ALIKE-2

独り立ちのとき

 火曜日の夜、夜行バスに乗って新しく暮らす街に向かい、水曜日の昼前に到着した。雪はやたらあくびをしながらもバスターミナルで俺を待っていた。ショートの黒髪、白い肌、薄化粧でもすごく綺麗な顔をしている。
 ワインレッドのニットワンピースと茶色のブーツというすがたで、春物着た雪って初めて見た、と何だかどぎまぎしてしまう。「あたしがお世話になってる不動産屋でいいでしょ」と訊かれてうなずくと、「行くわよ」と雪は慣れた足取りで歩きはじめる。俺はバカみたいに都会のビルや人波をきょろきょろしないように努めながら、ついていくのは癪なので雪の隣に並んだ。
 不動産屋に行くと、雪の部屋を担当したという社員がちょうどいたので、その人が俺が提示した条件を聞いて、いくつか候補を上げてくれた。
 タブレットの画面を覗きこみ、「洗濯機置き場ってあったほうがいいわよ」と雪もチェックを入れる。「あったほうがいいというか、なかったら洗濯どうすんだよ」と訊くと、「毎回コインランドリーね」と返ってきた。マジかよ、と思っていると、「このあたりはコインランドリーが近場にないので、洗濯機置き場は僕も重要だと思います」と社員はPCに向かい合って、条件の合う物件をまだまだ探している。
 何かけっこう面倒なんだなあ、とか思いつつ、一時間ぐらいいろんな間取り図を見て、何とかみっつに絞ると、全部近所だから歩いてまわれるということで内観に行った。
 エアコンはあったほうがいい。風呂とトイレは別れてなくても、ユニットバスでいい。生活音すべてが筒抜けになるまで薄い壁はちょっと嫌だ。そのあたりを気にしながら空っぽの部屋を確認し、全部見てまわった結果、二番目に見た南向きの二階の部屋が一番ではないかと、俺も雪も意見が一致した。
 そんなわけで、空いている今のうちにその部屋を抑えることを決めて、不動産屋に戻ると、そこで書ける書類には全部記入した。保護者に書いてもらう書類も確かにあって、それは持ち帰って速達で送り返すと約束する。
 希望入居日の目安なども聞いてもらったあと、俺と雪は夕暮れが始まった頃に不動産屋をあとにした。
「今夜の夜行バスで、もう帰るんだっけ」
 雪はケータイに来ていたらしい着信を見てから、隣を歩く俺を見上げてくる。誰からの着信だろ、と思っても、言えない。
「そうだな。二十一時のバス」
「夕食はこっちで食べれそうね。食べたいものある?」
「へえ、おごってくれんの?」
 冗談で言ったのだけど、「合格祝いしてあげなきゃいけないから」と雪は真顔で答えた。
「はっ? いや、別にいいし、そんなん」
「あんたは、何が好きだっけ? そういえば、そういう細かいところ知らないわね」
 俺は雪を見つめて、「別に、これから分かるだろ」とつぶやいた。雪は少し咲うと「そうね」とうなずき、そんな雪の髪がさらさらと春風に揺れて、いい香りが俺の鼻腔にも届く。
 合格祝いに食べたいもの。完全にゲスだけど、雪が食いたいとか思ってしまう。
 もちろんそんな本音は伏せて、「家に肉出ると、授が食い荒らすから、肉がいい」と言って、俺と雪は駅前のチェーンのステーキハウスに向かった。春休みとディナーの時間で混んでいたけど、席が空くまで待つほどではなかった。
 鉄板で肉が焼ける音と匂いがただよう中、ウェイトレスに案内された席に着いて、しっかりラミネートされたメニューをめくる。授と奏あたりが盛り上がりそうな、うまそうなステーキの写真が並んでいる。
 高いよなあと思いつつ、「牛タン食いたい」と言ってみると、「好きなの選びなさい」と雪は羽振りのいい言葉を返してきた。
「けっこう高いぜ」
「いつもは食べれないもの食べていいわよ」
 雪もメニューをめくり、カットステーキに決めた。ベルで呼んだウェイトレスに注文が終わると、それぞれドリンクバーから飲み物を持ってくる。
「雪ってバイトとかしてんの?」と問うと、「やってなきゃ牛タンはおごれないわね」と雪は野菜ジュースを飲む。ジュースでもいいから野菜を採れという、南の言葉がよぎる。
「何のバイトしてんの?」
「何でもいいでしょ」
「俺もバイトしたほうがいいかなあ」
「学生のあいだは、無理することもないんじゃないかしら。両立は大変よ」
「雪は両立してんだろ」
「どうでしょうね」
 やたらはぐらかされるな、と俺が仏頂面になると、「築が家を出るの、司さんと南さんは寂しいでしょうね」と雪はくすりとする。
「こんなに過保護だったっけ、とは最近感じる」
「心配してるのよ。あんたは一番危なっかしいから」
「何だよ、それ」
「いい加減、ひとりの彼女に落ち着いたら、少しは信用されるわよ」
 雪にそう言われると、なかなかに切ない。本当に相手にされていない。
