アスタリスク-11

Wish Kiss【2】

「藤崎に相談されたんだけど、君はもうここを辞めたほうがいいと思う」
 段ボールが積み上がるひんやりした空気の中で、僕は四十絡みの男のエリアマネージャーを見た。そう言われることは分かっていたのに、いざ言われると焦りが生じてくる。
「それでもどうしても働きたいなら、せめて週三までにしなさい。フル出勤は負担にしかならない。無理はするな」
「……週三じゃ、家賃とかはらえない……です」
「家の人に仕送りで手伝ってもらうか、部屋は引きはらって実家に戻りなさい」
 僕は目を開いてエリアマネージャーを見た。
「あんな……とこに、帰るんですか。頼れるわけないのに」
「君の面倒を見る自信がもうないって藤崎が言うんだ」
「面倒……」
「そうだよな、藤崎」
 エリアマネージャーにうながされ、藤崎さんは少し気まずそうにしたものの、僕を上目でちらりとしてから言った。
「怖いの。私、もう……君が怖いから、辞めてほしい」
 こわい。
 また、その言葉か。志帆と同じ言葉か。僕はそんなに他人から見ると──
「でも、僕……家は嫌です。あんな、」
「だからって、職場に迷惑をかけていいわけじゃないんだ」
「君、最近売り場にも出てないでしょ? 困るの、そういうの」
「ちゃんとします、家に戻るくらいならちゃんと働きます。お願いだから。家は嫌です。しっかりします」
「もうダメだ! これ以上、藤崎に甘えないでくれ」
「甘えませんから! 実家にだけは戻りたくないです、まともになるからっ……」
「伝えたから、もう決まりだ。四月いっぱいは週三で通っていい。そのあいだに次の仕事を見つけなさい」
 次の仕事って。何だよ、それ。矛盾してるだろ。お前は働けない、週五は負担だとか言ってるのに、ほかの職場ならそれができるというのか? それはつまり、この職場から厄介払いしたい、消えてほしいってだけじゃないか。
 無理するななんて、優しいことを言うんじゃねえよ。クビだってひと言言われたほうがマシだ。涙がぽたぽたこぼれてきたけど、エリアマネージャーは無視して立ち上がり、藤崎さんもうながされて倉庫を出ていった。僕は嗚咽をこらえきれずに床に崩れ落ち、激しい嗚咽を響かせた。
 藤崎さんに、あんな目つきであんなことを言われたのがショックだった。あの人にならついていけると思ったのに──
 涙をぬぐって息を整え、何とか立ち上がると、よろよろと倉庫を出てバックに入った。後輩が休憩で食事を取っていた。僕は無言で服を着替え、ロッカーのリュックを取り出した。脱いだ制服を見て、洗濯して返すべきなのは分かっていたが、もうこんな職場に来たくもない。忌ま忌ましく舌打ちをしてから、ロッカーの中に乱暴に投げつけた。そして黙ったままバックを出て、店内をつかつかと歩いて、誰にも挨拶せずに店を出ていった。
 僕は、人生でふたつ目の仕事を失った。そして、それからまもなく、夕乃から自分も辞めたとメールが来た。僕は夕乃を部屋に招いて、「俺も藤崎さんにいらいらしてたんだよな」とビールを飲みながらつぶやいた。迎合の言葉ではなさそうだったので理由を問うと、「あの人、バイトの野郎とつきあってんだぜ」と僕は勘づきもしていなかったことを夕乃は言った。
永崎ながさきっていただろ。あいつ」
 僕は少し考えてから、そんな顔で売り場に出るなと言った奴だと思い当たる。
「永崎から告ったらしいけど、藤崎さんもまんざらでもなくつきあいはじめて。移転落ち着いた頃だから、二月くらいかな。それから、藤崎さん、何かおかしかっただろ」
「おかし……かったかな」
「それまでは、面展とかにバイトの意見も熱心に取り入れてたのに、何言っても上の空というか。でも、永崎との作業ではすげー気合入れて動いてさ。スタッフに平等じゃなくなってた」
「……そうなんだ」
「月芽のことだってさ、ずるいじゃん」
「ずるい?」
「月芽がうぜえなら、自分で言えばいいだろ。エリマネ呼んで、代わりに言ってもらうとかさ。二対一で責められたわけじゃん」
「……うん」
