よくある話から始まる。
小学生のとき、クラスの女の子数人で集まり、好きな男の子を白状する流れになった。さらっと言ってしまう子、何人も名前を挙げる子、渋って渋ってようやく打ち明ける子。
その中で困ったなあと思っていた私は、ここは適当に、クラスの男の子の名前を言っておいたほうがいいのかと悩んだ。でも、「適当」に該当する男の子も浮かばない。
好きとか。つきあいたいとか。キスしたいとか。何なのだろう、その感情。
「じゃあ、鼓ちゃんはー?」といよいよ順番がまわってくると、結局こんな場面ではいつものように、「私は、別にいないかな」とごまかすわけでもなく言う。
「えーっ、またあ?」
「鼓ちゃん、前もそう言ったよね?」
本当にそうだ。誰が好きとかどうとか、この子たち、何度同じ話をすれば気が済むのだろう。
「ほんとはいるんでしょ? 友達なんだから言ってよー」
「あたし、鼓ちゃんの好きな人知りたい。ぜんぜん分かんないんだもん」
非難めいたみんなの視線が集中して、じわりと罪悪感は芽生えるけれど、本当に気になる男の子なんていないのだからしょうがない。私が一番分からないのだ。
「好き」って何? 「つきあう」なんて関係は本当に必要なの? キスに至っては、何だか気持ち悪いのだけど。
「好きな人できたら言うよ。絶対言う。今は、ほんとにいないの」
そう言うと、みんな顔を見交わし、「約束だからねっ」とようやくこの場はあきらめてくれる。私は「ごめんね」なんて、なぜか謝らないといけない。
結局、クラス替えでばらばらになっても、私は彼女たちに「好きな人ができたの」と報告することはなかった。嘘をつかないほうが誠意だと思ったけど、「鼓ちゃんって本音話さなくて気取ってるよね」とか陰では言われていたみたいだ。
中学生になっても、恋愛に興味は目覚めなかった。小説や映画の中の恋愛を眺めるのは、けして嫌いではなかったけど、それを自分が体験する実感は湧かない。
この頃からすでに、自分は結婚しないだろうと思っていたし、出産して親になるイメージもなかった。恋愛、結婚、出産──きっと、とても幸せなものなのは頭では理解できる。けれど、心で感じたいとは思わない。
おそらく私は最期までひとりで、孤独死とかするんだろうなあと考えるときまであった。孤独死はもちろん嫌だけど、だからってパートナーを見繕っても、幸せじゃないどころか、嫌な思いをするのは両親を見ていて知っている。
「おかあさん、ひとりで生きていく自信がなかっただけで、おとうさんと結婚しちゃったから」
高校生になる直前の早春、おとうさんが出張で不在のときに、おかあさんはそんなことを私に語った。昔から私の家庭は亭主関白で、おとうさんの命令と機嫌で左右された。おかあさんは家政婦のようにおとうさんに従う。
そういう家庭が好きではなかったから、もしかしてそれで私は男の人や恋愛とかに希望を持てず、関心がないのかもしれないなんて思った。
「鼓は好きな人と幸せになってね。おかあさん、それを楽しみにしてるから」
私は曖昧にうなずきつつも、一生無理だと思うと内心つぶやいた。男の子にも、女の子にだって、何も感じない。感覚が欠けてしまっているようだ。それとも、「感覚」は私が子供で眠っているだけなの?
もう高校生になるっていうのに、初恋の胎動も感じたことがない。その先のキスやセックスなんて、できれば経験せずに済むならそのままで死にたい。
こんな私でも、いつか恋をするの? 恋したいと思ってもいないのに、それでも恋は強制的に訪れるものなの?
