片想い-2

 このバーは、終電がなくなる前に閉店する。ママはこのあと本店に戻って三時まで営業する。それについていく客もいれば、お開きにする客もいる。
 俺と麗乃は「じゃあまたー」とママに手を振って、閉店が並んで静まり返った商店街を抜けて駅に向かう。
「ホテル行こうよー」とか麗乃はあきらめないけど、「楓が待ってると思う」と俺は俺であきらめない。「ちぇー」とか言いつつ、麗乃は強引な手段には出ないから、俺の気持ちが揺るがないことをどこかでは分かっているのかなあと思う。
 気だるい夏風が流れた中、「また会ったら愚痴聞いて」と言うと、「絶対落としてやる」と麗乃は舌を出して、違う路線の改札に向かっていく。俺は肩をすくめて、地下鉄の入口から階段を降りていく。
 家に着くのは二十三時半をまわる頃だけど、家の明かりはまだついている。とうさんもかあさんも兄貴もすでに寝ていても、いつも楓が俺の帰りを待っている。玄関とか、リビングとか、痺れを切らすと俺の部屋に勝手に入って、ベッドで半分寝ている。
 その日は階段に座って壁にもたれ、うつらうつらしていた。スニーカーを脱いで家に上がり、「楓」と声をかけると、はたと楓は顔を上げる。
「咲くん」
 俺はジーンズのポケットに手を突っ込んで、楓を見下ろす。
「風邪ひくぞ」
「今帰ってきたの?」
「そう」
「遅いよお……」
「それは俺の勝手です」
 楓を立ち上がらせようと脇に腕をさしこむ。すると楓は俺にしがみつき、胸に顔を押しつけてきたからどきっとしてしまう。「咲くん……」とか甘えた声を出されて、やばい、と発火して跳ね上がる心臓に焦る。
「何で不良なんかになっちゃったの……」
「いや、だから別に不良では」
「離れていかないでよ」
 楓がぎゅっと俺に抱きついてくる。冷えた廊下で、楓の体温が伝わってくる。
 離れていくな、なんて──そんなの、俺の台詞だ。この気持ちを知ってもお前が離れていかないなら、俺は、全部打ち明けて楽になるのに。
 でも、やっぱり俺の想いを知ったらお前は「気持ち悪い」って遠ざかるのだろう。
 俺は楓の頭を撫でると、「早く家帰れ」と軆を離した。楓は首を横に振って、「咲くんの部屋に泊まる」とか言ってくる。そんなことをされたら理性と欲望が死闘することになる。
 寝ぼけた楓が言い出したら聞かないのは知っているし、仕方なく「部屋まで送って、寝るまでそばにいるから」と言う。楓は俺を見上げて、「ほんと?」とやっと嬉しそうに咲う。「ん」と俺は楓と手をつないでやり、すると楓もぎゅっと俺の手を握った。
 その手の感触に、泣きたいくらいどきどきする。ほんと俺って楓に弱い、と思いながら、俺は楓の手を引っ張って隣の家に向かうことにした。
 楓との微妙な距離にいちいち揺れながら、季節は春雨を終えて初夏になった。気温が毎日上昇し、早くも熱中症の心配が出てくる。連休が終わり、準備期間一週間でばたばたと体育祭が過ぎると、中間考査のことを考えなくてはならなくなる。
 楓には不良とか言われるけども、決して俺はそんなものではないので、まじめに対策用紙をかき集めて範囲の広さに泣く。「勉強教えて」とめげない楓が訪ねてきても、人に教える前に自分が由々しい。黙りこんで課題を睨みつける俺を眺めた楓は、「試験嫌いだけど嬉しい」とよく分からないこと言って微笑む。
「何ですかそれは」
「咲くんが夜遊びに行かないもん」
「終わったら行くけどな」
「全教科平均点取れたら、僕も連れてってよ」
「楓が行くような場所じゃありません」
「何それー。うー、やっぱり彼女と会ってるんだあ」
「いねえわ」
「彼女できたら紹介してくれる?」
「紹介してどうする」
「咲くんに相応しいか僕が見る」
 俺は課題から顔を上げて、楓を見た。「咲くんは僕が認めた子としかつきあっちゃダメ」と楓は頑として俺を見つめ返し、俺は首をすくめると課題に向き直る。
「どこが分かんねえか決めとけ。見てやるから」
「うんっ」と楓は教科書を広げ、問題にチェックを入れていく。楓なりに、俺に執着してくれている。それは分かる。なのに、なぜ俺はそれで満足しないのだろう。こんな気持ちを持っていて、嫌われていないだけ、きっとマシなのに。
 中間考査が終わると、「平均点取ったー!」とじゃれてきた楓のゲームの相手をしたりしつつ、その目をくぐってバーにも向かった。
 梅雨が近い。空気が蒸して、曇った空の匂いはしけっている。傘持ってこなかったけど大丈夫かな、とか思いつつバーの扉を開けると、「久しぶりー!」と麗乃に抱きつかれそうになった。おなじみなので、すっとそれはよけておき、洋楽が流れる中、俺はカウンターの席に着く。
 ママに挨拶しようと顔を上げたら、瓶やグラスが棚に並ぶカウンター内にいたのは、まだ中学生くらいの見知らぬ少年だった。え、と思っても言わずにいると、「ママが雇ったらしいよー」と麗乃が俺の隣のスツールに座って脚を組む。
