Wish Dead【3】
二十三歳になる五月、久しぶりに夕乃からメールが入った。最後に会ったとき、夕乃は彼女と結婚するために、今の仕事で社員になれるように頑張っていると話していた。だからあんまり邪魔できないなと僕からの連絡はひかえていたのだけど、そうしているうちにずいぶん経ってしまった。夕乃は今年の春から準社員になれたそうで、ふと僕のことが気になってメールをくれたのだそうだ。
僕たちは駅で久々に再会すると、電車に乗って街に出た。夕乃は彼女と順調だそうで、「月芽には機会あったら紹介したいんだけどな」と言ってくれる。電車を降りて、五月晴れの人混みの中を歩きながら、「月芽は?」と夕乃は首を傾げてくる。
「僕?」
「いないのか? 彼女とか」
「ん……まあ、いない、かな」
「歯切れ悪いな。いるならいるでいいだろ」
「いや、いないよ。……いない」
「好きな奴も?」
どきっとして口ごもると、「マジか」と夕乃が勝手に盛り上がって僕を覗きこんでくる。
「いるのか? あ、もうあの自分勝手な女じゃねえよな」
「ち、違うよ」
「違うってことは、新しいのがいるってことだな!」
「あっ、いや……まあ。気になる人なら」
「そっかあ。やっと月芽が新しい恋かあ」
「でも、失恋……だし。たぶん」
「何で? もう告ってるのか?」
僕はうつむいて、スニーカーの靴紐を見つめた。アスファルトを進む足取りが、ちょっとにぶる。夕乃になら、話してもいいだろうか。気になっている人は、男、だなんて。
夕乃に軽蔑されたら、分かってもらえなかったら、理解を期待した反動でかなりつらい。それに、紅のことは本当に失恋だと思う。この気持ちを伝えるつもりもない。僕みたいな病気野郎に、あんなしなやかに綺麗な男の子が振り向くわけがない。
僕は夕乃をちらりを見てから、消え入りそうな声で発してみる。
「き……気持ち、悪いかもしれないけど」
「ん? うん」
「どきどきする人は、いて。一緒にいると」
「おう」
「でも、これが恋って言うと、嫌がる人もいるから。夕乃も、そう感じたらそれでいい」
「まあ、たぶん平気だけどな」
「………、男、なんだ。気になってるの」
「男?」
「う……ん」
もう一度夕乃をそろそろと見ると、僕の怯え方に夕乃は噴き出して、「それくらい平気だって」と肩をたたいてきた。
「というか、まだ例の女が好きだっていうのじゃないだけ、嬉しいし、ほっとするぜ」
「ほ……ほんと?」
「ああ。えー、でも何で失恋? 相手は男が無理とか?」
「たぶん、大丈夫なんだと思う」
「じゃあ、まだ失恋って決めるのは早いだろ。頑張ろうぜ」
「でも、今、普通に一緒にごはんとか食べれてて、それで幸せというか」
「飯って、けっこう進展してんじゃん。そっかー。月芽はあの女に振りまわされたもんな。なのに、今また誰か好きになれてるのは、すごく貴重なことだと思うぜ」
「そう、かな」
「うん。出逢いとか聞かせろよー。ちょうど腹も減ったし」
確かに、夕乃の言う通りかもしれないと思った。僕は志帆との関係に本当に疲れたから、まだ恋愛を拒絶していてもおかしくない。でも、紅には自然と惹かれていた。甘い香りも、飴の味も、なめらかな声も、しっとりした容姿も、何もかも僕の心に染みこんで、心臓を息づかせた。
それでもやっぱり、それらを手に入れたいなんて思い上がれないけど──紅は、僕の心が恋で脈打つのを思い出させてくれただけで、すごく貴重な人なのだ。
紅の仕事は自由出勤らしかったが、入るときは十七時から零時まで入るのが多いようだった。二十一時か二十二時頃に、いったん店を抜けて夕食を取る。
紅は当然ながら売れっ子なので、出勤した日にはすぐ予約が入って予定が立つ。そして夕食が何時頃になりそうか分かると、もちろん毎回ではないけれど、僕にメールをくれる。突然呼び出していた志帆よりずっと、僕の都合に気を利かせてくれる。もちろん、無職の僕には都合も何もないけど、そういうことは紅には話していない。そして、僕たちはファミレスやファーストフードの安い食事で、どうだっていいことを話す。
紅もいつも綺麗で、見ているだけで幸せになれる人だった。フォークを持つ細く長い指も、食べ物を頬張る赤い唇も、飲みこむときの喉の動きも、美しくて、どこか艶めかしくて。どきどきする。男はダメだったけど、僕はやっぱり、紅なら大丈夫なのかもしれない。
紅とのキスや、セックスを想像する。すると下半身がむずがゆくなってきて、慌ててその脳内再生を止める。それでもこらえられないときは、まくらに顔を伏せて声を抑えて、自分でなぐさめる。べっとりと手の中に飛び出たものに気まずくなるけど、その瞬間に紅を想うと、くらくらするほど気持ちよかった。
紅に会うと、その軆に射精した想像を思い出してしまって、恥ずかしくなる。そんな僕を紅は覗きこんで咲い、「溜まってるなら抜いてあげるよー?」なんて冗談を言う。冗談と思わないと、苦しいくらい紅のことが好きになっていく。
叶うことなら、僕は紅に舐めてほしいと思っている。入れたいと考えている。『男同士 セックス』なんてケータイで検索して、改めてやり方を知ったりしている。
