アスタリスク-15

Wish Cure【3】

 そして翌々日、相変わらずベッドでぼんやりしていた。入院での一日は長い。閉鎖病棟では売店も自由に行けないし、僕と話が合う人も病室にはいない。虚ろにふとんの皺を眺めていると、看護師が僕のことを呼んで「医院長先生が見えたよ」と言った。ちなみに僕を冷たくあしらった男の看護師は、たまに見かけるが僕のことは無視してくる。
 僕はベッドを降りて、呼びにきた看護師について診察室に入った。するとそこには、確かに他の医者より威厳がある初老の男の医者が椅子に腰かけ、かたわらのデスクトップPCを覗きこんでいた。僕に気づくと「お、来たか」と意外と気さくな口調で言って、「よろしくお願いします」と看護師は下がっていく。
「そこどうぞ」と医院長先生は自分の向かいに置かれている丸椅子をしめし、僕はそこに腰を下ろした。
「おとといは派手にやったみたいだねえ」
 医院長先生は笑ってそう言い、「ここを出ていきたいのかい?」と訊いてくる。
「……死にたい」
「あそこから飛び降りても死ねないよ。障害が残って、いっそう大変になるだけだ」
「……どこにも、行けないから。死ぬしかない」
「家にはいづらいのかい」
「………、家は、嫌い」
「そうか。どういうところが?」
「父親が、死ねばいいのに生きてるから。母親のことめちゃくちゃにするし、ねえさんもそれで出ていった。この首のだって、ほんとは父親を殺そうとして包丁にした。刺し殺そうとした。あいつの声がうるさくて死にたい」
 僕の言葉を医院長先生はPCに吸収しながら、カウンセリングを進めた。
 僕は幼い頃からのことを話した。父の怒号。母の謝罪。学校に行けなくなった。引きこもって切りはじめた。死にたくなっていく。家にいたくない。なのに姉のように自立もできない。まともに生きられない。普通の生活ができない。働いても限界が来る。職場でおかしくなってクビにもなった。せっかくの自分の部屋も引きはらうことになった。
 何もかもがうまくいかない。だから死にたい。家にいるなら、せめて父に死んでほしい。父と関わりたくない、声を聞きたくない、気持ち悪い、憎い、怖い──
「明日、ご両親と話し合ってから正式に決めるけど」
 医院長先生はPCへの入力の手を止めると、「うん」と何やらうなずいてから、僕を向いてそう言った。
「そのとき、ご両親が話を分かってくれたら、退院していいよ」
「えっ──い、いいんですか」
「ここにいても、つらいだけだろう」
「……まあ」
「ただ、病院にちゃんと通うようにね。長く診てくれてる先生だから、今回のことも、ここで僕が診るよりその先生に診てもらったほうがいいと思うんだ」
「分かり、ました」
「よし。じゃあ、診察はおしまいだ。よく話してくれたね」
 僕は狼狽を残すまま椅子を立ち上がり、何となく頭を下げると、診察室を出た。そばにナースステーションがあったので、僕を連れてきた看護師が駆け寄ってきた。
「先生、何て?」と言われて、「明日退院、って言ってました」と返すと、「ほんと?」と看護師はにっこりして「よかったねえ」と僕の頭を撫でた。僕も咲おうとしたけど、まだ顔の筋肉が動かない。
 明日退院。だが、両親が話を分かったら、か。何を話すのか分からないけど、あの両親に精神的な病気を理解する能力があるのだろうかと思う。少し不安だったものの、医院長先生があいつにも分かるくらい敷衍して解説してくれるのを期待するしかなかった。
 翌日、やっと行けるようになった食堂で朝食を食べて、病室で茫漠としていると、「月芽」と久しぶりに名前を呼ばれた。入口のほうを向くと、ベッドに歩み寄ってきたのは姉だった。
 閉鎖病棟で、面会も謝絶されているここに姉が来たということは──
「た、退院できるの?」
 僕の質問に姉は微笑んでうなずき、「荷物まとめよう」と言ったけど、運びこまれてそのまま入院した僕に荷物という荷物はなかった。着替えは姉が持ってきてくれていると聞いていたので、それぐらいだ。
 姉はベッドを整えると、「行こう」と幼い頃のように僕の手を引いて歩き出した。僕は躊躇ったものの、両親はいないのかどうか訊いた。「先に帰ってるって」と言う姉は、何やらちょっと嬉しそうにしている。
 看護師に鍵を開けてもらって閉鎖病棟を出て、一般病棟を抜けると、入口の電話でタクシーを呼ぶ。そしてタクシーが来るあいだに、「いい先生だね」と姉は僕を見上げた。