朋司ともしくんだっけ?」
 話しかけられて、水切りのグラスを並べていたその子は、愛想よく笑顔を作る。
「はい。この人がさっき話してた人ですか」
「そお。咲里っていってねえ、落ちないんだわー」
「咲里……さん」
 俺はその子のツンツン跳ねた髪形やぱっちりした瞳、太い眉とか筋骨ができはじめている軆を眺め、「成人してんの?」と首をかたむける。
「十三歳です」
 飄々とグラスを拭きはじめる朋司に、俺は手にしていたメニューをばさっと置いた。
「じゅっ……え、どうなんだよ。OKなのか? 十三歳がこの仕事いいのか?」
「知らん」
 さほど気にしてない様子で、赤いカクテルを飲む麗乃は答え、「ママが事情汲んでくれて」と朋司が説明する。
「ママの親戚?」
「本店で知り合って、こっちの手伝いしてくれる人を探してるって聞いたんです。だから、売り専の店から飛んできました」
「ぶっ飛んでんな。学校とか行ってない感じ?」
「行ってますよ」
「中学生?」
「中二です。さすがに高校進学は無理ですし、今のうちだけ」
「はあ……詳しく聞かないけど、頑張れよ」
「どうも」と朋司は人懐っこく咲い、すごいのもいるんだなあ、となんて俺はメニューに目を落とす。カクテルは色とりどりあっても、俺はまじめにソフトドリンクの欄を目でたどる。
「咲里さん」
 朋司の声に顔を上げる。
「俺からも咲里さんに質問いいですか」
「ん、何」
「ねえねえ、俺を放置してるの気づいてる? 寂しいんだけど」
 割りこんだ麗乃に、「こいつは気にしなくていいから」と巻きつこうとする腕をはらっていると、その様子を眺めてから、朋司は思い設けないことを言ってきた。
「咲里さんって、楓の兄貴分の咲里さんで合ってます?」
「……は?」
 ぽかんと朋司を見ると、朋司はにっこりとして言う。
「俺、楓の友達なんですよね」
「な……んだと」
「えっ、えっ、楓くんって咲里の幼なじみの? 俺の宿命のライバル?」
「今クラスメイトですよ。よく話します」
 にこやかに麗乃に応じる朋司に、「へー、そうなんだ」とか麗乃はあっさり納得しているが、俺の頭の中は情報処理が追いつかなくて、発熱が起こるほど混乱してくる。
 知られた。楓のクラスメイトに知られた。ここはゲイバー。ばれる。楓にばらされる。そう、俺が夜な夜な通っているのは、こんな場末の──
 俺はテーブルをたたいて立ち上がった。
「うおっ、どうしたよ咲里」
「話を、して……」
「は?」
「麗乃じゃなくて。お前。何でそんな、クラスメイトがここに来るとか、楓には俺がここにいるって──」
「日本語が成立してない」
「楓には何も話してませんよ」
「よしっ! そのまま話すなよ? 俺がゲイバーに来てるとか、絶対に楓には秘密だ」
「何でですか?」
「察しろ」
「実は好きなんですか」
「言わんでいいだろうがっ」
 朋司はにやにやしてから、水滴を拭ったグラスを背後の棚に並べていく。
「楓、かわいいですもんねー」
「それ、は──……まあ」
「咲里さんに負けないように、早く俺が手出ししないとですね」
「はあ!? いや、楓はゲイじゃねえし、男なんか受けつけないし、ヒカれるし、そんな、玉砕するだけだぞ」
「すごいネガティヴですね。俺は後悔するよりって思います」
「友情失っても?」
「俺はもう友情は失ってるんです。恋愛感情なんですから」
「君、そもそも楓のこと好きなの?」
「入学式に一目惚れしました。ほんとは学校行ってる時間も働きたいんですけど、楓に会うためにまだ行ってるんです」
 俺は朋司を見つめた。それは、どうも環境が厳しいらしい朋司にとって、最大の愛情に思えた。
 がくんとスツールに体重を落とす俺に、「楓はよく咲里さんの話をするので」と朋司はどこか優越がちらつく口調で続ける。
「咲里さんが応援してくれたら、嬉しいんですけどね」
 ……あ。こいつ、俺の心の中、分かってるな。楓が好きだって気持ちも、抑えるしかないって考えも。分かって、自分はそれを乗り越えてみせて、楓を奪おうと──
「まあ、気持ち封じて、咲里さんがライバルにならないなら安心しました」
 屈託なく笑ってみせた朋司に、俺はちりっとこめかみに小さな感電を覚えて舌打ちした。
 ついでスツールを降りてドアに向かうと、「咲里」と麗乃が追いかけてこようとする。「また来るから」と俺はひとりでバーを出た。
 まだ雨は降っていない。商店街にもほんの少し人がいて、街燈も灯って駅までの通りは明るい。つかつかといらだった足音を立てて歩きながら、朋司の綽々とした笑顔が焼きついて心が痛痒い。
 楓にあんなクラスメイトがいるなんて知らなかった。本当に、ぜんぜん知らなかった。楓に目をつける奴。男でも、女でも、性別はどっちでも。

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