それ以降、すれちがっているのか避けられているのか、わらびとひよりさんには逢わなかった。あの十字路で、まろは相変わらずわらびを待っている。
僕はしゃがみこんで、暗くなるぎりぎりまでつきあってやる。それでも、わらびたちは僕たちの前に現れなかった。
カレンダーは十月にめくられた。まだまだ暑い日もあるが、朝夕の気候はだいぶ涼しくなっていた。散歩のたびにシャワーを浴びて着替えていたが、もうそんなこともない。まろの「はあはあ」という体温調節の息切れも落ちついてきていた。
十字路にさしかかると、まろはやっぱり立ち止まる。ふてくされたような顔でそんなまろを見つめていた僕は、「まろ」とリードを引っ張った。まろは頑固にその場に踏んばる。
僕はまろの目の高さにしゃがみこむと、そのふわふわのリボンが結わえられた頭に手を置いた。
「分かったから行こう」
まろの黒い瞳がじっと僕を捕らえる。
「わらびに会いたいんだろ? ひよりさんち行こう」
「くうん」
「僕もついてくし。今日平日だから、たぶんあの野郎も会社行っていないよ」
立ち上がった。リードを引っ張ると、今度はまろはおとなしく立ち上がった。「よし」と頭を撫でてやると、いつも、わらびとひよりさんが現れる左手の道に曲がる。
家は近かったので憶えていた。『月野』という表札の前で立ち止まると、まろが早くも「きゃんっ」と声を上げた。「こら」と一応しかったのち、じゅうぶん深呼吸して、心を決めてからドアフォンを鳴らす。ピンポーン、と響くと、妙に緊張してしまう。
しかし応答はなかった──が、家の中から何やら物音がして、「わんっ」と聞きおぼえのある鳴き声が聞こえた。わらびだ。その声にまろが呼応する。
「わんっ。わんわんっ!」
でも、わらびの鳴き声はまろに返事しているような、のんきなものではない感じがした。何かあったのか、と眉を寄せているうちにも、わらびは僕たちを呼んでいる。
そう、呼んでいる感じだ。でも勝手に入っていいのか、だいたいドア開けられないし──と狼狽ばかりしていると、「五樹くん?」と懐かしい声がした。
振り返ると、買い物ぶくろを提げたひよりさんが、きょとんとたたずんでいた。
「あ……、ど、どうも」
僕のぎこちない挨拶にひよりさんもぎこちなく咲うと、「久しぶりね」と荷物を持ち直す。
「最近暗くなるの早いから、散歩も早く行ってて」
「そ、そうですか。と、いうか……何か、あの、わらびが」
「わらび? あ、何か吠えてるね。まろくんが来たからかな?」
「何かそんなんじゃない感じも──」
「わんっ! わんっ!」
僕の言葉を悲痛なくらいのわらびの鳴き声がさえぎる。
「もしかして今日、旦那さん──」
僕と顔を合わせたひよりさんは、慌てて門扉を抜けて玄関先に荷物をおろした。僕も追いかける。ひよりさんはもどかしそうに鍵をまわし、ドアを開けた。
するとそこでは、あちこちを──どうやら獣医に──手当てされたわらびが吠え猛っていた。
ひよりさんを認めると、こちらに駆け寄ってきて、淡い花びらが舞い散るロングスカートの裾を咬んで引っ張る。ひよりさんはとまどって、わらびの元にしゃがむ。
「わらび? おとうさんは?」
「わんっ、わんっ」
「何かあったの?」
「ひよりさん、家に入りましょう」
「え、ええ。そうね」
ひよりさんは急いで靴を脱ぎ、家に上がった。僕も続こうとして、「きゃっ」というひよりさんの短い悲鳴に動作を止める。
「ひよりさん?」
わらびが僕のジーンズも引っ張る。はたとしてスニーカーを脱ぎ、月野家に上がった。ひよりさんが後退るまま転びそうになって、とっさに背中を支える。
「ひよりさ──」
「あ、あなたっ」
ひよりさんはダイニングルームに駆けこみ、僕もやっとそこを覗くことができた。
そして、はっと息をつめて硬直する。このあいだガラスの破片が散らかっていた床に、ひよりさんの旦那さんが死体のようにうつぶせになって倒れていた。
「な、何? どうしたの? あなた? あなたっ?」
ひよりさんは旦那さんの上体を抱いて呼びかけ、わらびはまだ吠え続けている。
何だ? わらびが旦那さんを襲ったのか? そんな考えすらよぎったが、旦那さんにそんな外傷はない。
「ひ、ひよりさん、旦那さん今日──」
「きょ、今日は具合が悪いからって会社を休んでたの。リビングのカウチに寝てたはずなんだけど……。わらび、どうしたの? 何かあったの?」
「ひよりさん、わらびは僕が見ときますから、救急車呼んでください」
「えっ、な、何、救急──」
「救急車です! 早く!」
「わ、分かったわ。救急車ね、えと……」
腕をがくがくとさせながらケータイを取り出したひよりさんは、何とか自分の気を鎮めようと息を吐きながら、番号を押す。
僕はわらびと向かい合って、その温かな軆を抱き寄せると背中をさすってやった。「よく頑張ったな」とささやくとわらびは吠えるのをやめ、「きゅん……」と心配そうに鳴いた。
