Wish Cure【2】
のろのろと、ゾンビのように歩いて部屋を出た。ドアノブを下ろして廊下に出ると、父が「このノロマっ」と床を踏み鳴らしていて、母が泣きながら「すみません」と謝っている。
自分の頭も心も壊れているのが分かった。故障して、その光景に動くものがない。恐怖も嫌悪もない。
どうせ今、僕が終わらせる。
素通りしてキッチンに行くと、父が「料理はお前じゃなくてかあさんの役目だっ」と的外れなことをわめいてきた。僕は何も反応せずにシンクの下の戸棚を開けた。包丁が三本並んでいて、一番大きなものをつかみだした。そして細く息を吐くと立ち上がり、柄を握りしめてゆっくりリビングに戻った。
「……てやる」
こちらを見た父に向かって包丁を構えて、僕はもう一度はっきり言った。
「殺してやる」
「……は? 俺を殺すのか」
「殺してやる」
「親を殺すってことを分かってるのか?」
「殺してやる」
「できもしないくせに」
「殺してやる」
「俺が気に入らないならお前が死ね! ここにいる奴は、俺の稼ぎに寄生してるだけだからなっ」
僕は声を上げ、包丁を父の懐に突き刺そうとした。だが僕の脚に母が取りついてきて、飛びこんであと数センチで刺さりかけた包丁をさしとめた。僕は唸って母を振りはらい、父にまだ刃向かおうとした。しかし母は「やめて」と泣きながら僕を抑えつける。
「月芽がそんなことしなくていい。月芽が警察に連れていかれることはないの」
僕は母を見下ろした。母は僕にしがみついて泣き出してしまう。僕は唇を噛むと、「じゃあ、」と握り直した包丁を首に押し当てた。
「もう死ぬしかないね! こいつが生きてるんなら、死んだほうがマシだっ」
母が悲鳴を上げた。赤い飛沫がスローモーションのように視界に入った。どくん、と喉の熱い脈打ちが痛みをこじ開ける。
手を滑り落ちた包丁が、がちゃん、と床で跳ね返った。倒れこむと、急回転した白熱燈が頭の上でまばゆく光る。
予想以上の血なまぐさい香り。堅いフローリングに脱力して、「月芽、月芽、」と肩を揺すぶられる。「おい、ほんとに死ぬぞ」とまるで尻尾を巻いた犬のような声がした。
僕は咲った。そうだ。ほんとに死ぬよ。お前が生きているせいで、僕は死ぬんだ。お前が僕を殺したんだ。
──気がついたとき、ぼやけた視界の向こうがやたら白かったから、死んだのか死ねなかったのかどっちだろうと考えた。そんな思考が働くことにがっかりした。
無ではない。まだ脳みそが思考を打ち出している。僕は生きているのだ。
やがて、天井も周囲のカーテンも白く、病院なのだと分かった。生きていると悟った途端、負けた気がして泣けてきた。まだ生きている! 死んであいつを責めたかったのに! 僕が死ねなかった瞬間、きっと父がまた威張り散らしはじめたのが分かって、絶望感が垂れこめた。
いや、まだ死ねないわけじゃない。そうだ。首を手当てされているのが感触で分かるけど、剥がしてかきむしればまだ死ねるかもしれない。
僕が身動ぎして首のぶあついガーゼに爪を立てていると、「月芽?」と声がしてカーテンが開いた。僕はテープが引っかかったのでひと思いにガーゼを剥がそうとした。「やめて、」とそれを白い手が止めて、僕はうめいて、声の主を見た。
姉だった。僕は涙が止まっていない目で姉を見つめ、いっそう声を上げて暴れ出した。
「死ぬ! もう死ぬんだっ」
「お願い、落ち着い──」
「何で! 死にたいよ、死なせろよっ。僕が死なないとあいつ分かんないだろ、バカだから分かんないんだろっ。死ぬ、死にたい、死なないと僕が死ぬほど苦しいことが分かんないんだろっ。だから死ぬよ、お前が生きてるから死ぬ! 死なせろ! もう生きたくない、うるさい、死んでやる、死にたい、もう死にたいんだよっ」
支離滅裂にわめいて、ガーゼを剥ぎ取って傷を引っかこうとした僕の手を、駆けつけた医者や看護師が止めた。「落ち着いて」とか「大丈夫だから」とか言われても、僕はよく分からないパニックにおちいってわめき続けた。少しだけ血が飛んだけど、出血がひどくなる前にまた手当てされてしまった。
僕は死ぬとか死にたいとか言ってすすり泣いていて、今の自分は気違いに見えているのだろうかと、ふと冷静に思った。もう何のために、こんなに怖くて、こんなに死にたくて、こんなに泣いているのか分からない。向こうのほうで、「やっぱり少し入院したほうが」という話し声が聞こえた。
姉が僕の手を握った。僕は嗚咽に息を切らして、「死にたい」と絞るようにつぶやいた。
その病院には精神病棟が併設してあるらしく、僕は閉鎖病棟に入院することになった。大部屋で、同年代の患者はいなかった。
居心地のいい生活ではなかった。起床や食事、就寝がきっちり決まっていて、それができない僕は癇癪を起こしやすかった。初めはみんなの中に行きたくないと言って、食事は部屋に持ってきてもらえていた。でも三日もすれば、さすがに「そろそろ食堂に行ってみませんか」と担当看護師にうながされる。
僕は首を横に振ってふとんにもぐりこんだ。「起きなきゃいけませんよ」と若い男の看護師はふとんをめくって僕を起き上がらせる。僕はその手を振りはらい、「うるさい」とか「ほっとけよ」とか口走った。
「朝ごはん食べにいきましょう」
「僕なんか放っておけばいいのに」
