Wish Live【3】
そんな話を、病院ではうんざりするほど繰り返した。仕事が見つからない。また面接に落ちた。どこも僕を採用してくれない。僕は生きる価値がない? 働くことさえつかみとれない僕は、死ぬべきなのか?
死ねばいいのか。やっぱりそうなのか。僕は死んだほうがいいのか。生きるチャンスをまったくつかみ取れない。生きる才能がまるでない。死んだほうがずっと楽だ。僕が死んでもいいから、誰も雇ってくれないのだろうし。僕を生かしてくれる人がいない。
いや、僕が僕を生かす目をしていないのか。でも、僕は鏡と何時間向かい合ったって、自分の瞳が理解できない。どこが曇っているのだろう。そんなに腐った目だろうか。自覚できる濁りなら治せるのに、僕は自分の目の澱みがまったく見取れない。とりあえず、はたから見たら僕の目はいわゆる死んだ魚なのだ。
働こうと思っている。頑張ろうと思っている。何度も面接に行っている。でも、僕はすべて台無しにしかできない。自分を養うことができない。それはつまり、僕は自分を殺すべきだということではないか?
「心理検査を受けたことはありますか?」
ひとしきり吐いてぐったりうなだれた僕に、先生がそう言ってきた。僕はのろのろと顔を上げ、聞いたことのない言葉なので首を横に振った。ちなみに、ここに転院して、僕はひとりで通院するようになった。
「一度受けてみたほうがいいかもしれませんね。あと、精神障害者手帳も取ると役に立つでしょう」
「役に立つ、って」
「仕事に就けるのがベストですけど、それがむずかしいなら生活保護という手もありますので」
「生活、保護……」
「君ならじゅうぶん受けられると思います」
「でも、あれって……そんな、簡単じゃなくて、厳しいですよね。僕なんか、ただ仕事ができないだけなのに」
「仕事ができず、生活ができない人を保護するものですから」
「………、僕は、ダメなだけだし。頑張っても足りてないだけで。そんな、生活保護は、ほんとに困ってる人が受けるものじゃないですか?」
「本当に困ってるでしょう?」
「そう、だけど。でも……」
「申請していいと思いますよ。お金が底を尽きて、君が実家に帰ることになるのを僕は一番避けたいです。だから、いいんですよ」
僕はうつむいて、膝の上で手を握った。
生活保護。あんまり詳しくないけど、偏見されることが多くなる選択肢だ。ざっくり言ってしまえば、それは他人の金に食べさせてもらうということだ。そんなの、いいのだろうか。確かに困っているけれど。僕なんかが受けていいのか分からない。
「役所に相談だけでもしてみたらどうですか」と言われて、僕は曖昧にうなずき、「姉と一緒でもいいですか」と訊いてみる。
「いいと思いますけど、おねえさんが君を金銭的には援助できないことはちゃんと伝えたほうがいいでしょう。もちろん、ご両親にも『援助しない』と言ってもらうことは必要になります」
「……そう、ですか」
「とりあえず、心理検査を受けて発達障害などがないか診てもらって、精神障害者手帳も申請してみてください。それから、生活保護も視野に入れてみましょう」
「僕は……ほんとに、受ける資格があるんですか?」
「僕はあると思います」
「そう、ですか。じゃあ……家には、帰りたくないので。ほんとに、帰ったらもう死ぬしかないので。考えてみます」
先生がうなずいたそのあと、女の心理士の先生と心理検査の日程を決めて、受付で精神障害者手帳申請について訊いたりした。薬局で処方箋の薬を処方してもらうと、無料の送迎バスで駅に出て、ひと駅だけ電車に揺られて、暮らしはじめて三ヶ月くらいの町に戻ってくる。
部屋にたどりつくと、荷物を下ろしてため息をついた。床に座りこむとスマホを取り出し、姉に仕事が終わったら電話が欲しいとメールをしておいた。そして、クーラーをつけなくてもよくなった秋の陽射しの中に転がり、生活保護かあ、と改めて考える。
受けられたら助かる、とは思う。どのぐらいの額を助けてもらえるのか分からないけれど、最低限生きていけるならそれでいい。とにかく、あの家に帰るのだけは嫌だ。先生もそれを案じていた。家に帰ったら、僕はまた頭がおかしくなってしまう。
やっと、この部屋に来て安らかになりつつあったのだ。仕事が見つからなくて少し崩れているけれど。でも、もし生活保護を受けられたら、その崩れたぶんも手当てしてもらえる。受けられるなら受けたい。
だけど、僕は自分がそんなに大変な状態だとも思えない。僕としては家に帰りたくない一心だけど、そんなの他人が理解してくれるのだろうか。僕がそこまで追いつめられていることを分かってもらえるのだろうか。他人にあの家での苦痛を知ってもらおうなんておこがましくないだろうか。もしそれが分かってもらえるものなら、僕はとうにどこかに仕事を与えてもらえるのではないか。
こう言われるのが怖い。たかがその程度で生活保護?