「え……あ、医院長先生?」
「そう。あいつのこと怒ってくれたんだよ」
「怒る、って」
「月芽くんには愛情が足りていませんとか、奥さんをもっと大事にしなさいとか。そんなことあいつに言える人、今までいなかったもん」
「お……怒り返して、なかった?」
「人前だからしゅんとしてるの。言い返すなんてぜんぜん無し」
「そっ、か」
「まあ、それであいつがおとなしくなるとは思わないけど。しばらくは静かに過ごせるんじゃないかな」
「……うん」
 タクシーが来て家に戻ると、父はすでに仕事に行ってしまっていた。「反省してんのかな」とそれを聞いた姉は少しふくれっ面になった。母は僕を抱きしめ、「ごめんね」と「ありがとう」と繰り返した。
 その日は、僕と姉と母の三人で、ファミレスに出かけて昼食を食べた。父がいないだけで、僕たち三人はなごやかに時間を過ごせた。「私の部屋に逃げてきていいのは、月芽だけじゃなくておかあさんもだからね」と姉に言われると、母は結局泣いてしまいながらも「ありがとう」とうなずいた。
 それからしばらく、毎日が穏やかになった。父は不機嫌そうだったが、遅く帰宅してさっさと寝室に行って、怒鳴らずに眠った。父がいびきを立てて眠ってしまうと、僕は部屋を出て母とテレビを見たりした。
 今まで、母のこともちょっと蔑んでいた。何で父に言い返さないのか、誰かに告発しないのか、僕と姉を連れて逃げないのか、離婚しないのか、そもそも、なぜ結婚して僕たちを作ったのか──でも、母は僕のことも姉のことも大事に想ってくれている様子だった。それを表す隙を、父に与えてもらえなかったのだ。
 ある意味、父は母に依存しているのかもしれない。母を独占していたい大きな子供なのだ。息子や娘にさえ、母の目が自分からそれることを許せない。そんなことに気づきながら、秋が過ぎて冬になった。
 僕は働くこともできず、変わったことといえば父の不在なら部屋を出れるようになったことで、あのいちごとミルクの飴をころころと舐めながら、毎日を何の痕跡も残さず過ごした。
 どうしてるかなあ、となんて思うときがあった。たった一度、すれ違いざまにキスしただけの相手に、何をこんなに執着しているのだろう。会えるなら、会いたいな。そう思うけど、何のツテもない。あの店に行くのか? でもあそこでおじさんとしようとしたことを思い出したくない。買えばいいのかなあ、と思うけど金がない。
 僕はベッドに横たわって、飴の柔らかな甘みを飲みこむ。もう会えることはないのだろう。分かっているのに、あの綺麗な容姿もまぶたから剥がれ落ちなかった。
 外出は通院のときくらいで、先生が話を聞いてくれる。医者なんか信用できるか。すごく初めはそんなことも思って、ここまで来るのが苦痛だったのに、先生と話せると楽になるぐらいになっていた。先生も僕の言ってほしい言葉をよく分かっていて、励ましたり、ここのところ自傷していないことを褒めてくれたりした。
 つらいこともある。父が家の中を歩きまわっているときはいらつく。それでも、先生が信頼できるから僕はだいぶなだらかになれた。
 あの入院した病院の医院長先生の言う通りだ。この先生は僕をずっと診てきてくれていた。だから、この先生がこれからの僕も見守ってくれるなら、僕は少しずつ足元もしっかりしてくるだろう。
 今年の年末年始は姉が来てくれて、父は不愉快そうでも爆発させずにまた寝室に行ってしまった。母が不安そうに「少し様子も見にいかないと」と気にすると、「ほっといていいよ」と姉は言って、僕に味噌が香ばしい雑煮をよそってくれた。僕はリビングに座って、正月番組を観ながら熱い餅を引き伸ばして食べる。そんなふうに正月が過ぎた一月の半ば、まだちらほら来る年賀状を取りにいくと、いつもの心療内科から封筒が来ていた。
 相変わらずいちごとミルクの飴を舐める僕は、首をかしげながら家に戻ってそれを開封した。中には用紙が一枚入っていた。取り出して開いてみて、そこにあった短い文章に目を開いた。
『当院は一月三十一日を持ちまして、閉院することになりました──
 え、と思った。
 閉院。転院じゃなくて、閉院。
 それって、つまり……
 先生に診てもらえなくなるということ?

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