また会えるなら
夕食のあと、シャワーを浴びると、冷凍庫から適当にカップのバニラアイスを拝借して、リビングのソファでそれを食べた。
夏休み明けの実力テストという俺の脅しが一応効いたのか、授は同じくリビングで、響に教わりながら宿題に手をつけていた。何だかんだで授には響という秀才がついているので、得だよなと思う。
一緒に食器を片づけた司と南は、ダイニングで麦茶を飲みながら、少しゆっくりするようだ。バニラビーンズも混じったコクのあるアイスをすぐに食べ終わると、俺はソファを立ち上がった。
カップはゴミ箱にやって、スプーンひとつくらい洗っておいた。それに気づいた司が、「前はそんなことさえしなかったのになー」と笑って、「箸とかはさすがに洗うんだよ」と俺は言い返す。「割り箸じゃないところがえらいね」と南もくすりとして、弁当についてきたら割り箸だけどな、と思っても黙っておく。
涼しいリビングに戻ろうとしたけど、少し気になったので、司と南がいるダイニングのテーブルの脇で立ち止まった。
「あのさ」
俺が声をかけると、「ん?」とふたりはこちらに視線を向けた。「どうした」と司に問われて、どう言ったらいいか考えたあと、「雪から俺のこと、よく聞いたりしてるのか」と率直に訊いてみる。
「そんなに頻繁ではないな」
「なかなか様子見れなくてすみませんとは言われるよ」
「雪ちゃんも雪ちゃんの生活がいそがしいだろうしな」
「………、俺が女といたとか、そういう話は」
ふたりは訝る表情を見せてから、「されたことないよな」と司は南と顔を合わせ、南はうなずく。
「どうして?」
「何だよ、やっぱり遊んでるのか」
あきれたように言った司に、「遊んでねえよ」と否定はしておき、「ただ」と言葉を続ける。
「雪に友達といるところを見られたことがあって」
「友達って、女友達か」
「女……というか、まあ、見た感じは」
「見た感じって何だよ」
「雪は信じないと思うけど、それ、男なんだよ」
司と南はまたもや顔を合わせた。「本人は男の娘って名乗ってる」と俺が仏頂面で説明をつけたすと、ふたりは思いがけなかった様子で面食い、それから「お前がそういう友達を持つのは意外だな」と司、ついで南も「でも、築の友達の話って初めてかもしれない」と述べた。
「雪にも友達だとは言ったんだけど。やっぱ信じてなくて、女と遊んでるって報告されたかなって」
「されてないな」
「友達って信じてくれてるんじゃない?」
「ならいいけど。あとから雪が何か言っても、ほんとにそいつは友達だからな」
「なかなか愉快な友達だな」
「話が合うんだよ。一緒にいて楽だし」
「さいですか」
「ふふ、築にそんな友達ができたのは僕たちも嬉しい」
「男の娘かー。高校卒業すると、確かにいろんな奴に出逢うよな」
「僕たちも高校卒業して視界が広がって、一度別れちゃったもんね」
南の言葉に「それは俺が悪かったんだよ」と司は南の頬に優しく触れて、南は司にはにかんで微笑む。俺はそれを見つめてから、「そのとき司はかあさんのとこに行ったんだっけ」とつぶやく。司は俺を見て、「そうだな、逃げるみたいに」と正直に認めた。
俺はおもむろにふたりの正面の席の椅子を引くと、そこに腰かけた。
「雪にはさ、たぶん、彼氏がいるんだよ」
俺が唐突にそう言うと、司と南はまじろいだ。俺は視線をテーブルに置いたまま続ける。
「司とかあさんが別れるとき、かあさんが俺を引き取ってくれなくてすごく哀しかった。かあさんのそばにいたかったのに、置いていかれたみたいな気がしたんだ」
「……ああ」
「今はそんなこと思ってないし、司と南が親になってよかったんじゃねって思う。それは、俺のことをしつこくしかってくれた雪のおかげでもあるんだ。そんなふうに構ってくれてた雪に彼氏ができて、何か──俺はまた、置いていかれるのかなって」
俺のうつむいたままの話を、司と南は真剣に聞いてくれる。リビングの授と響は、こちらに関わらず勉強している。
「雪ちゃんに、彼氏って紹介されたの?」
「たまに飯食ってるとは言われた」
「飯はつきあいって場合もあるからなー」
「腕とか組んでたし」
「見たのか?」
「俺が友達といたとき、雪は男といたんだ」
「雪ちゃんは男遊びするタイプではないよなー」
