Koromo Tsukinoha Novels
「初めては鷺乃のほうがいいとか、少しでも、思う?」
「……分かん、ない。でも、緋咲が優しくしてくれるのは分かる」
緋咲はしばらく動かなかったけど、ふと唇を噛むと、「……これはずるいな」と身を起こした。私を離れてベッドを降り、つくえに置いた眼鏡をかけなおす。
私ものろのろと軆を起こす。心臓が、思うよりばくばくしている。ほんとに、されるかと思ったから──
「由麻」
緋咲を見た。緋咲は私をまっすぐに見つめてくる。
「俺は由麻を大事にするよ」
「え……」
「だから、俺じゃダメか?」
とまどって視線を伏せる。
大事に、された。確かに今、私は緋咲にとても大事にされた。押し流すように、奪ったりしなかった。
そうしようとさせてしまったのは、可哀想だから鷺乃を選んだほうがいいかも、みたいな話を私がしたからだ。分かっている。
緋咲にしたら、それはもっとも耐えられない選択だろう。誰よりも、鷺乃のために。
「もし、緋咲を選んだら」
「うん」
「それは、鷺乃を振るってこと?」
「……俺はきちんとそうしてほしい、かな」
顔を上げられなかった。うなずけない。そんなに簡単に、うなずけない。
誰も傷つかないなんて、無理なのだろうか。そしてその傷は、鷺乃がひとりで負うしかないところにきているのだろうか。
六月になって、梅雨になった。毎日重苦しい雨がむしむしして、湿って苔生した匂いが立ちこめ、でも植物は目薬より目に沁みる鮮明な緑だ。
傘が雨粒の音を奏でて、私はひとりで住宅街を歩いて帰宅していた。この天気のせいで、空気は蒼く薄暗い。帰ったら制服早く干さないと、と思って前方に自分の家を見つけて、はたと立ち止まった。
私の家の前に、傘をさした男の子が突っ立って、二階を見上げている。
「鷺乃」
はっとこちらを見たのは、やはり鷺乃だった。気まずそうにしたけど、「よう」と一応挨拶はしてくれて、逃げたりはしない。私は鷺乃の元に駆け寄り、「何か、久しぶり」と言った。
「ああ……家に引きこもってた」
「引きこもったほうが、おじさんとおばさん心配するでしょ」
「雨だから仕方ないかって」
「はは。いいなあ、鷺乃のおじさんとおばさんって」
私が笑っても、鷺乃は笑わずにうつむいてしまう。
私は鷺乃の腕や足元が濡れているのに目を止めて、もしかしてずいぶんここに立っていたのかなと思う。だとしたら、家に招いて風邪をひかないようにしたほうがいいだろうか。
私がそれを口にしようとしたとき、鷺乃はうなだれるまま言葉を切り出した。
「緋咲に、言われた」
「えっ」
「もっと、しっかりしろって」
「………、」
「憐れまれて選んでほしいのか……って」
鷺乃の声が震える。あ、と思ったときに、鷺乃はこぼした。涙でなく、笑みだった。今にも泣き崩れそうな、壊れそうな笑顔だった。
「ほんと、だよな」
「あ……、わ、私、」
「緋咲が、いいよ。きっと。緋咲を選んだほうがいい」
「鷺乃、」
「それだけ、言ったほうがいいかって。ほんとに、それだけだから。じゃあな」
鷺乃はそう言って、自分の家へと歩き出した。私は慌てて鷺乃を追いかけて、その手をつかんだ。
「違う、私──違うの」
「違うって」
「あ、……ま、まだ、そんな、決めてない……というか」
「決めてないなら、緋咲にしろ」
「鷺乃──」
「緋咲と幸せになれよ。俺はそれでいい。俺のことは気にしなくていいから」
鷺乃はやや乱暴に私の手を振りはらい、十歩も歩かずに自宅の前に着くと、家に入っていった。一度も振り向かなかった。
ばたん、と玄関が閉まった音と同時に、ざーっという雨音が鼓膜を砂嵐のように圧してきた。
これで……終わり?
これが、答え?
このまま、私が緋咲を選べばいいの? いや、きっとそうしたら、鷺乃とはかけはなれてしまう。それは嫌なのに、鷺乃を引き留める言葉も行動も思いつかない。このまま、鷺乃のことは失うしかない? そのぶん緋咲が寄り添ってくれて、私はそれで満足?
