ALIKE-10

ALIKE

 待たせたら格好悪すぎるので、十八時の約束だが、十七時過ぎには駅前に到着しておいた。
 空はちょうど夕暮れに溶けようとしていた。オレンジとピンクが重なって、美しい透明色が空に広がる。だいぶ減った蝉の声だが、この時間帯になるとひぐらしが鳴いている。空気はまだ蒸し暑くても、頬や腕を撫でる風はかすかに軽くなった気がする。
 コンビニのかたわらの壁にもたれ、歩道に伸びる影を見つめ、心臓が脈打っているのを意識してしまう。ちゃんと食って飲みこめるかな、となんていっぱいな感じの胸に心配になっていると、「築」と呼ばれてはたと顔を上げた。
 もちろん、雪だった。俺はつい、そのすがたをじっと見つめてしまった。
 黒のキャミソールワンピに白のボレロ、細い脚には黒のストッキングをまとい、ワインレッドのピンヒールを履いている。化粧も、けして濃いわけではなくも、きちんとしている。胸元にはネックレス、足元には金の鎖のアンクレットが巻きついている。
 予想以上に綺麗なすがたで来てくれたから、ぽかんとしてしまうと、「何よ」と雪は腰に手を当てた。「あ、」と俺は何とか声を発して、「ええと」と言葉に躊躇ってしまう。
「な、何か……まあ、いいんじゃね」
 いいんじゃねって何様だ、俺は。もっと、綺麗だ、とか──言えるか。一応、こいつは幼なじみでもあるんだぞ。
 雪は肩をすくめて、「あんたらしい褒め言葉と思っておくわ」と言った。やばい、その浮かんだ鎖骨に咬みついてやりたい。
「それで、どこに行くの?」
「あ、移動するけどいいか」
「このへんで済まされてもね」
「ちゃんと連れていく。行こうぜ」
 俺は電気の灯りはじめている駅の中に歩き出し、雪はヒールを響かせて隣に並んだ。腕は組まないらしい。でも、雪のいつもの甘い香りがちゃんとする。香水つけてきてくれたんだ、とそんなことが嬉しい。
 改札を抜けてホームに出ると、電車を待つあいだ、帰省したときのことを訊かれた。弟たちの話をすると、雪の表情がほのかに優しくなる。俺の前では澄ましてるのになあ、と弟共に変な嫉妬をしつつ、司と南のことも話した。
「そういや、司と南に言わなかったんだな」
「何を」
「俺が女といたこと」
「友達なんでしょう」
「信じたのかよ」
「嘘をつく必要もないじゃない」
「……まあな。あいつは、ほんとに友達だから」
「そうみたいね」
「俺、今は女たらしてないし」
「女の子に相手にされなくなった?」
「やたら気は持たれる」
「その自信は相変わらずね」
「つけこんでつきあうとかはしてない。断ってる」
「そこはえらいわね」
「……だって、俺、が……つきあいたい、って思うのは、」
 雪だから。言いそうになって口をつぐみ、閉じこめるようにうつむく。日が暮れて暗くなっていく中で、左側にいる雪が俺を見上げた。
 俺は感じる視線に視線を重ねず、「暑いな」とかどうでもいいことをつぶやいた。実際、軆に汗は滲んでいる。「そうね」も雪は追及せず、首をかたむけた拍子にかすかな風で黒髪をそよがせた。
 俺があの飲食街に連れていくと、「あんなふうに鉢合わせた場所によく来るわね」と言われ、よく考えるとそうだったかもしれないと思った。もう店に予約までしてあるけど、「場所変える?」とつい確認すると、「たぶん大丈夫」と雪は答えた。
 たぶん大丈夫。って、何が? よく分からなかったけど、「はぐれるなよ」と言ってネオンが舞うにぎやかな人波の中に歩き出した。
 はぐれるなよ、と言ったのは俺だが、ピンヒールで明らかに足元が危うい雪のほうが、慣れた足取りだった。そういう靴で男とよく来てんのかなあ、と思うとぎゅっと呼吸が苦しくなる。
 やっぱり、雪には彼氏がいるのか? 何度も飯をおごってくれる相手がいるのか? 俺はそれを確認してしまったら、雪から男の話を聞くようになるのだろうか。のろけるような女ではないと思うが、それでも、男の名前がその赤い唇からこぼれ落ちるだけで泣きたくなると思う。
 訊くのしんどいなあ、なんて、つい何も話題に出さず、ただ楽しく食事をしたいなんて思ってしまう。しかし、ずっとそのままでもいられない。雪に彼氏がいるなら、どのみちいつか紹介されるかもしれない。それなら自分から、構えておいてわざと踏みこんだほうが──
「雪美ちゃん」
 雑踏の中でそんな声がした。しかし関係ない名前だと無視して、それより目的の店に無事たどりつけそうなのか心配になっていたら、隣の雪が立ち止まった。
「ああ、やっぱり雪美ちゃんだ」
 またそんな声がして、俺も足を止めて周りを見まわすと、スーツを着た落ち着いた年齢に見えるおっさんが、にこにことこちらに歩み寄ってきていた。
春岡はるおかさん。こんばんは」
 誰だ、と訝る以前に、雪がぱっと笑顔を見せたのでぎょっとした。
 何。何だよ。笑顔?
 春岡と呼ばれたおっさんは、俺を一瞥して、何も挨拶せずに雪に目を戻す。
「日曜日に雪美ちゃんに逢えるなんて嬉しいな」
「スーツですね。お仕事だったんですか?」
「うん。まあ、日曜に家にいたって、娘に嫌な顔されるしね」
「私は春岡さんにお逢いできて嬉しいです」
「ははっ。じゃあ、一緒にごはんでも行くかい?」
