そのときだ。
からん、とドアの開く音がした。でも話したこともない客だろうと気にせず、手負いのような目で麗乃を見つめていた。麗乃とつきあえば、本当に楽になってしまえるのかな──
さすがにそんなことを思っていた。麗乃の名前を呼びそうになった。そんな俺の背中に、いつも追いかけてくるあの声がかかった。
「咲くんっ!」
俺ははっと振り返った。ドアから店に入ってきていたのは、紛れもなく楓だった。
え。え? 何で楓? 本気でここまで追いかけてきたのか?
というか、楓は目を見開いてその場に踏ん張り、見るからに怒っている。楓、と呼ぼうとしたら、その前に楓はこちらに駆け寄ってきて俺から麗乃の手をぱしっとはらった。
「咲くんに触らないで! 咲くんは僕のなんだからっ」
「な、何このお子様」
「うるさいおじさんっ」
「おじっ……ギリ十九歳に、おじさんって何だこいつっ」
「咲くん、この人とつきあってるの? 嫌だよ。咲くんとつきあっていいのは僕だけだよ」
言われていることがとっさに分からなくて、俺はぽかんと楓を見た。楓はそんなほうける俺の腕にしがみつき、「ずっと隠してたけど」と喚く。
「僕、咲くんが好きなんだよっ。男のほうが好きとか、そんなの、嫌われるから言えなかったけど。こんなのとつきあうなら言うよっ。僕は咲くんが好き」
「え……えっ?」
「小学校のときから、自分はゲイだって思ってたよ。咲くんが好きで、咲くんしか興味なくて、女の子なんかいらなかった」
「ええー……と」
「ごめんね、隠してて。咲くんには、僕なんかただの弟って分かってるよ。こんなの、僕の片想いだよね。こういうおじさんのほうが好きなんだよね。分かってるけど」
「いや、おじさんじゃねえっ」
「おじさんじゃんっ」
何だか楓と麗乃が言いあっているが──待て。ちょっと待って。処理が追いつかないぞ。
俺が好き? 楓が? 小学生の頃からゲイ? それは、つまり……
「もうおじさんは黙っててよ。朋司も、ありがとね」
ため息をついて俺を離れた楓は、カウンター内にいた朋司に声をかける。
「でも、やっぱダメだ」
「楓──」
「協力してくれたのに、ほんとごめん」
協力? 意味合いを読めずにいると、俺を離れた楓は店を出ていこうとした。俺はスツールを飛び降りて、その手を取って引き止める。
「分かんないよ」と言って振り向かせると、楓はぽろぽろと涙を落としていた。
「ちゃんと、説明してくれないと。えと、何だ……朋司、お前は楓が好きなんだろ? 協力って何だ?」
「朋司は……」
「あーっ、作戦めちゃくちゃじゃん、楓。もう俺から言うよ?」
うつむく楓に朋司は肩をすくめ、「とりあえずみんな座ってください」と俺にも楓にも麗乃にもスツールを勧めた。麗乃はむくれつつも降りかけていたスツールに座りなおし、俺も楓も並んで席に腰かける。
手を離したら楓は帰ってしまいそうで、俺が手をつなぐままでいると、楓の手がきゅっと俺の手をつかんだ。その体温についどきっとしても、俺はそれを握り返した。「まずは」と朋司が腰に手を当てて解説を始める。
「俺と楓は友達です。裏も何もないただの友達です」
「楓のこと好きって──」
「咲里さんをあおっただけです」
「はっ?」
「もっと言うと、俺は麗乃さんのほうがタイプです」
「はっ!?」と次は麗乃がぎょっとして、朋司はそれににこにこしたあと、俺と楓を真剣に見つめて続ける。
「楓には、咲里さんが好きだってことをずっと相談されてたんですよ。俺が売り専やってることは、学校でうわさになってるんで。男同士を分かってくれると思ったって。俺もそのうわさでは偏見ばっかの中、楓だけ俺に自分のこと打ち明けて頼ってくれたから、ほんと親友だと思ってます」
「……そう、なのか?」
楓を見ると、湿った睫毛を伏せる楓は小さくこくんとする。