しかし、妄想をふくらませる一方で、見てるだけでいい、話せるだけでいい、今の関係以上のものなんて求めたくないとも思う。それを望んだら、紅との仲がいつか終わってしまうものになる。刹那的に結ばれるより、永久的に会えるほうがいい。だから、紅に立ち入ったりしないから、こんなふうにたまに一緒に食事をする知り合いとして、そばにいさせてほしい──そう、思っていた。
紅に同棲している彼女がいることを知るまでは。
切っかけは、そもそも僕が志帆という女を忌まわしいまでに忘れられなかった話をしたからだった。童貞ではないことを言いたかった下心もあった気がする。「女って、ほんとタチ悪いのいるもんね」と紅はバニラシェイクをすする。
「俺もさー、こんな仕事してるとほんと女がめんどくさくなってくるもん」
「めんどくさい」
「男同士のがさ、ぶっちゃけ楽じゃん。妊娠しないし、どこかいいか知ってるし、どうせ俺男にモテるし、妊娠しないし」
「妊娠二回言った」
「ほんとうざったいよ、女なんて。ほんとにさ……生理中の臭いとかきついしね。分かるよね、あれ」
「分かる人もいる」
「俺すっげえ分かんの。男の匂いばっか嗅いでるからだよね、女ってほんと臭い……。ほんと。臭わないなーってときは妊娠するし」
「三回目」
「はあ……。それでも、できたもんは堕ろせとは言えないよなあ」
フライドポテトを食べていた僕は紅を見た。紅は面しているショウウィンドウ越しの通りを眺めている。「え」と僕がまばたきをして、紅はやっとこちらを向いた。
「ん?」
「堕ろ……せ、って、言えないって」
「え、言える? 彼女が『できたんだけど』って言ってきて、『堕ろして』って言えちゃう?」
「いや、言えない──じゃなくて、あれ、紅って二十歳だよね」
「うん」
「子供、いるの?」
「まだ生まれてないけど。今、七ヶ月」
「相手は……」
「そりゃ、女だよ」
「えっ、紅って、女の子と……その、」
「プライベートは女だよ。今、そいつと同棲してるし」
「同棲……」
「俺は最終的には女。いくら男と寝ても、落ち着く相手は女だな」
最終的。落ち着く。二十歳なのに。そんな相手を、この少年はもう決めてしまっているのか。いや、決まっていなくても、僕は紅にとってその対象ではないのだ。男だから。最後には女を選ぶ紅は、僕のことを相手として見ることもない。
僕は紅が好きだ。
でも、紅には僕は違う。絶望的に「違う」──
気づいたときには、自分の部屋にいた。頭がずきずきする。すべりこんでくる電車に飛びこむのを必死にこらえていたのが欠片で記憶に残っている。平静を装って電車に揺られてきて、疲れた。胃がもやもやして吐きたい。こめかみが捻じれて視覚がくらくらする。
何?
何で僕は、こんなに落ち込んでいるのだっけ?
あ。そうだ。紅が──……
僕は目を開き、ベッドスタンドのティッシュボックスの下に隠してあったカミソリを手に取った。窓からの月が映る銀色が優しい。息が荒っぽく切れて、舌が渇いてくる。頭の中が逆流して熱くゆだってくる。こもった力に手が震えて、手の甲の血管がちぎれそうになって痛い。
ああ、本当に、僕はどうしてまだ生きているのだろう。何度も何度も死のうとした。こんなの、何度目だ。死んでやるって言って、自分で自分を切って、死ねなかった茶番は何度目だ。
もういいだろう。死んでいいだろう。いい加減、死なないほうがうざったくてみっともない。何回死に損なうつもりだ。自分でうんざりする。僕は僕の「死にたい」という口癖に疲れた。
もう何も言うなよ。黙って死んでくれよ。生きてなくていい、僕なんかもう生きていかなくていい。陳腐な絶望ばかり繰り返して、こんな人生、行き進めてもぜんぜんおもしろくない。
もし、今ここに紅がいて、僕の頭を抱いて「大丈夫だよ」とささやいてくれたら……そしたら、生きていけそうだけど、そんなことはありえないと僕は知ってしまった。
僕は助からない。この孤独からは、どうやっても助からない。もう死ぬべきだということだ。どんな人にも生きる価値があるなんて戯言だ。僕は怒鳴られつづけている。父に? 神に? さんざん言いつけられている。
お前なんか死ねばいい。
なのに二十年以上生きているから、罰ばっかり当たるのだ。僕には生きていくという本能さえ恐ろしいほどの苦痛で、とてもじゃないけどこれ以上は続けられそうにない。
だから、もう、生きるのはやめよう。
僕は家を出て、夜道をふらつきながら、手にしてきたカミソリを踊らせるようにして、空を切って肌を切った。鮮やかな血がしたたって道路に残っていく。
黒雲がせりあげてくる。吐きたいだけ吐けばいい。死にたい想いをどす黒くわめき散らし、力が尽きた場所でくずおれて死ねばいい。意識が酸欠してくる。暗闇の中を昏迷して、ただ血痕が記されていく。
僕が倒れた場所は車道だったらしいが、車に轢かれることはなく、轢きそうになった運転手が救急車を呼んだのだそうだ。
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