「彼氏ならはっきり言いそうだよね。築に変に期待持たせておく子じゃないよ」
「だよな。雪ちゃん本人にしっかり確かめて、泣くのはそれからでいいだろ」
「泣くっつーか……いや、ほんとに彼氏って言われたらどうすんだよ」
「男の娘にでもなぐさめてもらえ」
「男はなぐさめになんねえよ」
「行きずりの女の子よりは、友達と話すほうが心強いでしょ」
俺は眉を寄せて考え、まあそうかなあ、と秀のあっけらかんとした笑顔を思い出す。「それと、そろそろ言っておきたかったんだけどな」と司が話を続けた。
「俺もお前のかあさんとは連絡取ってないけど、こっちからも向こうからも音沙汰がないだけで、縁が切れたわけではないぞ」
「えっ」
「つか、お前のかあさんは巴の友達だしな。巴に話せば、取り持ってくれると思う」
「取り持つ、って」
「会いたいなら、いつでも会えるってことだよ」
どきっとして、俺は司を見つめた。会いたいなら、かあさんに会える──。
「お前もだいぶ大人になったしな」と司は穏やかに微笑む。
「かあさんと話したいと思うなら、もう会ってもいいんじゃないかと思う」
俺は少ししばたき、なぜかかあさんの最後のすがたを思い出した。俺を抱きしめてくれていたけど、「ごめんね」と軆を離すと、手を振って司が待つほうに肩を押した。あのときの、かあさんには手放されて、とうさんである司の元には行きたくない、宙ぶらりんになった不安感がよみがえる。
「迷惑……じゃないかな」
俺がかすれた声でやっと言うと、「そんなわけないだろ」と司は柔らかく苦笑する。
「あいつにとっても、築と授は大事な自分の子供だよ。それはきっと、ずうっと変わらない。あいつも本当はお前らに会いたいと思うよ」
……かあさん。そうなのだろうか。
今でも俺のことを想ってくれているのだろうか。俺は見捨てられたわけではないのだろうか。
「誰も築をひとりぼっちにして置いていったりしないよ。紫さんも、雪ちゃんも──もちろん僕たちもね」
なごやかに笑んだ南を見る。紫、というのはかあさんの名前だ。
「だから、雪ちゃんのこともね。少し自信を持って、本人に訊いてみてごらん。築が思ってるより、雪ちゃんは築のことを考えて答えてくれるはずだよ」
俺は背凭れにもたれると、「うん」と小さく答えた。
司と南に反発する俺を、何だかんだ言いつつ放り出さず、説教してくれた雪。家出の真似事をすると、授と響と捜しにきてくれた。雪に言われて、司と南の絆も本当は分かっていた。だから、中学生になって司と南の長い経緯を聞かされたとき、悲痛なほど愛し合っているふたりを受け入れようと思えた。
そのとき、かあさんに対する引きずる気持ちにも整理がついた気がする。このふたりの絆を目のあたりにして、引き下がるしかないと判断したかあさんは至極仕方なかったのだ。
別れないと我を張っても虚しいだけだった。身を引くことがゆいいつの司への愛情表現だった。そして、もう俺を引き取る気力なんて残っていなかったのも察せる。
俺を放り出したわけじゃない。ただ、あのとき、かあさんは自分の感情で手いっぱいだった。しかし、今ならかあさんの心も安らかになっていて、また俺に咲いかけてくれるのだろうか。名前を呼んでくれるのだろうか。そうだとしたら、俺は──
その夜、部屋が完全に授のものになって散らかっていたので、俺は一階の和室にふとんで眠った。
翌日は昼から奏がやってきて、奴は相変わらず生意気な末っ子だった。「築くんの女たらしー」とか言われて、「もうやってねえし」と返すと、「嘘だあ」と無邪気に信じやしない。俺は舌打ちして無理に訂正せず、肘掛けに頬杖をついて授がプレイするゲームを眺めた。南は作業が押しているらしく昼食のあとすぐ作業に戻り、響が食器洗いを申し出てキッチンに立っている。
南は作業が煮詰まると、煙草かアルコールを精神安定剤にしてしまうのだけど、司がそばにいたら落ち着いて集中できるそうで、司も作業部屋につきそっている。しばらく離れていたけど、家の中のにぎやかで穏やかな空気は変わらなくて、たまに帰ってくるぶんなら悪くないもんだなと感じた。
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