「一対一が怖いっつうなら、せめて月芽にもひとりつかせるべきだったと思う。俺でもいいし──それか、ねえちゃんとか。姉貴なら家族だけど信頼できるんだろ?」
「うん」
「藤崎さんがそんなだから、俺も辞める決心がついた。あれじゃ、あの店の黒字は持たない気がしたしな」
 僕は冷たい烏龍茶のペットボトルを手にして、澄んだ苦味を飲みこんだ。夕乃は僕を見て、「月芽は悪くないから、気にしないほうがいいぜ」と言った。
「でも、僕、確かに変だったし。手首刺したりしてたし。売り場出れなかったし」
「じゃあ、せめて俺が採用されたときに、月芽のことクビにすればよかったじゃん」
「えっ」
「死のうとした月芽を、それでも雇った。そんなふうに理解するって信頼させて、それから突き飛ばしたのが、個人的には気に入らない。しかも、その理由が男ができて頭ふわふわしたから? ふざけんじゃねえよ」
 夕乃を見つめて、少し咲った。乱暴な口ぶりは、彼なりに励ましてくれているのだろうと思った。「そうだね」と僕はフローリングを見つめる。
「藤崎さんなら、分かってくれるって、思ってたとこはあったかも。それを、甘えだって言われたけど。上司を信頼するのは、よくないことなのかな」
「大事なことだよ。藤崎さんが、永崎以外のバイトからの信用を無下にするようになっただけだな。あの人が変わったんだよ。月芽はあんまり自分を責めんな」
 また最悪なかたちで職を失ったけど、あの古本屋で働いて、夕乃に出逢えたことはよかったと思った。夕乃のことは、不思議と姉と同じくらい信頼できる。こんな友達がいてくれるなら、僕も生きていかないといけない。
 その日、僕は志帆から電話があったから頭が錯乱していたことも話した。「無視でいいんだよ」と夕乃は言った。僕はうなずいた。「月芽が死んだら、俺また友達ゼロなんだぜ」と言われるとちょっと咲ってしまった。
 それから、僕は新しいバイトを求めて面接をくりかえした。レンタルショップ。ドラッグストア。リサイクルショップ。昼の仕事は相変わらずなかなか受からない。夜の仕事はなるべくしたくない。でも、そんなわがままも言っていられないかと、深夜まで営業している居酒屋や焼き鳥屋にも面接に行った。なるべく質問したり、説明にうなずいたり、挨拶だってもちろん気をつけるのだけど、どこも色よい返事をくれなかった。
 四月は、結局貯金を崩して家賃や光熱費をはらった。貯金はもともと五十万あったが、引っ越しで三十万飛んだ。そして今月の支払いで、早くも二十万も残っていない。無職のままでは、恐らく三ヶ月持たずに支払いを滞納することになる。
 焦ってきた。家には帰りたくない。父の怒鳴り声も、母のすすり泣きも、うんざりだ。あの家に戻ったら、僕はいよいよ自殺してしまう。あの家であんな想いをするのはたくさんだ。死にたいと思いながら生きたくない。正気のために手首を切りたくない。
 やっぱり夜の仕事しかないのだろうか。とりあえず夜の仕事でもいいから働いてしのぐしかないのか。そうしないと、本当に実家に強制送還だ。僕は電車に乗って、以前働いた歓楽街より遠い、別の歓楽街にやってきた。
 黒服の仕事がてきぱきできないことは分かっている。だとしたら、自信の欠片もないけど、ホストしかない。それでも、案の定かもしれないが、ホストの面接など通らなかった。「顔はかわいいんだけど、何か目つき危ないよね」とか言われた。
 五月、僕は二十一歳になっても仕事を見つけられないままでいた。どうしよう。家に帰るのか? いったん離れられたのに、いまさらまたあの部屋に? 何で僕は、仕事に就けないのだろう。面接をいくらやっても落ちる。受かって働けている人は、神業を得ている気がする。
 その日もまた採用の電話が来ないまま零時が過ぎて、こんな深夜に採用連絡があるわけないのに零時まで待っていた自分がバカバカしくて、ふらふらとコンビニまで食べ物を買いにいった。カレーパンとミルクフランスと、紅茶のペットボトルにした。
 ぼんやりしていたので、何かにぶつかりそうになった。すみません、と言いそうになってから、我に返る。電柱だった。何だよ、と息をついて夜道を帰ろうとしたが、僕は足を止めて振り返った。
『かわいい男の子専門!