信じられない。でも、たぶんそうだ。わらびは、自分にあんな虐待をしてきた人間の危機を知り、僕とひよりさんを必死に呼んでいたのだ。
まろがそろそろと近づいてきて、わらびに身を寄せる。「くうん」と同じく不安そうに鳴いたまろの軆も、僕は抱きしめてやった。
電話を終えたひよりさんは、放心して床にへたりこんだ。が、旦那さんがうめき声をもらし、「あなた?」と周章して身を起こす。旦那さんはひよりさんに苦しげながら何か言っていた。僕には聞き取れなかった。
遠くから救急車が近づいてくるのが聞こえていた。
──ひよりさんの旦那さんは、急性アルコール中毒だった。意識を失うほどひどいものではなかったようだが、入院することになった。そんな連絡を受けた時点で、僕は家には連絡を入れておき、月野家でわらびとまろでひよりさんの帰りを待っていた。ひよりさんが帰宅したのは、二十二時を大きくまわった時刻だった。
かちゃん、という鍵の音でわらびが玄関に向かって駆け出し、まろも追いかける。僕もそれに続くと、「ただいま」とひよりさんがわらびを抱いているところだった。
「ひよりさん……」
ひよりさんは顔を上げ、やや疲れをにじませて微笑した。
「ごめんね、五樹くん。留守番なんてさせちゃって」
「いえ。病院に泊まってこなくてよかったんですか」
「うん。あの人、寝ちゃったから。明日の着替えとかも必要だし」
「そうですか」
ひよりさんはわらびを抱きしめてうなだれた。肩が震えている。
こんなとき、女の子とつきあったこともない僕はどうしたらいいのか分からない。
ただ突っ立っていると、「ずっとね」とひよりさんが涙声で沈黙を破った。
「吠えてたんだって。わらび。あの人のそばで」
「………、」
「頭に白い靄がかかっていって、ああ死ぬのかって思ったんだって。でも、わらびの鳴き声がしてたから意識が途切れなくて。わらびがいなかったら死んでたかもしれないって」
「………、」
「『わらび、ごめんな』って──……」
「ひよりさん……」
「あの人が、そう言ってたの。わらび、ごめんって……」
言ったきり言葉につっかえたひよりさんは、わらびを抱くまま声を殺して泣いた。わらびがひよりさんの塩辛いだろう頬を舐める。
まろは一歩下がってふたりを見つめている。僕は細い息をついて、しゃがみこむと、まろの頭に手を置いた。まろは僕を見て「くうん」と鳴き、僕は泣きそうになっているのを咲ってごまかした。
とうぶんやみそうにないひよりさんの泣き声に、僕は唇を噛んでいた。さっきまで落ちつかなかったわらびは、ひよりさんの腕におさまり、本当に幸せそうに見えた。
「──五樹ー、まろの散歩いってくれるー?」
今日もだらだらと一日を過ごし、十七時頃に一階に降りるとお決まりのかあさんの頼みごとが聞こえた。
「あー? またー?」
「かあさん、夕飯の支度があるのよ」
「麻矢は」
「塾」
最近の小学生は勉強とか恋愛しすぎなんだよ、とあくびを噛んでいると、しゃんしゃんと音を鳴らしてまろが駆け寄ってくる。昨日麻矢がまろをいじっていると思ったら、リボンがオレンジに変わって鈴までついている。
「お前も男なのになー」
その頭をぽんぽんとしてやると、まろはこくっと首をかしげる。
「散歩、嫌なの?」
「はいはい、行きますよ。昨日ピザ頼んだときに買ったコーラ、残ってる?」
「麻矢が飲んでなかったら残ってるでしょう」
「……何でも麻矢中心なんだなあ」
「え?」
「いや、何でも。コーラ、コーラっと」
冷蔵庫を開けると、扉のポケットにコーラの缶があった。「ラッキー」とつぶやき、プルリングを抜く。炭酸の心地よい刺激を喉を流しこむと、僕は野菜の皮を剥くかあさんを見る。
「かあさん」
「んー」
「僕、やっぱり勉強して大学行こうかな」
「えっ」
かあさんは大袈裟にも皮剥き器を取り落としかけて、僕は噴き出してしまう。
「そんなにびっくりしなくていいじゃん」
「だ、大学って……もう行かないんじゃなかったの」
「んー、まあ。そんなときもあったけど。来年は今からじゃ無理かもしれないけど、その次くらいに焦点合わせてさ」
かあさんは僕を見つめた。「ダメかな」と肩をすくめると、かあさんは嬉しそうに咲って、「そんなわけないじゃないの」と言う。僕はその言葉に照れ咲いすると、「まろ行くぞっ」とドライフードと皿を取りあげる。
「きっと、憶えてるのね」
ひよりさんはそう言っていた。
「あの人と、みやびと、わらびと、私と──四人で過ごした楽しかった時間を。だから、わらびはあの人を怨んだりしなかったのね。助けようとしたのね……」
そのとき僕は、膝に乗りかかってきていたわらびの頭を撫でていた。いつからこんなふうに優しく微笑めるようになったのか憶えていない。けれど、この微笑をくれたのはわらびだ。それは間違いない。
確かに遅れは取ってしまった。けれど、僕もこれから強くなろう。僕もわらびみたいに、真実を信じる力を持った、温かい人間でありたいと思うから。
FIN