高校生になった私は、やはり恋なんてすることはないまま、ただ図書室で小説ばかり読んで過ごした。入学するまで知らなかったけど、私の通う高校は運動部を活性化させる動きがあって、できれば生徒たちは部活に入るように言われた。
帰宅部で司書委員になった私は、なるべく図書室に入り浸っていたけど、何かとすかさず先生から声がかかる。そういうの面倒なんだけどなあ、と思いつつ、「グラウンド覗いてみるだけでもしろ」と担任に言われて、仕方なく放課後にグラウンドを見に行った。
連休が終わって初夏に入った頃だった。そこで私は、水瀬先輩と時野先輩を見つけたのだ。
「水瀬先輩と時野先輩って理想的でいいよねー。ああいうカップルになりたーい」
そんなうわさ話は、友達づきあいまであっさりしてきた私でも、耳にしたことがあった。
水瀬先輩は陸上部で、この高校の運動部全体を引っ張っているぐらいの選手だ。水瀬先輩を目当てに、この高校に進学した陸上部の後輩──つまり私の同級生もいるらしい。スタートラインから一気に、風をまとったようにゴールまで駆け抜ける。
そんな水瀬先輩のタイムを計ったり、ストレッチを手伝ったり、ドリンクを手渡したりしているのが、マネージャーの時野先輩だ。走るときは射抜くような強いまなざしだった水瀬先輩が、時野先輩にはきらきらした無邪気な笑顔を見せる。そんな水瀬先輩に、時野先輩はほわっと包むような笑みで応える。
あんなに想い合っているふたり、小説とか映画とか、フィクションの中でしか見たことがなかった。みんな、彼氏っていうと、結局自分のために欲しがっているようで。けれどあのふたりは、相手への愛情や信頼が鮮やかに通じ合っている。
それでも私は、あんなふうなら恋をしてみたい、とは思わなかった。今までは恋なんかしなくていい、できなくたっていいと思ってきた。初めて、そんな自分の心に違和感を覚えた。水瀬先輩と時野先輩はすごく素敵で、憧れは確かに感じるのに、私は自分もそれが欲しいとすら感じない。
この無欲感って何だろう。私、ほんとに大丈夫なのかな。もしかして、人間としておかしいのかな。だって、要するに私は誰かを愛したい、そして誰かに愛されたいと思わないってことだ。それが幻想ではないことを、水瀬先輩と時野先輩で目の当たりにしてもなお、私は最期までひとりだろうと思う。
しいて言えば、水瀬先輩と時野先輩が咲いあっているところを、ただ眺めていたかった。どうしても、恋愛を自分の身に起こるものとして捕らえられない。私には、恋愛は第三者として傍観するものだった。小説として。映画として。その延長線で、あのふたりを見ているのが幸せだった。
「成瀬、お前って陸上部に興味あんの?」
夏休み、家にいるのも憂鬱だけど、遊ぶほどの友達やお金もなくて、学校に行って相変わらず本を読んだ。ついでにグラウンドに立ち寄り、陸上部の部活を眺めた。
私はあんまり運動部という感じではないし、実際運動部に興味はなかったから、誰かと目が合ったりすると咲っておいてすぐ立ち去った。水瀬先輩と時野先輩も、私に気がついたみたいで、話してみたいなあとは思ったけど、私が邪魔するのもいけない気がした。
二学期に入ってすぐ、話したことはないけど陸上部に入っているクラスメイトの男の子が、そんな声をかけてきた。
「え、どうして」
先生に言われての勧誘かなあと思って、困ったそぶりを抑えずに答えると、「水瀬先輩がさ」と彼が出した名前にどきりとする。
「よくこっち見てるからって気にしてたぞ」
「……え。えっ?」
「それとも、成瀬って水瀬先輩が──」
「そんなわけないじゃない。時野先輩がいるのに」
「そうだよな。ま、先輩ちょっと不気味がってたから、話したいことあるなら話しかけたらって思っただけ。じゃあな」
彼は手を掲げて私の席を離れ、不気味、という言葉を反芻した私は、たぶんこれまで生きてきて新記録のレベルで羞恥心が爆発した。
どうしよう。やだ。恥ずかしい。見ているだけでよかったとはいえ、それを不愉快に思われるのはさすがに恥ずかしい。でも、よく考えたら迷惑だよね。あのふたりは自然と一緒にいるだけなのに、それを特別なものみたいに眺めたりして。
でも、あのふたりのことを見ていたい。せめて、友達にでもなれたらいいのにな。あのクラスメイトの男の子も、話したいことがあるなら話しかければって言っていた。でも、切っかけがない──
そんなことを思っていたある日、放課後の図書室で委員の仕事をしていると、そこにめずらしく水瀬先輩と時野先輩がやってきた。部活は、と思ったけど、夏休み明けの試験があったから、休みなのか。
それでも、特に水瀬先輩は図書室ってイメージではないなと思っていたら、どうやらふたりは追試の勉強をしている様子だった。どうしよう。こんな話しかけられる距離ってそうそうないし、今、話がしたいって言ったら迷惑かな?