 あなたの欲望受け止めます』
 首をかしげて、その貼りつけられたチラシをよく見た。女の子が胸を突き出しているこういう広告は見たことがあるけど、それに映っている半裸の奴は、確かに男だった。たぶん、こういうのは風俗だ。男が風俗って──しばらく考えてから、ホモ相手の風俗か、と思い当たった。
 いや、それはない。さすがにない。男の軆にそんなふうに触れるなんて吐く。女の子は最終手段に風俗があるからいいよなあ、とか思っていたけど、男にもあるんだなと思った。あったとしても、僕にはしょせん無理だけど。
 息をついて、帰り道をたどろうとした。でも、五歩も離れないうちに電柱を振り返った。
 現在、五月末。今月ははらったので、六月までは今の部屋に住める。でも、ぶっちゃけ、来月はすでに支払いの余裕がない。食費とかを考えたら、来月には確実に残高は五桁を切る。仕事を選んでいる余裕があるのか? 第一、今から堅気の仕事を始めて来月の支払いに間に合うのか?
 そのチラシには『求人』の文字もあり、日払いとかも書いてある。生唾を飲みこんだ。周りには誰もいない。コンビニの光は明るいけど。僕は早足で電柱に近づき、ぐちゃっとそのチラシをつかんで剥ぎ取った。そして急激な搏動を飲みこんで、臆病にきょろきょろしながら、自分の部屋に急いだ。
 部屋に到着すると、急いで鍵をかけて、電気つけっぱなしだった部屋の真ん中に座りこんだ。コンビニのふくろを床に投げ、少し破れた白黒のそのチラシの求人項目をよく見た。
 好きな時間に。稼ぎたいだけ。初心者も歓迎。
 しかし、こういうところはどういった仕事をするのだろう。ホモ野郎のものにするのか、あるいはされるのか、どちらも覚悟するのか。『詳しくはこちらを』とQRコードがあったので、ケータイで読みこむと『十八歳以上ですか?』と表示された。
 これが踏んだら妙な登録になってしまうものだったらやばい。そう思って画面を落とし、次は店の名前を検索してみた。するとホームページがヒットして、クリックしてみるとまた十八歳以上か訊かれる。悩んだ末に、思い切って『はい』をクリックした。
 すると『本日の出勤』とか『新人入りました』とかいう宣伝が出ていて、モザイクの入った少年の顔写真がいくつか並ぶ。どうやら詐欺サイトではなさそうだ。
 カチ、カチ、とスクロールしていくと、『求人について』というリンクがあったので、クリックしてみた。すると、気軽に電話質問とか、まずは体験入店とか、思ったより素人でも戸をたたいて大丈夫そうな解説が載っていた。男同士なんて、考えたこともなかったし、勝手にエイズのイメージしかなかったけど。病気の危険は、女の風俗も同じだろう。
 もし自分が女なら、風俗にでもすがるのに。そう思っていた。男でも風俗に行ける。僕はあまり男らしくないが、そのぶんかわいいとは言われる。いや、率直に言えば、かわいいのではなく童顔だと分かっているが。かわいい男の子専門とか書いてあったよな、とちぎってきた広告を確認する。
 僕はもう、何でもいいから働かなくてはならない。崖っぷちだ。この際、プライドもリスクも踏みつけにしなければならない。そもそも楽しい仕事なんてないのだ。だったら何をやってもいいではないか。エイズになったらなったで死ぬわけで、僕はそれでも構わない。
 面接の予約は十九時から零時までとあるから、今日はもう無理だ。深呼吸して、よし、とケータイを閉じると、僕は明日この店に電話をすることを決めた。買ってきたパンを食べて、でもやっぱ美形じゃないと受からないのかな、とどうせ採用されない予感もしながら、その日は午前二時くらいに就寝した。

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