夜になって、姉から電話があった。僕はたどたどしく先生に勧められたことを話した。心理検査。精神障害者手帳。そして、生活保護。姉は少し黙ってから、『それは、私も考えてた』と言った。
「えっ──」
『というか、以前のあの先生とそう話してたの。月芽はきっと、親元を離れて、ひとりで暮らしたいんだと思うって……先生もそれがいいって言ってくれてた。それでね、まずは年金の受給から始めていきましょうってあの手続きをしてくれたの』
「あの先生も……そう考えてたの?」
『うん。月芽の将来のことをすごく心配してくれてた。仕事ができない場合のことも考えてくれてた。それで月芽が困ったとき、生活保護につながりやすくしてくれてたの』
「そう……なんだ」
『だから、月芽は頑張りすぎなくていいんだよ。あの家でずっと我慢ばっかりしてきたでしょ。つらくなって死のうともした。でも、死ななくていいの。生きていっていいの。休むつもりで、生活保護を受けてもいいんだよ。それで生きていこうと思えるなら、死のうって思わなくなるなら、堂々と受けていい』
「……僕が、どんなつらいかとか、分かってもらえるのかな。それぐらいで甘えるなって言われないかな」
『月芽が自分で説明できなかったら、私も、今の先生も、手伝うよ。私は知ってるよ。あんな家で育つつらさ、よく知ってる』
「……じゃあ、一緒に役所とか行ってくれる?」
『もちろん。あいつ……父親はさ、きっと簡単に「援助しない」って言うよ。あいつの署名が必要なら私が取ってきてあげる。月芽はもうあの家に近づかなくていい』
「ごめん、ねえさんもつらいのに」
『私はいいの。ひとり暮らしも長くて落ち着いたしね。何か……家出して、月芽だけ置いていってごめんね。それは、言わなきゃいけないと思ってた。月芽のそばにいてあげなくてごめん』
「……ううん。僕こそ、いつまでも甘えててごめん」
『月芽はちょっとは甘えなきゃダメだよ。自分に厳しすぎる』
「そんなことないよ。僕は……甘えてるよ。すぐ死のうとして、お金も稼げなくて、……情けないよ」
『月芽は頑張ってるよ。手首を切らなかったり、ひとりで通院したり、小さなことかもしれないけど、それでいいんだよ。ゆっくりでいいの。月芽のペースでいい。それを分かってもらえたら、今の月芽は働くよりも休養することが大事だって理解してもらえるから』
「……僕なんかが、生活保護受けようとして、悪いことじゃないかな」
『生きていこうとしてるだけじゃない。何にも悪くないよ』
目頭がぎゅっとして視界が滲みかけて、手の甲でこする。
僕もつらい目に遭うばかりではないのだ。こんなに受け止めてくれる姉がいる。あんな親は大嫌いだ。でも、僕の前に姉を作っていたことはありがたい。ひとりっこだったら、僕はそれこそ途方に暮れていた。
十月の終わりに、心理検査を受けた。連想する言葉とか、数列の暗唱とか、イラストから物語を連想したり、イメージする絵を描いたりした。二週間後に結果が出て、先生から僕の知能指数は七十六の境界線上だと言われた。健常でもない、障害でもない、ボーダーラインに位置していた。
障害だったら、何だか生活保護も仕方ないかなと思えそうだったのに、ボーダーだとやればできると言われているみたいで、逆に憂鬱になった。その後、精神障害者手帳も発行されて、僕は二級とのことだった。そんなふうに提出するものがまとまった年末、僕は仕事を休んだ姉と共に住所変更に来て以来の役所を訪れ、保健センターでケースワーカーの人と話をした。