 たぶん、俺は雪が好きなのだろう──それを認めた頃から、正直、女をあさるのは虚しくなった。しかし、雪が振り向くなんて考えられなくて、高校時代はやっぱり女をたらしていた。雪を忘れられる女なんていないのに、雪に脈がなさすぎて、懲りずに彼女を探してしまう。
 こっちに来たらやめられっかな、と頬杖をついて炭酸が弾けるジンジャーエールを飲んでいると、「お待たせ致しました」と注文した肉がやってきた。
 家では外食することはほとんどないし、南の料理は家庭的なものが多いので、牛タンなんてめったに食べられない。これはあいつらに自慢できる、と生意気な弟たちを思いながら、ひと切れずつソースに浸して独特の舌触りの肉を頬張った。
「うま」と素直につぶやいてしまうと、雪は笑って「お祝いなんだから、味わいなさいよ」とひと口大のステーキを上品に口に運んだ。その肉を食むその口元に思わずどきっとしつつも、よこしまな視線は捻じ伏せて、柔らかい牛タンを噛みしめた。
 そんな夕食のあと、雪は俺をバスターミナルまで送ってくれた。並ぶビルにイルミネーションが灯って、騒がしい人混みの中にきらきらと光が降りそそいでいる。
 抜ける夜風が心地いい中でバスを待つあいだ、「帰り、ひとりで道暗くて大丈夫なのか」と気にすると、「慣れてるから平気」と返ってきた。
 慣れてる。夜道に慣れてる。それって──と訊きたかったけど、そのとき、俺が乗る夜行バスがやってきた。
 荷物を持ち直して、「じゃあまた」と俺がバスに乗りこもうとすると、「春からよろしくね」と雪がめずらしく穏やかに俺に微笑みかけた。バカみたいに見蕩れそうになったが、「おう」と答えて、俺も笑みを作り、バスに乗って指定の座席に腰を下ろす。
 来るときもそうだったけど、思っていたよりふかふかの椅子で、ケータイの充電やらWi-Fiやら、何時間も過ごすのが飽きない設備が整っている。しかし、こうでも隣の席がおっさんだったりしたら一気に萎えるが、さいわい隣はイヤホンで音楽を聴いているだけのリーマンっぽい若い男だった。
 俺は通路側だったので、外の景色は見下ろせない。雪のすがたも確かめられない。それでも、春からよろしく、という最後の言葉がかなり嬉しくて、ひとりにやつきそうになってしまった。
 翌日の昼前に帰宅すると、一応バスで眠ったけど、ベッドで仮眠も取った。ケータイが鳴って寝ぼけながら出ると、向こうの不動産屋が、割引で手配してくれた運送屋だったから、慌てて目を覚ます。翌日見積もりに来てもらい、正式に契約が決まると、すでに見積もりの人が持ってきていたダンボールを受け取り、荷造りを進める毎日になった。
 持っていくもの、置いていくもの、新しく買っておくもの、いろいろダンボールの中身を決めていると、ちょくちょくケータイが鳴る。不動産屋の連絡だったりするから、なるべく素早く手に取る。
 しかし、高校時代を引きずろうとする女からのときもあり、そういうときは舌打ちして出ることもせず、連絡をよこした奴から順番にブロックした。
 雪からの連絡は特にない。俺も理由もなく連絡できない。返送した書類を受け取った不動産屋によると、問題なく俺は部屋を借りれるそうで、残すは当日の鍵の受け渡しのみとなった。
 初めは俺が家を出ることをあれこれ揶揄っていた弟たちだったが、発つ日が近づいてくると「マジで野菜は重要ですよ」とか「たまに帰ってくるよね」とか言われるようになった。「せいせいするんじゃないのかよ」なんて憎まれ口をたたきつつも、長いことこのにぎやかな家庭で育ってきたから、ひとり暮らしの静けさに耐えられるだろうかとちらりと思ったりもする。
 荷造りは引っ越しの前日にすべて終わって、その夜は司と南、そして兄弟も揃って夕飯を食った。献立はまぐろや桜えびの色とりどりの手毬寿司、あさりの茶碗蒸し、デザートもあっていちごのムースだった。
 ひんやりしたデザートを食べはじめたあたりから、「うー」と奏が泣きそうになって、南になだめられていた。「向こうでどう過ごすかは、お前の自由だと思うけど」と司がまじめな顔で俺を見つめて言う。
「盆と正月は帰ってきてくれよ」
「……分かってる」
「それ以外でも、何かあればすぐ頼ってくるんだぞ」
「ああ」
「俺たちはいつでもここにいるからな」
「知ってる」と俺は咲ってうなずき、甘酸っぱいいちごの果肉のかけらを口に投げる。
 司と南。男同士で愛し合ってる俺の親。ガキの頃は大嫌いだった。ふたりのことも、この家も、弟たちも。普通じゃない家庭が心から憎かった。
 でも、いつのまにか、離れることになるとこんなに息苦しさがこみあげるようになった。雪のそばに行けるのは嬉しい。でも、代わりにこのうるさい一軒家でなく、しんとしたワンルームが帰る場所になる。
 やっぱり、ほんの少し、慣れるまで寂しいだろうなと思った。

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