子供の頃は、おとうさんの仕事があんまり好きじゃなかった。
メンタルクリニックの院長。「メンヘラ相手の仕事とかやばっ」なんて同級生に陰口もたたかれた。
だから僕は、絶対に将来、そういう仕事には就かない。まともな人の中で働くんだ。そう思っていた──けれど、あの患者さんを見かけたときに、初めておとうさんがたくさんの人の心を支えて、命を救っていることを知った。
小学六年生の冬だった。おとうさんの職場である病院は、駅前の雑居ビルの三階に入っている。だから、仕事が上がる頃に、おかあさんと一緒におとうさんを病院まで迎えにいき、駅ナカの飲食街で外食をするときがあった。
その日も診察が終わる頃に駅に出て、病院に顔を出した。いつもの受付のおねえさんが、「先生、今日最後の患者さんの診察をなさってるので」とにっこり言ってくれる。
「座っておこうか」とおかあさんに言われて、誰もいなくなった待合室の椅子に腰かけた。壁も床も柔らかいグリーンが基調の室内、オルゴールの音色、暖房がよく効いて軆がほぐれていく。
「今日は何食べたい?」とおかあさんに訊かれて、「くるくる寿司」とか答えていると、ふと入口のドアが開いて「すみません」と女の人の声がした。
「あ、申し訳ありません。本日の診察の受付は終了したので──」
受付のおねえさんが言うのを、その女の人は「私、患者じゃなくて」と申し訳なさそうにさえぎる。
「というか、昔は患者だったんですけど。今日は、何というか、先生にひと言ご挨拶をしたくて……無理でしょうか」
受付のおねえさんは一考したものの、「お名前を伺ってよろしいでしょうか」と確認を取ることにしたようだ。
「長瀬真智です」
その名前を聞いた途端、受付のおねえさんは何やらびっくりしたように女の人を見た。そしてすぐに、「先生に訊いてみますのでお待ちください」と奥に行ってしまう。
「おとうさん、もう仕事終わるんじゃないの?」と僕が問うと、「ちょっと待つだけだから」とおかあさんはたしなめる。「お腹すいたよ」とむくれていると、受付のおねえさんが戻ってきて「今の診察が終わったら、少し話せるそうです」と女の人に告げた。
「ありがとうございます」と頭を下げた女の人は、何やらふうっと深呼吸をして、僕たちとは離れたところに腰を下ろす。最後の患者さんが、診察も会計も終えて病院を出ていくと、診察室から白衣を着たおとうさんが顔を出した。
僕とおかあさんに気づいたおとうさんは、ごめんな、と言うように軽く手を合わせて見せたあと、「長瀬さん」と女の人に声をかけた。
女の人ははたと顔を上げ、目の前で立ち止まったおとうさんに「先生、お久しぶりです」と立ち上がって深々と頭を下げる。おとうさんは柔らかく微笑み、「本当にお久しぶりですね」とどこか安堵した顔を見せる。
「あ、あの、私──」
女の人はたどたどしい口調ながら、一生懸命言葉を選んでいる様子で話す。
「急に、来なくなってすみません。あの頃、外出しただけでも死にたくなるから、ここに来るのも怖くなってしまって。先生にたくさんお世話になってても、それでもつらくて。何も言えないままなのが気になってても、何もできなくて」
おびえるように声を震わす女の人を、「いいんですよ」とおとうさんは柔らかくなだめる。
「でも、また外出できるようになったんですね」
「……はい」
「よかったです。何かあれば、いつでもまた力になりますので」
「あっ……の、そのことで」
「はい」
「私、この町を離れるんです」
「えっ、そうなんですか」
「その……えと、結婚することになって」
「結婚ですか! それはおめでとうございます」
驚きながらも嬉しそうに咲ったおとうさんに、女の人は「先生のおかげです」と言う。
「私、あの頃、死にたいばっかり言ってましたよね。家も出れなくなってからは、何度も死のうとしました。でも、その結婚する人とネットで知り合って、たくさん話してるうちに元気になってきて」
「はい」
「最初は、ネットで知り合った人をそこまで信頼しちゃいけないと思ってました。でもメールのペースとか、タイミングも合って、会ってみても優しい人で。『家から出れないのがつらい』って言ったら、『僕のところにおいで』って……言ってくれて」