鷺乃の泣きそうな笑みが、脳裏に残像する。あんな顔をさせて、私は最低だ。やはり、私はどちらも選ばないほうがいいんじゃない? 私と緋咲だけで幸せになるなんて、鷺乃だけ仲間外れなんて、そんなのは私たちじゃないよ。
何か方法はないの? どうしても無理なの? だったら、せめて泣くのが私だったらよかったのに。
朝は相変わらず、緋咲がラッシュの混雑から守ってくれる。「ラッシュ嫌じゃないの?」と訊くと、「由麻をこうできるからいいよ」と緋咲は咲って私を抱きしめる。制服が夏服になって、体温も感触も生々しくなって落ち着かない。私は緋咲のいい匂いに顔を伏せ、鷺乃のことを考えた。
どうして、緋咲は私の相談を鷺乃に告げたのだろう。鷺乃を傷つけてでも、私を手に入れたいのだろうか。もうふたりは元に戻れないのかもしれない。あるいは、私がはっきりしたら、ふたりとも気持ちにもケリがついて、また親しくしてくれるのだろうか。
鷺乃。
緋咲。
選べない、選びたくない、でも、選ばなきゃ本当に鷺乃と緋咲がかけはなれてしまう。
私は緋咲のベストの裾を引っ張った。「うん?」と緋咲は眼鏡の奥から私を見下ろしてくる。
「お願い、あるの」
「何?」
「鷺乃を切り捨てるようなことは、したくないの」
「切り捨てる」
「もし、鷺乃と今まで通り、友達でいてくれるなら、私……」
緋咲は私を見つめ、少し頭を撫でてくる。なぜかその手つきに泣きそうになる。
「私のせいで、鷺乃と雰囲気悪くなってるでしょ」
「まあ、鷺乃のほうは、俺も由麻を想ってたのが理不尽そうだな」
「でも、鷺乃も子供じゃないから、私が緋咲を選んだって言えば分かってくれると思う」
「……え。え、今──」
「絶対、鷺乃をひとりにしたくないの。私が決めたことなら、納得してくれると思うから」
「鷺乃のため?」
「違う。何というか、今の状態はすごく嫌。緋咲も鷺乃も、ほんとは選べない」
緋咲の瞳がそそいでくる。蒸し暑い満員電車の中でする話じゃないけど、抑えた声で私は続ける。
「でも、最初に踏み出してくれたのは緋咲で、私はそれでしか判断できない。それくらい、緋咲と鷺乃はほんとは平等な存在なの」
「それは、俺とつきあってくれるってこと?」
「……ん。でも、私でいいのか考えても──」
言い終わる前に、緋咲は私をぎゅっと抱きしめて、「やった」とつぶやいた。
「俺、由麻の彼氏だ」
「いいの? 緋咲はもっとかわいい彼女も作れるよ?」
「由麻以外、かわいいと思ったことないからいいんだよ」
「鷺乃には、私からメッセしておく。緋咲はただ、鷺乃の親友でいてあげて」
「分かった。俺からはもう挑発しない」
私は緋咲の胸にこめかみを当て、その匂いにぼんやり意識を泳がせる。もうすぐ降りる駅だ。
鷺乃にはどう伝えよう。もちろん、対面が一番誠意だと思う。でも、私との会話を拒絶して、顔を合わせても鷺乃はさっさと切り上げるかもしれない。電話は出ないと思う。だったら、確実には届くのはメッセかな。
傷つくかなあ、と思うと躊躇いそうでも、いや、きっとこのままはっきりさせないほうが残酷なのだ。
確かに、緋咲は私を大事にしてくれた。このまま、緋咲に引っ張られるほうが私も幸せかもしれない。迫るような真似はしないのだって、鷺乃の優しさだと分かっているけれど、そんなふうにふたりのいいところばかり気にしていたら、キリがない。
先に切っかけを作った緋咲が、私に応えるタイミングを与えてくれた。もう私はそれに乗じる以外、どうすればいいのか分からない。
私と緋咲がつきあいはじめたことは、すぐ周りの公認になった。私の家族も緋咲の家族も、広海を初めとした友達も、「ついに由麻が選んだか」と笑って、祝福してくれた。
鷺乃にも私からメッセを送った。『ちゃんとヒサキとつきあうね』と送ると、『ヒサキとなら幸せになれるよ』『俺も安心した』と二文だけ返ってきた。それでも私たちと鷺乃は友達だよね、と訊きたかったけれど、それは今はまだ、ずうずうしい気がして訊けなかった。
しかし、私と緋咲は恋人同士になったのに、夜や外出で鷺乃も一緒だったら変だ。私さえ決めたら、関係は回復すると思っていたのに、どうしても鷺乃は遠ざかっていった。
緋咲と決めたからには、何となく、最近の鷺乃について人に気軽に訊けない。梅雨で雨ばかり続くから、鷺乃が家の前に座って煙草をふかしていることもなかった。
緋咲とつきあいはじめて一週間ぐらい経ったその日も、湿った匂いが立ちこめ、じっとりとした雨が降りしきっていた。緋咲とは帰りは別々が多く、今日もそうだった。家の前に着き、前方に鷺乃のすがたがないのを確認してから家に入る。
傘をさしていたのに、けっこうスカートや足元が濡れてしまっていたから、おかあさんにタオルを持ってきてもらった。水分をはらい落として、濡れたタオルを洗面所の洗濯かごに入れると、二階の自分の部屋に行って荷物を下ろす。
相変わらず充電が危ういスマホをケーブルにつなごうと取り出し、着信があるのに気づいた。広海からのメッセで、三十分くらい前に来ていたようだ。
『駅で雨宿り中。
さっき、さぎのくんが女子といたよ。
彼女?かな?