「そういうわけにもいかないですよ、さあ──」
「仕事だから、いやいや構ってきてるんだろ。仕事じゃなかったら僕のことなんか無視するくせに」
何となく、この担当看護師が僕は嫌いだった。対応の事務的さが見え透いている。
「そういうの一番ムカつくんだよっ。ほっとけばいいだろ、ほんとは僕に構いたくないんだろっ。でも金をもらわなきゃいけないから、愛想咲いで世話しやがって。うざいんだよ、偽善者が!」
そこまで吐き捨てたとき、僕の腕をつかんでいた看護師の手が離れた。僕はめくられたふとんを戻して、ベッドにもぐろうとした。すると、その看護師の冷たい声が聞こえた。
「じゃあ勝手にしろよ」
僕は唇を噛んだ。……ほら、やっぱり。そういう奴だ。
分かっていた。足音が立ち去っていく。僕は小さくこみあげた過呼吸をこらえて、ふとんの中で目をつぶった。
静電気がこめかみで焦げつく。いらいらする。勝手にしろ。そうだ。勝手にすればいい。僕には行く場所なんてない。勝手に死ねばいいのだ。
首のガーゼに手をかけ、伸びた爪で剥いでみる。十針、糸で縫われているとは聞いた。糸を抜くか、ちぎってしまえばいい。そしてちょっと傷をえぐったら、出血が始まるに違いない。僕はベッドの中で首の傷をいじって、血がしたたってくるのを確かめた。息を吐いて、ぼんやり血の匂いを嗅いでいて、よく眠れなかったぶんだけうつらうつらしてくる。
そのまま眠り落ちそうになったが、不意に「朝食始まってますよっ」と見まわりの女の看護師が現れて、自傷も見つかってしまい、結局手当てされて、「今日まで食事持ってきますけど、明日からは食堂に出てくださいね」と言われた。朝食のメニューはいつも嫌いなもので、あと、必ずバナナがついてくる。吐きそうになりながらそれを食べると、食器は放置してまたベッドに閉じこもった。
何日経ったのか、よく分からない。やっぱりその日もベッドでぐずぐず過ごしていて、死にたいとか切りたいとか考えていた。天井に夏の晴れた日射しが射しこんでいた。周りでは患者同士が会話したり、音楽を聴いたり、僕みたいにくたばったようにしている人もいる。
どのくらいここで過ごせばいいのだろう。家には戻りたくないけど、ここで生活するのも限界だ。やっぱり死ぬのが一番なのではないか。そうだ。死ねばいいだけだ。もう死のう。行く宛てがないのだから、消えてしまおう。
ゆっくり軆を起こして、ベッドから脚を下ろして立ち上がった。スリッパをぺたぺた言わせて、廊下に出た。やっぱり同年代の患者は見当たらない。
僕は何という病気なのか考えたことがなかったが、考えれば、病名は何なのだろう。若い人はあんまりならない病気なのか。あるいはここは閉鎖病棟だから、年齢は関係ないのか。
そんなことを思いながら、廊下の窓に歩み寄った。ここは二階だ。二階から飛び降りて死ねるのだろうか。分からないが、左右見まわしても階段が見当たらない。
窓ガラス越しの太陽が白くてめまいがした。白い手を伸ばし、ロックを引いて開けようとしたが、動かなかった。眉を寄せて逆に押しても動かない。もう一度引こうとしたが、細工があるのか開けられなかった。
死のうと思ったのに。死ぬしかないのに。僕にはどこにも行く場所がない。死なないと、また窮屈に押しつぶされて発狂するだけなのに。
そんな焦りがざわざわとせりあげてきて、息が小刻みになって泣きそうになってくる。恐怖のようにいらだってくる。どん、と窓をたたいた。一度たたくと、やめられなくなった。そうだ、これを割って飛び降りればいい。そう思って、いっそう強くガラスを殴打した。
でも、なかなか破れない。涙がどくどく伝う。唸り声が叫び声になる。僕は執拗に窓をたたいた。まるで、ガラスの向こう側には居場所があるみたいに。
周りがざわめき、過敏な患者は泣き出しはじめた。それでも吼えて窓を殴りつけていると、ばたばたと医者や看護師が駆けつけて、暴れる僕を背中から取り押さえた。「死んでやる!」と僕は泣き叫んだ。背中を羽交い絞めにする医者が何とかを持ってこいと看護師に指示して、ひとりの看護師が走っていった。
「僕は死ぬしかないんだっ」と何とか抗おうとしても、力が敵わない。死ななくていい、とか、落ち着け、とか言われた気がする。僕は病室に引きずっていかれて、ベッドに座らされると「君のことは、医院長先生が診てくれるから」と医者が僕が首のガーゼを剥がしていないことを確認してそう言った。
「あさって、先生が君の話を全部聞いてくれる。そのときまで、もう少しここにいてほしいんだ。先生が、君の話でどうすべきか考えてくれるから」
僕はしゃくりあげながら、「死にたい」とまだぼやいた。そのとき、看護師が薬と水の入った紙コップを持ってきた。「これ飲んで」と医者に言われて、僕は鼻をすすってそれを飲んだ。「しばらくしたら眠くなるから、休んでごらん」と言われて、僕はのろのろとベッドの中に入った。
「死んだりしなくていいんだからね」
僕は朦朧としていて、ろれつもまわらず、うなずくしかできなかった。ふとんの中に隠れて、薄暗い中で自分の鼓動と息遣いを聴いていた。看護師が少し僕の様子を窺っていたけど、そのうちその視線も分からなくなって、気だるさが広がって深い眠りに落ちてしまった。
【第十五章へ】