女の人はおとうさんを見上げ、「ありがとうございます」と噛みしめるように言う。
「いや、僕は何も──」
「先生があの頃、私を支えてくれて、死ななかったからです。死んでたら、彼に出逢うこともなくて、幸せになることもなかった。私がどんなに情けなくても、先生が『生きていていいんですよ』って言ってくれたから、私はこれから、幸せになれます」
その言葉におとうさんは感慨深そうに笑んでから、「顔を上げてください」とうつむいて涙を拭く女の人に声をかける。
「僕は長瀬さんのサポートをしていただけです。今、長瀬さんが生きているのは、間違いなく長瀬さんご自身の生きる力のおかげですよ。これからは胸を張って幸せになってください」
女の人はおとうさんを見上げ、泣きながらうなずいて、何度も「ありがとうございます」と言っていた。
僕はそれを眺めながら、おとうさんが患者さんと接するときの顔って初めて見たなあと思った。そして患者さんにとって、おとうさんがどれだけ心の支えなのかも知った。
女の人が帰っていくと、「長瀬さん、ずいぶん変わっていて私もびっくりしました」と受付のおねえさんが言って、「そうだね、綺麗になってた」とおとうさんはうなずく。それから僕たちを向いて、「悪いな、夕食だろ? 今からになるけどいいか」と訊いてくる。
「ええ。秀は回転寿司がいいって」
「お、いいな。確か二十二時までだから急ぐ」
そう言って、おとうさんはいったん診察室に戻っていく。僕はさっきの女の人のことを考えていて、「おとうさんってすごいんだね」とつぶやいた。「そうね」とおかあさんはにっこりして、「ちょっとは見直した?」と悪戯っぽく続ける。
おとうさんの仕事についもやもや感じていても、悪く言ったことはなかったはずなのでどきっとしていると、「おとうさんも、命を救ってるお医者様なのよ」とおかあさんは僕の頭を撫でた。
命を救っている。うん、あの女の人も言っていた。支えてくれて死ななかったと。
何だよ、普通にかっこいいじゃん──僕がそう思っていると、白衣を脱いだおとうさんが戻ってきて、病院の戸締まりをすると三人で回転寿司に向かった。
そのあとすぐ、僕は中学生になった。制服を着るようになった。制服自体が嫌いなわけではなくても、毎日、服装に代わり映えがないのはすごくつまらなかった。
そのぶん髪をいじったり、軽くメイクしてみたり、そういうのから始まった。そんな僕に、同性である男の先輩が告白してきた。僕の中に男への拒絶反応はなく、むしろその先輩はかっこよかったから、優しくされるとどきどきした。
夏休みになる前につきあうことになって、先輩は自分の妹の部屋から持ってきた服を僕に着せて、何度も抱いた。
「先輩、妹とこういうのしたいの?」
キスをしながらお互いを手で刺激していたとき、そう問うと「弟でも家族とはしたくないよ」と先輩は苦笑した。
「じゃあ、何で僕に女の子の服着せるの?」
「男の娘が好きだから。結賀はすごくかわいい男の娘になると思ったんだ」
「……まあ、女の子の服って確かに楽しいね。もっと着てみたい」
しかし、僕と先輩の仲は、こんなことに勝手に服を使われているのが先輩の妹に知られて、嫌悪たっぷりに激怒されたことで終わった。
「今すぐ別れて、二度とやらないって誓わないと親にばらす!!」
僕と同級生であるその子はちょっと泣いていて、僕たちに今後を選ぶ権利はなさそうだった。しかし、先輩とは別れても、僕は通販で服を買って勝手に女装は続けた。
一年くらい、ひっそりと女の子の服を楽しんでいた。周りに僕の女装が知られたのは、落とし忘れたマニキュアを教師に見咎められたときだった。
「お前、たまに化粧してるときもあるだろう! 男が何を考えてるんだっ」
そんな叱責をされて、「いまどき男も化粧くらいしますよ」としれっと返すと、頭が旧型らしいその教師は癇に障ったらしく、僕の親を呼び出して「しっかり指導してください」と化粧のことを話した。