見たことある子だからたぶん同中。
ゆあさたち三人って、どうなるんだろって実は思ってたけど、丸く収まってよかった。
今度、ひさきくんも誘って四人でデートしよ♪』
……え。
女の子?
とっさに胸がざわついた。鷺乃と女の子。
彼女って……何それ。聞いてない。何も聞いてない。そういう子ができたら、話してくれると思うのだけど──
いや、今の私たちの距離感だと分からないか。鷺乃に彼女。私はスマホを握りしめ、唇を噛む。
両天秤をかけたいわけではなかった。だから、緋咲を選んだし。それを鷺乃に伝えたし。だから、鷺乃はもう私を忘れて、違う子を見て当然なのに。
どうして、私はこんなに醜いの。いらっとしてる。昔、鷺乃に近づく女の子も、緋咲に近づく女の子も、睨みつけていたときのように。
何だろう。結局、私はふたりとも欲しいの? もうそんなわがままを言う歳でもないのに。
鷺乃の自由だ。鷺乃が女の子とつきあうのを許せないなんて、おかしい。鷺乃は必死に私と緋咲を受け入れてくれたのに、何で私は、こんなに欲張りないらだちを覚えているの?
スマホをケーブルにつなぎ、私服になって、宿題をしようとした。でも、何度もベッドスタンドのスマホをちらちら見てしまう。今に着信がつくのではないかと思っている。それは鷺乃で、彼女ができたという報告で──
強くなる雨脚が耳障りで、ノートの数式はただの字並びで、意味として頭に入ってこない。ため息が自分でも鬱陶しくなってきて、がたっと椅子を立った。
家を出て、傘をさすと人通りのない通りに出る。駆け足で五秒くらい。インターホンを押して、反応がなかったら帰ろう。鷺乃の両親は共働きで、おねえさんは大学生になって家を出ていて、もし反応があったらそれは鷺乃だ。
傘の柄をきゅっと握って、鷺乃の家を見上げる。重い雨粒が傘ではじけている。アスファルトを踏みしめると砂利が音を立て、いないかな、と応答のないインターホンを見た。
いや、もしいたとして、顔を合わせて、私は何を言うつもりなのだろう。
彼女ってほんと? いつからつきあってるの?
ああ、鷺乃はすごかったんだな。幸せにとか。安心したとか。私ではとても言えそうにないことを言ってくれた。鷺乃がすごく優しかったことが、今になってひりひりする。
泣きそうになって顔を伏せて、家に戻ろうとした。そのとき、がちゃっと音がしてはっと顔を上げる。
鷺乃の家の玄関が半開きになり、その隙間から鷺乃が顔を出した。「鷺乃」と思わず呼んでしまい、鷺乃は臆したようでも、「よう」といつも通りの挨拶をしてくれる。
私は勝手に庭に踏みこみ、鷺乃がいる玄関に駆け寄った。見上げる角度が、また急になった気がする。「いたんだ」と言うと、「今帰ってきた」と答えた鷺乃にどきんとする。
鷺乃は制服すがたではなかった。もう着替えただけ? それとも、学校なんか行かずに、どこかで──
【第五話へ】