「それで、楓は咲里さんがこの店に来てるってことも実は知ってました」
「まっ……じで、か」
「俺が売り専とかしてるのは、結局のとこガチなんですけど。家庭が大変でして。ここに潜入して咲里さんの様子探るのは、ママに協力してもらいました」
「ママもグルかよ……」と麗乃が敵わないといった感じで額を抑える。
「それで、俺なりに咲里さんをあおったり、麗乃さんの存在を楓に忠告したりしてたんです。ちなみに一時間くらい前に、楓に『咲里さんが麗乃さんに落とされるかも』とメッセしときました。だから来たんだよな?」
楓はうつむくまま再びこくんとする。俺はその横顔を見つめて、何だかずっしりしたため息をついてしまい、「何だよー」とテーブルに上体を伏せる。
「嫌われるからって、そんなん、俺も同じだわ」
「咲くん……」
「俺だって、楓に嫌われたらどうしようって、避けたり冷たくしたりしてて。でもやっぱり楓が好きで……」
言いながら、楓を見た。ああ、何かぽろっと言っちまった。でもいいんだよな。大丈夫なんだよな。もう何も怖がらなくていい。
俺は身を起こして、まばたきをする楓と向かい合うと、つかんだ手を握りなおしてその瞳を見つめた。
「俺も、ずっと楓が好きだったよ。弟なんかじゃない」
「咲くん──」
「じゃなきゃ、キス……とか、しないだろ」
「……あれは、これであきらめろって意味かなあって」
「しねえよ、そんなこと」
「じゃあ、僕とつきあってくれるの?」
楓が俺を覗きこんできて、何だか照れて目をそらしたくなったものの、見つめ返してうなずいた。すると楓の表情がぱあっと明るくなって、「咲くんっ」と俺の首に抱きついてくる。俺はそれを抱きしめかえし、「好きだよ、楓」と改めて伝えた。「僕も」と楓は俺の耳元で答える。
「咲くんが大好き!」
その途端、「あーっ!」と背後で麗乃が腕をねじられて耐えられないような声を上げた。
「今、俺の失恋が確定してるからねっ。忘れんなよ、俺が失恋しましたよ!」
「麗乃さん、さっきの俺のタイプって本気ですよ?」
「中学生に言われても嬉しくない……」
「俺、仕事やっててテクニックはありますよ」
「金取られたくないわ」
麗乃と朋司がそんなやりとりを始めるのを横目に、俺は楓の柔らかい髪を撫でる。楓は俺の名前を何度も呼んでしがみついてくる。
やばい。かわいい。どうしよう、楓が好きだ。すごく楓が愛おしくて、でもずっと片想いだとあきらめてきた。こんな気持ちを抱いて申し訳ないとすら思ってきた。
だが、実ったのだ。長年の恋心がついに報われた。抑えつける片想いから、通じあう両想いになった。
「楓」
「うん」
楓が俺を覗きこんできて、俺はその唇にそっと口づけた。楓は俺の服をつかみ、ふにゃっと俺の肩に崩れて「幸せ……」とつぶやく。俺は咲ってしまって、「ずっと優しくできなかったから」と楓を抱きすくめる。
「これからいっぱい甘やかす。覚悟してろ」
楓は俺に抱きついてうなずき、「僕も咲くんにいっぱい甘える」と答えた。そうこうしているうちにほかの客もやってきて、その対応をしつつ朋司は麗乃を本格的に口説きにかかる。「うーるーさーいっ」と麗乃は切れて、俺と楓はそんなふたりに笑ってしまう。
そう、片想いだと思ってきた。この気持ちを知られたら即失恋だと我慢してきた。だが今、俺は楓と手をつないで、これからは相手に対してこの想いに素直になろうと思えている。
楓を好きになってよかった。
そして、楓も俺にそう想ってくれている。
ああ、もう、こんな日が来るなんて夢にさえ見なかった。
楓のことを幸せにしてあげよう。気持ちを隠して優しくなれないなんて、そんな嘘はいらない。好きなだけ抱きしめて「好きだよ」とささやき、めいっぱい、この大切な恋人をかわいがるんだ。
FIN