今まで教師に注意されるような生徒ではなかった僕だから、両親はそれはそれはびっくりして、どういうことなのか、なぜそんなことをするのかと問いただしてきた。
好きな人にセックスのとき着てほしいって言われたのが始まりで──なんて正直に言ったら、ショックだろうなと思ったので、そこは端折って「女の子の服が着たいだけだよ」と答えた。
両親は顔を見合わせ、性同一性障害なのかと確認してきた。そういうわけではない、ただかわいい格好が好きなんだと説明すると、「おかしいのか……」とおとうさんは絶望に口走って、おかあさんもショックで言葉を失っていた。
精神科医のおとうさんがそういう言葉を発するのは、よっぽどだったのだと思う。
でも、僕はめげなかった。ばれたならもういいやと平気でスカートで家の中をうろうろして、そんな僕にどう接したらいいのか分からない両親とは、険悪な時期がしばし続いた。
「ねえ、秀」
高校に進学して間もなかったある日、リビングでおかあさんが思いつめた様子で僕に話しかけてきた。「なあに」とソファで堂々とウィッグの手入れをする僕が首をかしげると、おかあさんは隣に腰を下ろして僕の瞳を見つめた。
「私、秀を女の子に生んであげられてたらよかったのかしら」
僕はおかあさんを見つめ、「そういうわけじゃないよ」とロングストレートのウィッグを膝に置く。
「僕はちゃんと心も軆も男だし、それに違和感もないし、女の子になりたいとかも思わない」
「でも、女の子だったらスカートもおかしくないし」
「女の子しかスカート穿いちゃいけないってことはないでしょ。それを理解するのってそんなにむずかしい?」
おかあさんはため息をついて、「今はいろんな子がいるって、おとうさんも言ってて」と言う。
「おとうさん、僕を『おかしい』って言ったけどね」
「それは、おとうさんも後悔してるわ。ジェンダーは専門外で知識が足りなかったって」
「知識ねえ……」
「私たちは、秀を息子だと思っていていいのかしら。娘と思ってあげるべきなのかしら」
「息子でいいんじゃない? あと、おとうさんはジェンダーとかむずかしいことじゃなくて、男の娘とか女装子とかを調べたほうがいいと思うよ」
「……伝えておくわ。ねえ、秀。おかあさん、最近思ってしまうんだけどね」
「うん」
「秀、かわいいじゃないって。ただ見慣れたのかもしれないけど、だんだんそう思うようになってきたの」
「そっか。へへ、嬉しい」
「これでいいのかな」
「いいと思う」
僕がにこっとすると、おかあさんはやっと笑顔を見せて「今度、一緒に洋服見にいこうか」と言った。「うん!」と僕が瞳を輝かせてうなずくと、おかあさんはほっとしたような表情を見せた。
その数日後、「おかあさんと話したの聞いたぞ」と帰宅したおとうさんが、お風呂上がりにレースでふわふわしたルームウェアを着た僕に声をかけてきた。
僕はおとうさんを見上げ、「調べた?」と訊いてみる。「秀に教えてもらうほうがいいと思った」とおとうさんは僕を見つめた。僕はふふっと笑って、「まだ僕のことおかしいと思ってる?」と確かめる。おとうさんは首を横に振り、「本気でおかしいと思ったことなんかない」と言う。
「自分の範疇になかったからといって、とっさに受け入れられなくて、ひどいことを言ってすまなかった」
「患者さんには言っちゃダメだよ」
「ああ。お前と話すのは仕事じゃないから、つい余計な言葉が出てしまった」
「そっか。ねえ、おとうさん」
「何だ」
「僕、男も好きになるんだよね」
「……そうか。それはもう覚悟してた」
「女の子も嫌いじゃないんだけどね。どっちもいけそう」
「いいんじゃないか」
「おとうさん、ジェンダーとかセクシュアリティとか勉強不足で僕にあんなこと言ったんだよね」
「すぐ理解してやれなかったのはそれもある」
「じゃあ、僕がそういうの勉強して、いつかおとうさんの病院を手伝いたいな」
おとうさんが瞳に驚きを走らせ、僕は微笑むと「だから、どういう進路がいいとかアドバイスしてよね」と言った。おとうさんは息を吐き、「まったく、かわいいんだか男らしいんだか」と頭を掻く。けれど、「それは任せろ」と約束してくれて、僕はこくんとした。
【第二話へ】
