Wish Cure【1】
軆を売ることさえ自分にはできないと知った日、僕は姉に電話して、いったん実家に戻るしかないと伝えた。
「私に余裕があるなら手伝ってあげたいけど」と姉は言って、でもそれ以上は言わなかった。姉だって、自分ひとり食べるだけで精一杯なのだ。責めるわけにはいかない。少しだけでもひとり暮らしをしてみて、いっそう姉がぎりぎりで生活していることも察した。「戻る日は付き添うから」と姉は言ってくれて、僕はうなずいた。
六月末に引きはらうことを不動産屋に伝えると、暮らしはじめてまだたった三ヶ月だったから、担当の人に当然驚かれた。適当に、実家の母が倒れて介護が必要になってしまったとか言っておいた。運送屋の手配もして、せっかくほどいた荷造りをやり直していく。電気やガス、水道に停止の連絡をしたり、買ってしまった冷蔵庫と洗濯機は持ち帰れないので、もったいなくても処分する。
そうして一ヶ月が過ぎ、僕は重苦しい気分で実家の部屋に戻ってきた。
運送屋が去るとベッドサイドに座って、僕はさっそく鬱に沈みはじめてきて、姉はせめて雨戸を開けて室内に光を入れた。貴重品を入れたリュックをたぐりよせ、いちごとミルクの飴を取り出して口に放った。
姉は僕の隣に座り、「つらいときに、泊めてあげることぐらいはできるから」と言った。僕は無言でこくんとして、優しい甘味を口の中で転がす。
「月芽、その飴そんなに好きだった?」
僕は姉を見て、「ちょっと元気になる」と言った。「そう」と姉は僕の頭を撫でた。
軆を売ろうとまでしたことは、一週間くらい前に姉には話した。そのとき姉は、「できなくてよかったよ」と半ば泣きそうな声で言って僕を抱きしめた。
「自分のことは大事にして」と姉は言った。軆を売らないことが本当に自分を大事にするということなのだろうかとちらりと思ったが、「うん」と僕は答えた。そんなふうに信頼する姉だったが、この飴を僕に口移して「おうちに帰るんだよ」と諭したあの少年のことは、何となく話さずに胸にしまっていた。
あれから、もちろん会うことなんてないままだった。だが、なぜか僕は紅が忘れられず、あのキスを思い返すように、僕はこの飴をしょっちゅう舐めているようになった。処方されるようになった精神安定剤と、この飴の甘さが僕をなぐさめた。
「また、次の病院のときに来るから。それまで、なるべく部屋にいて休みなさい。手首は切らないようにね」
現在、病院には隔週水曜日に通っている。僕が実家に戻ることにしたのを聞いた先生は、不安定がひどくなるのを案じて精神安定剤を出してくれるようになった。それまでにも、軽い睡眠薬は出してもらうことはあったけれど、先生は僕の軆を案じて二十歳までは薬は出さず、なるべくカウンセリングで治そうとしてくれていた。
成人してついに薬を出すことにしたときも、血液検査をしてからだった。そして半年に一度は採血し、薬が体内を濁していないかもチェックしてくれる。
先生に実家に戻ることになったのを報告したとき、自分はもういっそ死んだほうがいいのではないかと僕はまた泣いた。先生は滅多に、僕の話をさえぎったり否定したりしない。「死にたい」と言っても、死ぬのはダメだと言うのではなく、「本当につらい気持ちになったんですね」と感情を受け入れてくれる。
でもそのとき、初めて先生は「死んではダメですよ」と言った。それはきっと、僕が本当に死にかねないと察知したのだと思う。またあの家で暮らすなんて、どんなに僕にとって惨たらしいか、先生は分かっていたのだ。
先生が案じる通り、再び実家で暮らすようになって、僕は脳が破裂して狂ってしまいそうだった。父が母をののしり、出戻った僕についても毒づいている。しばらく父の声をまったく聞かずに過ごせたせいで、耐性が弱くなってしまったようだ。
野太い父の声が耳に届くたび、頭をかきむしったり、唸って耳を塞いだり、姉に言われたのに手首を切ったりしてしまう。父の留守中も物音に過敏で、怯えたりいらついたり、ぐちゃぐちゃに叫び出しそうになる。静かでも不安感が黒く迫ってくるし、吐き気がこみあげて無気力が手足に重たく蔓延した。
精神状態をとても水平に保てない。また自立するために働いて貯金しなくてはならない。だけど、努力しようとしても、そもそも正常に生活することができない。朝に起きるとか。三食食べるとか。充分に眠るとか。何もできない。
不整脈のように苦しく毎日が過ぎ、自分の中が濁っていくのだけはよく分かった。呼吸がつらい。思考がうざい。感情が痛い。滅入る精神を引き裂き、いっそ父を殺してしまいたかった。それしか僕を救ってくれる手段はない気がした。
父を殺す。あるいは、僕が死ぬのだ。
その夜も帰宅して早々、母がぼんやりしたまま食事を用意していなくて、父は汚物をまき散らすように怒鳴りはじめた。僕は暗い部屋でベッドの上で丸くなり、過呼吸で汗が滲んでくるのを感じた。耳を手で抑えると、自分のめちゃくちゃな息遣いが頭に反響して、取りこまれるように意識が混濁してくる。
うるさい。うるさい。もう死ねよ。そんなにいろんなことが気に入らないなら、お前なんか死ねばいいんだ。それだけ生きていていらいらするなら、死ねばいいんだよ。何で死なないんだよ。死ねって思われてんだよ。気づけよ。
生きる価値がないのはお前だ。お前さえ消えればうまくいくんだ。それとも嫌がらせのために生きているのか。存在をかけて僕や姉や母を苦しめたいのか。なぜそんなに僕たちが憎いのに家を出ていかない?
ひとりが怖いのか。孤独死が怖いのか。それだけのために、母と結婚していまだに解放しないのか。死んだあとに骨を取り上げてもらうため、僕や姉を作ったのか。無縁仏にならないのと引き換えに消えないなら、むしろ僕たちに頭を下げるべきだろ。なぜそんなにたたきのめしてくる? あるいは、自分の骨を「取り上げさせてやる」という意識なのか。お前は自分はそんなにえらいと思っているのか。腐敗の中でうごめく蛆虫より不潔なくせに。
生きているだけで迷惑なんだよ。誰にも愛されないような人間であるお前が悪いんだ。何で僕たちがお前の孤独につきあわされ、家族という縛りになってしまうんだ。お前なんか、その腐った性格に相応しく、ひとりで死んでしまえ。早く死ね。何でもいいから死んでしまえ。死体を見捨てられたくなかったら今すぐ──
どんっ、と壁を殴る音がして、僕は思考を切断されてびくんと身を震わせた。目を瞑る。父は母に怒鳴っている。
一瞬、心の中がぞっとするほど凪いだ。冷たい静寂が、すぐに父の怒号に犯されていく。
僕は荒い息を浅く残すまま、ゆっくりと身を起こして、ベッドを降りた。鼓動が静かに深みに堕ちていく。
もうダメだ。
殺すしかない。
【第十四章へ】