そわそわしながら仕事をしていたので、ふたりが帰ろうとして「私、ちょっと離れていいかな」ともうひとりの司書委員に頼むと、何かを察して彼女はうなずいてくれた。そして、私は帰ろうとしていた水瀬先輩と時野先輩を追いかけて声をかけた。
ふたりはいきなり話しかけられてびっくりしていたけれど、とりあえず、私の司書委員の仕事が終わるのを待ってくれることになった。人がいなくなって、だいたいの仕事が終わると、戸締まりはもうひとりの子に任せて私は図書室を出た。
やんちゃで親しみやすい印象の水瀬先輩。綿菓子みたいにふんわりした雰囲気の時野先輩。そんな憧れのふたりの視線が来て、少し緊張したものの、ふたりはふたりでたぶん私が何者かと思っているはずで、同じく緊張した面持ちで目を交わした。
ひとまず、私が水瀬先輩に惹かれているとか、時野先輩から奪う気だとか、そういうわけではないのは言わないと。十八時もまわって薄暗くなった廊下で、私はあくまで「水瀬先輩と時野先輩」に憧れていて、よければ友達になって、そばでふたりを見ていたいと伝えた。
自分ではそこまで変なことは言っていないつもりだったけど、水瀬先輩と時野先輩は困ったような感じだった。「ご迷惑でしょうか」と私が引くと、ふたりは「友達なら」とは言ってくれた。そこで私は、初めて自分の名前も名乗っていないことに気づき、名前と「これからよろしくお願いします」という挨拶を述べて頭を下げた。そして、笑みを見せてからその場は退散した。
よし、これでふたりを眺める権利は得た。そう思ったのだけど、それからしばらくした小雨の日、今日はグラウンドじゃなくて体育館かなあと覗きにいった私に、「鼓ちゃん」と時野先輩が声をかけてきた。
「今日は委員の仕事はないの?」
私は話しかけられたことにやや動揺しつつ、「はい。帰るだけです」と答える。
「そうなんだ。あのね、よかったら私たちの部活が終わったら、三人でお茶していかない?」
「えっ」
「授くんもそう言ってるんだけど」
授さんというのは水瀬先輩の名前で、時野先輩は桃さんという名前だった気がする。
「いいんですか?」
「うん。私たち、鼓ちゃんのこと何も知らないままでしょ? せっかく友達になったんだし、お話もしたいなって」
「おふたりの時間の邪魔じゃないですか?」
「そんなことないよ。私も授くんも、鼓ちゃんと話したいから」
「でも、私、ほんとに見てるだけでいいんですよ?」
私の言葉に時野先輩はとまどった表情を見せたあと、「じゃあ、ちょっと授くんも入れて今話そうか」と軽く手招きして、私はおとなしくそれについていった。
「授くん」
時野先輩の声に、ひとりで柔軟をやっていた水瀬先輩が振り返った。私のすがたに、やっぱり驚いたようにまばたきをしている。そんな水瀬先輩に「鼓ちゃん、帰るだけなんだって」と時野先輩が言うと、「あー、そうか」と水瀬先輩はうなずく。
「部活十七時半まであるもんな。今日はやめといて帰る?」
やめとく──って、お茶のことかな。それは本当に私が邪魔なので、気にしてもらわなくていいのだけど。
「ここで水瀬先輩と時野先輩を見てます」
私が答えると、水瀬先輩は眉を寄せて唸り、「俺はストレッチしながらになるけど、今話すか」と言った。
「話、ですか」
「話があるんですよ、君に」
水瀬先輩はあぐらをかいて、時野先輩も私に座るよう言ってから正座をする。やっぱり、私なんか迷惑だって言われるのかな。そう思いながらも、「何でしょうか」と私も腰をおろした。
「俺たちって、友達になったじゃん」
「はい」
「でも君って、俺らのこと見てるだけじゃん」
「はい」
「それは違うだろ」
「違う、というと」
「友達って、もっと関わってしゃべったりするだろ」
「ああ……そういうものなんでしょうか」
「そういうものでしょ。友達いないのですか」
しなやかな筋肉で柔軟をしつつ水瀬先輩が言って、今度は私のほうが眉を寄せて考え、「そうですね」と正直に言う。
「あんまりいないです」
水瀬先輩は私を二度見した。
「マジで」
「ぜんぜんいないってわけじゃないですよ」
「じゃあ、その友達と休み時間とか放課後にしゃべったりするだろ」
「あんまりべたべたしないです」
「俺と桃はべたべたするのっ。だから、今日の放課後は俺と桃と茶でもして帰りなさい」
ここまできっぱり言われたら、さすがに断るほうが悪いのだろうか。「いいんですか」とゆっくり確認すると、「おう。ちゃんと話そう」と水瀬先輩はにかっとする。
「時野先輩も──」
「うん。鼓ちゃんのこと聞いてみたい」
「私のこと……」
「部活終わるまでここで俺と桃見てりゃいいから、放課後はちょっとつきあいなさい」
少しだけ考えてしまったけど、「分かりました」と私はうなずいた。
そのとき、「何を女子としゃべってんだー」という声がして、「あ、はいっ」と水瀬先輩は敏捷に立ち上がる。時野先輩もそれに続き、「ゆっくりしてて」と私に微笑んでくれた。ふたりが筋トレに混ざってしまうと、私はとりあえず体育館の入口まで下がり、私のこと、と反芻した。
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