家のこと。父や母のこと。不登校から引きこもり、自傷、自殺未遂、入院もしたこと。昔から仕事がすぐには決まらず、少ない勤務経験も円満に辞められなかった。働いてもすぐダメになってしまうのではないかという恐怖もある。いくら頑張ろうと思っても、頑張らせてくれる場所がない。軆を売ることさえできなかった。
話を聞いてくれたケースワーカーのおじさんは、「福祉士の人にもその話をできるかな」と言った。僕は姉を見てから、話せば報われるならとうなずいた。すると、おじさんは僕に三十代ぐらいの男の社会福祉士さんを紹介してくれた。今度は姉だけでなくケースワーカーのおじさんも僕の話を手伝って説明してくれて、ひと通り聞いた福祉士さんはおじさんとうなずきあう。
「生活保護を申請してみてもいいと思います」
「ほんと、ですか」
「はい。ただ、一度目の申請は却下されることが多いです。問題があってもなくても。だから、一度目にうまくいかなくても落ちこまないでくださいね」
「……はあ」
「一度目のときに、たぶん──貯金の残高が多いとか、そういうことを理由に挙げられるので。むずかしく考えず、それなら、しばらく生活して貯金の残高を削ればいいだけです。今は貯金がだいぶある状態ですか?」
「そう、ですね。年金が、かなり」
「じゃあ、それが──十万円を切った頃、一度目の申請にしにきてください。来る前に電話いただければ、日程をお伝えして僕が書類の受付を担当しますので」
十万円。せっかく先生がさかのぼって築いてくれたぶんのお金を、そこまで削ってしまうのか。
「必要な家具とかがあれば、貯金があるうちに買ってしまっておいたほうがいいと思います。そのあとは、貯金することが禁止になってしまうので」
「……分かりました」
貯金を削るのは先生に申し訳なくても、でも、十万円を切るまで働かずに生活しておけるということでもある。そのあと、申請が通ればいいのだけど。通らなかったら貯えもなくなってる状態でどうするんだろ、と思ったが、そこまで考えないことにした。
先生も、ケースワーカーさんも、福祉士さんも、誰も僕を非難したりしなかった。たかがそんなことで泣きついてくるんじゃないなんて言わなかった。もしかしたら、僕は僕が思うより、壊れて見えるのかもしれない。そう、だから仕事を任せられる奴だと採用もされなかったのだろう。
「話分かってくれる人と話せてよかったね」
夕暮れになってしまった帰り道、姉はそう言って微笑み、僕はこくんとした。たぶん、中には僕の杞憂的中で厳しく追いはらう人もいると思う。僕はちゃんと親身になってくれる人と話せた。
よかった、と改めて安堵しつつ、「夕ごはん一緒に食べていこうか」と駅前のロータリーに並ぶファミレスやファーストフードを指さした姉にうなずく。
十万円を切るまで、何をして過ごそうか。働かなくていい。面接を根つめなくていい。それだけで鬱血していた心がだいぶなだらかになる。
好きなことをしておけばいい時間なんて、思えばじっくり取れたことがなかった気がする。ゆっくり休もう、と僕は夕焼けの空もしっとりと夜に染まりつつあるのを見上げ、ひと息ついてその息が白いのに気づいた。
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