黒いクレヨンで塗りつぶさないでくれ。
学期末考査の前、深光さんが勉強を教えてくれることになった。久しぶりにふたりきりになれるのかな、と思ったら、深光さんの家には朔馬さんもいた。
邪魔なんだけど、と思ったのも束の間、朔馬さんが俺の勉強をかなり真剣に見てくれて、「朔馬、家庭教師のバイトやってるから教えるのうまいでしょ」と深光さんはにっこりとした。
悔しいけど、確かにむちゃくちゃ分かりやすかった。しかし、俺のレベルも知られることになっているのが、屈辱に近いほど恥ずかしかった。別に、朔馬さんは笑ったりしないのだけど。
俺のシャーペンが止まると、まじめな顔で「分かんない?」と優しく尋ねてくれる。俺はおずおずと、どこか分からないとかここがつっかえるとか言って、そしたら朔馬さんは噛みくだいた解説をくれる。そして俺のシャーペンがまた動き出すと、「飲みこみいいから伸びるなー」とか褒めてくれる。
朔馬さんの温かい光に当たるほど、俺の心はどんどん暗く陰っていった。
学期末の試験の結果は、学年の上位として張り出されたくらいだった。でも、それは俺の実力でなく、朔馬さんの成果である気がして、むしゃくしゃするだけだった。白紙答案でも出してやったほうが、すっきりしたかもしれない。
終了式を経て春休みになり、俺は夢を見た。
深光さんを、暗くて地下牢に閉じこめる夢だった。窓もない狭いそこは、どこからか水もれしているみたいに、じっとり濡れて冷たい。
訴えてくる瞳を見たくないから目隠しした。何か言ったり叫んだりしないように猿轡をかました。足枷も。手枷も。首枷まで。
深光さんの自由を切断したあと、湿った床にその顔面を抑えつける。そして後ろから、ひどく乱暴に、一方的につながって──
はっと目が覚めて、蕩けるようなだるさが腰にまとわりついていて、夢精していることに気づいた。俺は起き上がって、顔をゆがめると、後始末より膝を抱えこみ、声を殺して泣いた。
ひどい夢だった。なのに、俺はどこかで、ひどい夢だと思えなかった。本当に、深光さんをあんなふうに監禁し、俺だけのものにしてしまえるなら──したい、と思った。
ああ、友達とDVする奴はないだろとか笑っていたはずなのに。どうして、俺の中にこんな欲望が芽生えてくるんだ。好きな人を縛って、犯して、何なら殴ってでも俺のものに……
そうだ、深光さんを俺のものにしたい。そのために重い鎖につなぎたい。犯して分からせてやりたい。俺を踏みにじったぶん、俺の想いを思い知らせて、さんざん泣かせて、「朔馬とは別れて、茉樹くんとつきあう」って言わせたい。
深光さんは俺のものだ。そうだ。あの人がそれを望まなくても、俺がそれを望むのだから。
心にとめどなく打ち寄せていた黒が、急激に両目にあふれる。肌寒い春の深夜、寝汗が気持ち悪いベッドの上で、俺は確かに瞳の中に闇が灯ったのを感じた。
──秋も感じられないが、春もあんまり肌に感じたことがない。ただ、桜の開花は年々早くなっている。
ストーカーってメンタル強いな、と思いながら、俺はとぼとぼと夕暮れが溶けて夜になりはじめた帰路をたどっている。
手始めに、俺は深光さんのストーカーになろうと思った。ストーカーって、なろうと思ってなるものなのかは分からないけど。
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