片想い-3

 楓はかわいい。惚れる奴はほかにもいるだろう。なぜ考えなかった。そうだ。俺は楓を避け、いつしか楓を何も知らなくなっている。なのに、どこかでは思っていた。楓に一番近いのは俺だ。それは、もはや思いこみなのだ。
 俺は楓を何も知らない。もし楓が朋司とそういうことになり、俺のことを放り出したら、幼なじみの絆なんてたやすく蒸発する。
 楓を避けているのは、俺の驕りだ。楓から俺を離れていくことをきちんと考えなかった、思い上がりだ。いつか片想いは終わると思いつつ、しょせん俺は、ずっと楓とこのままでいられると──
「あれ、咲くんっ」
 帰宅ラッシュを少し過ぎた地下鉄で、最寄り駅に戻った。こっちは小雨が降っていた。でもコンビニでビニール傘を買うのも鬱陶しく、そのまま家まで歩いた。
 髪、肩、足元が湿って冷たくなっていく。雨の匂いがひんやりまとわりつく。濡れたアスファルトにスニーカーの足音で水が跳ねた。時刻は二十一時前で、いつもよりかなり早い。
 楓の家と並ぶ自分の家の前で、門扉を開けようとしているとそんな声がかかった。顔を上げると、傘を差した楓が自分の家から出てきて手を振っている。
「どうしたのっ。何で傘さしてないの」
 歩み寄ってきた楓は、ふわっとボディソープとシャンプーの匂いがして、髪も心持ちしっとりしている。
「今日早いねー。さっさとお風呂入ってきてよかった」
 そう言った楓は、背伸びして俺を傘に入れようとする。「濡れる」と言っても聞かずに俺の身長に腕を伸ばす。
 仕方なく俺は傘をもぎとって、楓を入れて雨をさえぎった。至近距離の楓の湯上がりの匂いが立ちのぼって、狼狽えそうにどきどきして、目を合わせるのも口を開くのも恥ずかしい。
 そんな俺を眺めてから、「何かあったの?」と楓は心配そうに俺を服を引っ張る。
「不良の友達と喧嘩したの?」
「……不良じゃねえって」
「じゃあ、夜遊びやめてよ」
「あのなあ──」
「遊ぶなら僕と遊んでよ」
「どうせゲームだろ」
「やってたらおもしろくなるよ」
 俺は雫を落とす髪越しに楓を見つめた。傘に飛び散る雨音が、しんとした心に響く。
 ここで、じゃあ不良やめる、なんて言って。ゲームにつきあう、なんて言えば。楓をつなぎとめられるのだろうか。朋司に奪われることもなく、ずっと楓の一番でいられる?
 俺の視線に、楓は首をかたむける。
「どしたの、咲くん」
「あの、さ。楓」
「うん」
「………」
「咲くん?」
「……やつ、に」
「うん?」
「変な奴に、引っかかんなよ」
「え」
 きょとんとした楓の腕をつかみ、引き寄せると、俺は楓に淡いキスをしていた。すべての音が消えた気がした。ただ、楓の首筋から清潔なボディソープがきわやかに匂い立った。
 楓の軆のこわばりがつかんだ腕から伝わってくる。唇から伝わる体温に俺もはっとして、顔を離した。楓が大きく目を開いて俺を見る。
「咲くん──」
「……ごめん、」
 俺はつかんでいた楓の腕をぱっと離し、傘は楓の手に押しつけると、急いで自分の家の門扉を開けた。早足で玄関に向かっても、楓は追いかけてこない。
 濡れた手でドアを開けて家の中に飛びこんだ俺は、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。軆の芯から寒気と不安が来て、ぶるっと震えてしまう。
 ああ、やっちまった。心臓がばくばくと吐きたいほどせりあげてくる。こんなの最低だ。楓には楓のセクがある。それを考えているつもりで、こらえてきたのに。踏みにじったようなものだ。
 ダメだ、確実に嫌われる。
 翌日、学校が終わると、ひとりでファーストフードでハンバーガーを食っていた。今日は雨が降ったりやんだり、今までの俺を演じてくれているみたいだ。今はもう、俺の心は完全なる土砂降りだが。
 切実に家に帰りたくない。こんなに本気で家に帰りたくないのは初めてだ。正確には、隣の家が怖い。いつも通り楓が懐いてきたらどうしたらいいのか分からない。来なかったら来なかったで、昨夜のキスがよほど迷惑だったということでショックだ。
 高校生や大学生の客でにぎやかになってきても、ずいぶんそこでずうずうしくぼんやりしていた。かあさんからメッセが来て、それに友達と食ってくるから夕飯はいらないと答えておくと、ようやく立ち上がった。
 日が陰ってきていて、今は雨がやんでいるから、制服のまま早めにバーに向かった。
「あ、咲里さん。こんばんは」
 店先で開店作業をしていたのは黒服の朋司で、冷静に、とにかく冷静に、と頭に言い聞かせつつ「よう」と言っておく。
「もう入れる?」
「どうぞ。麗乃さんは来てないですけど」
「そのうち来るんじゃね」
 からん、とドアを開けて店内に入る。緩やかに音楽が流れる店には、麗乃だけでなくほかの客のすがたもなかった。少し冷房がきつくても、基本的には酒を飲む場所だから飲んだあとの発熱に合わせているのだろう。
 カウンターのスツールに腰かけ、ソフトドリンクを目でたどったあと、烏龍茶でいいかと頬杖をつく。ボックス席のお菓子や灰皿を整えた朋司がカウンター内に戻ってくると、「烏龍茶」と注文する。
