まろの背を毛並みにそって梳くように撫でながら、僕は今日出逢ったビーグル犬を思い出した。
わらび、だったか。本当に、まろがあんなにおとなしく気に入る犬なんてめずらしい。基本的にまろはほかの犬はスルーだし、構われたらプードルの愛らしさも吹っ飛ばして威嚇する。「惚れたかー?」と笑ってまろの頭を撫でると、指先を甘咬みされた。
あの女の人も綺麗だったな、と思う。正直、高校を卒業して初めて家族以外の女としゃべった。
実はかなり緊張したけど、たぶん自然にこなせた。彼女の薬指の指輪のおかげだ。僕より明らかに年上だったし、結婚しているのだろう。フリーの女の子だったら、妙な意識が邪魔して、どぎまぎとしゃべれなかったかもしれない。
「まろに彼女かー。お前にまで先越されるなんてな」
ぱたんと上半身を倒すと、まろは僕の頭のほうにまわってきて、頬をぺろりと舐める。「こら」と咲うと、今度は首筋に顔を埋めてきて、ふわふわの毛のくすぐったさに、また咲ってしまう。
「また会えるといいな」
くるんとした瞳にそう微笑むと、まろは分かったんだか分からなかったんだか、ふるふると尻尾を振っていた。
それから、夕方の散歩では、ときおりわらびと出くわすようになった。飼い主の女の人はひよりさんというそうだ。ちなみに、やっぱり結婚していた。思わずため息なんかついてしまうと、ひよりさんはくすりと咲う。
「五樹くんなら、すぐ彼女くらいできるでしょう」
「いやー……、何つーか、出逢いがないんですよ」
「大学生くらいじゃないの?」
「大学は……まあ、その、落ちたというか。浪人生です」
本当は浪人生すらやっていないのだが。別にわざわざ愚痴ることでもない。
「そうなの。大変ね」
ひよりさんは突っ込むことはせず、自転車に乗りながら大声でしゃべっていく学生を見送る。足元では、まろとわらびがじゃれている。
時刻は十七時をまわったところで、ここは初めて逢った十字路だ。よくここで立ち話になるが、すぐそこの公園に入るときもある。
まろはそこで放せばきちんと公園内で遊ぶのだが、わらびは「どこに行くか分からない」とひよりさんに苦笑されて放してもらえない。だから、結局まろも足元にいて、放す意味はないのだけど。
今日は髪を左肩にまとめるひよりさんは、僕の背中のほうで無邪気な笑い声をあげて遊んでいる子供たちを見やった。
「子供は元気でいいわね」
「え? ああ、そうですね。生意気だけど」
ひよりさんは咲い、「確か妹さんがいるのよね」とこちらを向く。
「はい。あいつは僕と違って頭いいから、厄介です」
「ふふ。私も妹が欲しかったわ。だから、五樹くんがうらやましい」
「ひよりさんの妹なら可愛そうですね」
「そう? 私が活発じゃないから、おてんばな子になりそうだわ」
「はは」と僕が笑ったとき、何やら後方の子供たちが「きゃー」と声を上げた。
振り返ると、大きなトラックが迫ってきている。子供たちは道路に散らかしたおもちゃを必死にかきあつめ、母親に手を引かれて歩道に避難した。そのままトラックはこっちにやってきて──
「くうん」と急にまろが心配そうな声を出したので、「ん?」と足元を見た。
すると、そこではわらびが、さっきまでの元気はどこにいったのか、きゅっと身をすくめて尻尾を巻いていた。ひよりさんもすぐにそれに気づき、「わらび」とその場にしゃがんで、わらびの頭を撫でる。
「大丈夫よ。ほら、行っちゃったわ」
「え……と、何かあるんですか、トラックに」
「ええ、まあ。この子、大きい物音にすぐ怯えるくせがあって」
僕は意外でまじろぎ、まろはわらびの周りをうろうろする。わらびはひよりさんに軽く抱かれて、それでもいつもはやんちゃな瞳を失神させている。何かをじっと見ているようにも見えた──その何かは、僕には分からなかったけれど。
「ごめんなさい」
ひよりさんは立ち上がり、黄色のリードを持ち直した。
「今日は、これで帰るわね」
「あ、ああ──そうですか。わらび、大丈夫ですか」
「家に戻ったら落ち着くと思うわ。ごめんね」
ひよりさんはわらびを抱き上げた。まろがわらびを追いかけるようにひよりさんの脚に飛びつこうとし、慌ててリードを引く。
ひよりさんはわずかに頬を蒼ざめさせていて、それでも咲って、道を引き返していった。僕は、ややぽかんとしてそれを見送った。
何だろう。ただごとじゃない感じだった。まあ、僕には詮索できないけれど──「きゃんっ。きゃんっ」とまろがひよりさんの背中に吠えている。
僕はしゃがみこんでまろを落ち着かせると、息をついて、またはしゃぎはじめた子供たちの声を遠くに聞いていた。
今週も週末がめぐってきた。休日は嫌いだ。家族が揃っているときほど、居心地が悪いものといったらない。
別にとうさんもかあさんも僕を責めないし、麻矢が揶揄ってくるくらいなのだけど。それでも、勉強も仕事もしていない自分がみじめで、部屋にこもりがちになる。
友達もみんないそがしそうだし、受験に失敗して性格が暗く変わった気がする。休日に遊びに出かけることもない。高校生の頃は、あんなに門限が鬱陶しかったのに。
これが“鬱”って奴なのかも、と自問しながら頭までふとんをかぶる。考えごとをしていると、世界中の充実している奴が憎らしくなってくる。