 雪美。雪美って何、と思って俺が仏頂面になっていると、「今日はこの弟におごらせる約束してるんです」と雪は苦笑した。
「弟? 似てないね」
「ふふ、弟分です」
「彼氏じゃないの? 客ではなさそうだし……」
 ……は?
 客?
「彼氏としては、ちょっと考えものです」
「えー、ほんとに? 雪美ちゃんがプライベートで食事してるわけでしょ?」
「そうなりますけど」
「内緒にしておくからさ、ほんとのこと教えてよ」
「本当も何も……」
「みんなには黙っておくよ。ねえ、彼氏なん──」
「……っつこいなっ」
 いらついてきた俺は、思わずふたりに割りこんで、おっさんをきっと睨みつけてしまった。
「俺が弟でも彼氏でも、そもそもあんたには関係ないだろうがっ」
 苦々しく吐き捨てると、ついで雪の細い手をつかむ。ぐっと力を入れて引っ張り、雪が少し声を出したのも無視して、とにかくおっさんから離れるためにつかつか歩いた。
 無性にいらいらした。雪がぜんぜん雪らしくなかった。何なんだよ、笑顔とか。逢えて嬉しいとか。はっきり質問に答えないのも。何よりも、客って何だ。客って、……それは──
「ちょっと、築っ」
 雪の声がしても、闇雲に歩いた。ネオンの届かない薄暗い路地に入ると、やっと立ち止まって雪に向かい合った。そしてそのまま、雪の背中を湿気った壁に押し当てる。自分がかなり怖い顔をしているのが分かる。
「客って」
「は?」
「客って、何だよ」
「ああ──」
「お前、まさか売りやってんの?」
 真剣に訊いたのに、雪はさもおかしそうに噴き出して、笑った。憮然とそんな雪を見つめ、どっちだよ、と混乱していると、雪は俺の頬を軽くたたいた。紫色のマニキュアの指先の熱に、思わずどきんとする。
「売りなんてするわけないでしょ」
「……じゃあ、」
「あー、もう面倒ね。あたしね、水商売やってるのよ」
「は……?」
「親にはまだ秘密よ? けっこう前からやってて、実は大学なんてほとんど行ってないの。もしかしたら退学するかも」
 俺は雪の綺麗な顔を今まで一番近くで見つめて、生唾を飲みこんで、頬にある雪の手に手を重ねた。
「……不良」
「うるさいわね」
「じゃあ、こないだ一緒にいた男は」
「客ね」
「男と飯行くって」
「同伴よ」
 水商売の知識はまともになくても、漫画とかで、同伴のノルマがどうとか読んだことはある気がする。客。ただの客。店に連れていくだけの食事。彼氏じゃなかった──。
 どっと安心が押し寄せて、泣きそうになってしまったから、俺は雪に軆を重ねてぎゅっとその細い腰を抱きしめた。
「築──」
「俺を……」
「うん」
「俺を、置いていかないでほしいんだ」
「え」
「雪のそばにいたい」
「………、」
「雪が好きだよ」
「……築」
「ずっと前から、俺は、雪のことが好きなんだ」
 息遣い以外、張りつめた沈黙が暗がりに流れる。雪の匂いがそのまま軆の中に溶けこんでいく。柔らかい感触と、少しほてった体温が、腕の中に伝わる。
「一応──」
 雪は身動ぎして、優しい声で言った。
「あたしにごはんおごるような男になったものね」
 雪は俺の背中に腕をまわした。抱きしめておきながら、その反応にどきどきして、雪の髪にさっき触れられていた頬を当て、表情を見られないようにする。
「ねえ、知ってる?」
「ん」
「あたし、処女よ?」
「はっ?」
「あんたには、面倒じゃない?」
 喉の奥が甘く、むせかえりそうに甘く蕩ける。
 処女。処女って。まだ誰も雪を踏み荒らしていないなんて──
「そんなの、かわいすぎだろ……」
 俺が何とかつぶやくと、雪はおかしそうにころころ咲って、「じゃあ」と少し軆に隙間を作って俺の顔を覗きこんでくる。
「食事のあとは、さんざん女をたらしてきた、あんたのテクニックを見せてもらおうかしら」
 それ、って──。意味が分かると、俺のほうが頬を紅潮させてしまう。
 ああ、くそ。やっぱり、こいつには勝てない。
 俺はようやく雪を抱きしめる腕をほどいたけど、代わりに手をつないだ。これだけでも、すごく嬉しい。思わず笑みをこぼしてしまっていると、通りへと出る前に、「あんたはさ」と雪が言ったので俺は彼女を振り向く。
「昔、いつも顰め面だったわね」
「え」
「今はすごくへらへら咲ってるわ」
 雪の瞳を見つめ、ふと、司のことを思い出した。
 幼い頃、司はいつもいらいらしている顰め面の父親だった。特にかあさんの前では咲うことなどなかった。俺と授にも、愛情を見せることがなかった。
 でも、南と一緒にいると、司はすごく幸せそうに咲っていたのだ。南を見つめるその瞳には、深い深い愛情が宿っていた。司が優しい人間だということは、息子の俺でさえ、南がいて初めて知った。
「俺にとってのお前が、司にとっての南だからだよ」
 俺の言葉に雪は目を開き、それから微笑むと、「上出来ね」と俺の隣に並んだ。俺は照れ咲いしてから、雪の手を握りなおして騒がしい通りに出る。
 早く店にたどりつかないと、予約時刻がせまっている。でも、食事のあとは──ゆっくり、時間なんて忘れて、雪のことを食んでやる。
 そして俺は、やっと本当の意味で、女のことを愛おしむのだ。

 FIN

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