「お酒は飲まないんですか」
「未成年だろうが」
「気にするんですね」
「するだろ、一応」
「楓は咲里さんが不良になったって騒いでるので」
「帰宅遅いのが不良なら、塾行ってる奴は何なんだよ」
 朋司は軽く笑って、烏龍茶をグラスにそそぐと「どうぞ」とさしだしてくる。
 俺はすっきりした苦味を飲み、こいつ楓に昨日のこと話されてないよな、と思う。楓と朋司の仲がどのくらいのものなのか知らないし、楓としても、男にキスされたことを軽々しゃべるとも思えないが。
 というか──何かもう、ガチでやっちまった。鈍器に殴られたような頭をカウンターに沈没させる。
 何でキスしてしまったのか分からない。あの流れでキスって何だよ。変な奴に引っかかるなよって、俺が変な奴ではないか。絶対気持ち悪かったよな。ファーストキスだったりしたら、俺を引っぱたきたいよな。ああ、ずっと温めてきた気持ちが、一瞬にして粉々になってしまった。
「ん、咲里のが早いなんてめずらしいな」
 カウンターでぐったりしていると、背後に麗乃の元気な声がした。ゆっくり上体を起こし振り返ると、「おっ」と麗乃は表情を明るくして俺の隣に腰かける。
「制服じゃん。いいなあ、そそる」
「家帰りたくない」
「いきなり何だよ。ゲイってばれたの?」
「楓に合わせる顔がない」
「告った?」
「………、俺って、気持ち悪いよなあ」
「え、マジで告ったの?」
「絶対ダメだ。無理。ほんともう……クズ」
「なあ、朋司。咲里って何かあったの?」
 麗乃は朋司に尋ねて、「まあ楓絡みでしょうね」と朋司は肩をすくめる。麗乃は俺を眺めたあと、「ねえっ」と腕を揺すぶってくる。
「もう楓くんはいいじゃん。いい加減、俺にしときなよ」
「えー……」
「『えー』じゃなくて。俺は咲里を幸せにするし」
 麗乃は俺の耳に口を寄せる。
「最っ高に、気持ちよくしてあげるよ?」
 俺は麗乃を見た。麗乃は瞳を潤ませて俺を見つめてくる。このまま流されたら楽なんだろうなあ、とは思った。
 半年以上俺を口説き続けるんだから、きっと麗乃は一途なのだろうし。嫌悪されながら楓を想うより、そっちのほうが幸せなのだろうか。
「麗乃」
「うん?」
 俺は麗乃の瞳と見つめあってみたが、急に変な声を出してカウンターに伏せった。「何だよっ」と麗乃は俺の腕をつかむ。「楓が好きすぎる」とかろうじて言うと、麗乃はあきれたため息をついた。
 麗乃に流されたら、と思う。けれどやっぱり無理だ。楓には嫌われただろうけれど、それでも俺は──
 それから、楓を露骨に避ける毎日が始まった。そんなことをしなくても楓のほうが俺を避けるかと思ったら、わりと「咲くーん」とナチュラルに懐いてくるので、俺はとまどいながらも、楓の心を考える前に逃げたり閉ざしたりした。
 バーに行く時間を見計らって家の前で待ち伏せされたとき、「ねえ、咲くんっ」と楓は駅前まで追いかけてきた。どこまでついてくるんだ、と思ったものの、横断歩道で吹っ切ることができて、そのまま置いていった。
 車道越しにちらりと振り返ると、赤信号に邪魔された楓はうつむいて顔をゆがめて、目をこすっていた。
 何、で。俺のことなんか、気持ち悪いんじゃないのかよ。分からない。ただ、つらい。楓を泣かせている自分が嫌いだ。だったら、立ち止まって青信号で楓の元に戻って、確かめたらいいのに。キスされて嫌じゃなかったのか? けれど、「それは嫌だったよ」と言われるのが怖くて、改札へと駆け出してしまう。
 バーにたどりついても、俺はめっきり暗い。麗乃がつついてきても反応できないほど、どんどんみずから楓に嫌われている自分が嫌になる。
 なぜ素直に楓と向き合えないのだろう。今ならまだ、謝ったら許してもらえるかもしれない。楓が俺を追いかけなくなったら最後だ。
 いつも楓は俺を追いかけてきた。それが当たり前だった。振り返れば必死に楓が追いかけてきている。でも、さすがにそろそろ疲れるのではないか? 俺が立ち止まって歩調を合わせないことに、うんざりするのではないか?
「……麗乃」
「んー?」
「楓に嫌われたくない」
「俺はあきらめてほしい」
「話し合いで解決するかなあ」
「俺と寝たらいいと思うよ」
「このままじゃマジでヤバイ」
「咲里」
 麗乃が俺の肩に手をかけ、頭をさすって顔を上げさせてくる。俺は明らかに情けない面をしている。麗乃はふうっと息をつくと、俺の額に額を合わせて間近でささやいてきた。
「俺にしときなよ?」
 いつもよりぐっと大人っぽい声だった。ほのかな香水の匂いにも気づく。
「そんなに悩むなら、楓くんとはどのみちうまくいかないんだよ。だけど、俺は咲里とうまくいく自信あるよ?」
 麗乃の瞳の中にくっきり俺が映っている。
「すぐに楓くんを忘れろとは言わない。俺はずっと聞いてきたから分かってるよ。楓くんもひっくるめて、俺は咲里のこと──」

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