「『死にたい』って言っていいですかあ」とかつまらない独白をしていると、ドアをノックされた。「誰ー」と死体が起き上がるようなだれた声で返すと、「かあさんだけど」と答えられる。「あー」と意味のない声を垂らすと、起き上がって、いまどき黒い髪がくしゃくしゃになっているのも気にせず、ドアを開けた。
「何ー」
「やだ、また寝てたの?」
「横になってたんだよ」
「まろの散歩、お願い」
「……麻矢は?」
「出かけちゃったのよ」
「っそ。まあ、いいけど」
「よろしくね」
「たまには、かあさんとかとうさんが連れていけばいいのに」
「五樹とのほうが、まろ嬉しそうなのよ」
果たして喜んでいいのか悩みつつ、部屋で軽く身支度し、部屋を出た。
僕が階段を降りはじめたところで、「きゃんっ」とまろが階段の元へ来たのが分かった。踊り場を曲がって一階を見通すと、案の定まろが階下をぐるぐるしている。
「まろは悩みがないなあ」なんてつぶやきながら餌をやると、次は散歩だ。あの日から三日経っていて、わらびとひよりさんには逢っていなかった。
まろは少し寂しそうだ。いつもあの十字路にさしかかると立ち止まり、わらびが現れるのをしばらく待っている。僕はまろの隣にしゃがみ、「待つ恋はつらいねえ」と頭をぽんぽんとしてやりつつ、今のまろには悩みあることになるのかな、と思い直したりした。
翌日の日曜日、相も変わらず僕がまろの散歩に出かけると、いつもの十字路に人影があった。「あ」と僕が声を上げるより早く、まろがぱたぱたと駆け始める。そんなまろに気づいて「わんっ」と元気よく吠えたのは、ひよりさんが連れたわらびだった。
「あ、えっと、こんばんは」
久しぶりなのが何となく恥ずかしくて、もどかしくそう言うと、「久しぶりになっちゃったね」とひよりさんは柔らかく微笑んだ。
「そう、ですね。何かあったんですか」
「ううん。ここのところ散歩の時間が遅くなってただけ。五樹くんとまろくんは、いつもこのくらい?」
「です、ね。餌も一緒にやるんで、もうこいつが体内時計で覚えちゃって」
「ふふ、そっか。まろくん、元気だったかなー?」
ひよりさんは腰をかがめ、千歳飴みたいに繊細に白い手でまろの頭を撫でる。まろもわらびも尻尾をいっぱいに振って、再会を喜んでいる。
わらびは数日前のあの状態の影もなく、元気そうだった。あんまり喜びすぎて、耳が引っくりかえって内側のロースハム色が覗いている。僕がそれを言うと、「嬉しいんだもんねー」とひよりさんはわらびの耳を正してやった。
「まろも待ってたもんなー」
僕がしゃがみこんでまろの頭に手を乗せると、「待ってた?」とひよりさんは不思議そうに顔を上げる。
「何かこいつ、最近ここ通りかかるたびに立ち止まって、しばらく動かなくて。たぶん、わらびのこと待ってたんだと思いますけど」
「そっか……。愛されてるね、わらび」
そのときひよりさんは、とても愛おしそうにわらびの頭をさすった。何となく、印象に残る笑顔だった。
「この二匹、結婚するのかな?」
「はは。どうなんでしょうね」
「まろくんは幸せにしてくれそうだね。わらびには幸せになってほしいな……」
自分は幸せでないような物言いが気になったものの、何とも突っ込めない。
しばらく黙って、自分の愛犬の頭を撫でていた。すると、不意に「くうん」とまろが鳴いて、わらびの前足に顔をうずめた。
「あ……、」
「何、どうしたんだよ、まろ──」
まろと一緒に覗きこんでみて、はっと息をのむ。
わらびの右前足には、白のハイソックスに紛れて目立たない包帯が巻かれてあった。
「包帯……。わらび、怪我したんですか?」
「う、うん。ちょっと。向こうの草むらで虫に刺されちゃったみたいで」
「そうなんですか。病院は」
「一応、行ったわ。塗り薬もらったんだけど、そのままだと、わらび舐めちゃうから」
「そうですか。──痛かったなー」
僕に頭を撫でられると、わらびは心地よさそうに目を細める。もしかしたら、この怪我のせいで、散歩は遅くなっていたというより、来ていなかったのかもしれない。
まろはそれが怪我だと分かるのか、包帯の上からわらびの足を舐めている。
「こら。まろ、舐めすぎて包帯取れたら困るだろ」
「あ、大丈夫よ。心配してくれてるんだね、まろくん。ありがとう」
ひよりさんはまろの頭を撫でてくれる。それでも僕が軽くリードを引っ張ると、まろは怪我から顔をあげて、わらびの匂いをくんくんと嗅いだ。
「じゃあ、ごめんね。今日は旦那が家にいるから、早く帰らないと」
言いながらひよりさんは体勢を直し、僕も立ち上がる。陽がだいぶかたむいていた。
「あ、そうなんですか。引き止めちゃってすみません」
「ううん。わらびもまろくんに会いたかっただろうから。またゆっくり遊ばせてあげてね」
「はい。じゃあ気をつけて」
僕たちが来たほうへ曲がっていくひよりさんとわらびを、まろはとっさに追いかけようとする。「僕たちはこっち」とまっすぐ行こうとして、ふと目をとめる。
立ち去るわらびは、不自由そうに足を引いていた。
虫に刺されたぐらいであんなになるかな、と思っても、もう行ってしまったので何も訊けない。まあ蜂とかだったらなるかな、とひとり納得しておくと、僕はまろを公園に連れていった。
【第三話へ】