Wish ****【1】
貯金を切り崩す中で、買っておきたいものを買っておく。その中で、ノートPCを買った。ネットにはWi-Fiでつないで、プロバイダとは特に契約しない。初めはヒマつぶしに動画や掲示板を見たりするだけだったけど、それにも飽きた頃、つい僕はあの風俗店のホームページを覗いてしまった。
でも、トップページを見ただけで、思い直してタブを閉じた。会わなくなった今も、連絡するつもりはなくても紅の連絡先は消せずにいる。紅から何か来たらスルーしたくないなんて思う半面、僕から断ち切ったのだから、紅からはもう何も来ないのは分かっている。
紅のことをぼんやりと思い出すうち、僕はそれを文章として吐き出すようになった。
逃げ出したような風俗店で出逢った。いちごミルクの甘いキスをした。それからずっと忘れられなくて、ついふらふらと風俗店の前をうろついて、ストーカーみたいだとなと恥ずかしくなりながらも待って、でも再会できるとやっぱり嬉しくて。食事の時間を共にして、自分がバイセクシュアルのようだと知って、どんどん紅に惹かれていって──
でも、紅はプライベートはストレートで、女の恋人と子供も成そうとしていた。僕はどうやら、恋が終わると異常に絶望的になるタチらしい。前の恋のときもそうだった。恋を失うと生きる意味も分からなくなる。人にどんな迷惑をかけても無感覚になる。けれど死ねずに生き延びた僕は、病院でうるさく泣き崩れた。
好きなのに。紅のことこんなに好きになったのに。紅には僕はただの友達で、きっとそれ以上親しくなれることはない。でも、紅は言ってくれた。応援してるよ。頑張ってね。僕にできる愛情表現は、その言葉を受け入れることだ。紅に恋した記憶を支えに、ひとりで生きていくのだ。次の恋があるのか分からないけど、それがうまくいくかも分からないけど、僕は生きていく──……
備忘録のような、私小説のような、つたないその文章がそこまでまとまるまで、一年くらいかかった。
その頃には住みはじめた町やアパートの暮らしにも慣れてきた。出てきたばかりのときは、実家ではないというだけで何でもよかったのに、ラジオやいびきの騒音を立てる隣人、共同の洗濯乾燥機なのにマナーのない住人、いろいろと不満らしきものも芽生えてきた。毎月の支出もだいたい分かって、定期的に買わなくてはならない生活用品も把握してくる。
文章を書いていたせいか、参考に読んだ古本がけっこう溜まって、それは本棚を買って壁際に並べた。それ以外にも、調理器具を買ってできない料理をするより、電子レンジと電子ポットを買った。これがあれば、米もパンも、おかずもインスタントも、たいていのものが部屋で温かく食べられる。
コンビニでお弁当を温めてもらえば事足りるのだけど、コンビニ弁当を毎日続けていたら出費の参考がろくに出ない。貯金を崩して生活する環境を整えながら、時間があればPCで文章を紡ぎ、僕は二十四歳の正月をアパートでひとりで迎えた。
あけましておめでとう、なんてメールを交わすのは夕乃くらいだ。電話をすると、夕乃は春には社員に昇進できそうだと話してくれた。「月芽は働かないのか?」と訊かれ、躊躇ったものの、夕乃には生活保護を考えていることを打ち明けた。
「まだ……僕なんかが受ける資格ないとか、思うんだけど」
『んー、まあ、それで家に帰らずに済むなら、そこが一番大事なんじゃね?』
「そう、なのかな」
『家出て体調とかもマシになったんだろ、実際』
「吐き気とかすごかったけど、だいぶ落ち着いた」
『じゃあいいじゃん。悪いことではないんだしさ』
「ネットとか見てると、もっとつらい人が支給されなかったりしてるのにね。僕がもらったら、泥棒みたいだよ」
『いいんだよ、月芽は月芽のこと分かってくれる人に逢えたってだけなんだから。人と較べんな』
「……ん」
『自殺だけはすんなよ。いつも言ってんだろ、月芽がいなくなったら、俺、まともな友達いねえんだからな』
ちょっと咲って、「うん」と答えた。それから、夕乃の彼女のことや、結婚の資金も貯まりつつあることを聞いた。『結婚式は内輪ですると思うけど、その中に月芽は入ってるからな』と夕乃は忠告してきて、僕はまた「うん」とうなずいた。
小説らしき例の文章を書き終わってしまったので、余る時間が増えた。誰とも話さず、部屋も出ず、人と関わりたくないのに、誰かに構ってほしいような、もどかしい寂しさを覚えるときもあった。何か新しく書けばまた時間がつぶれるかな、とメモを取ったりしてみても、いまいち書き出す切っかけがつかめない。
何にもすることがなく、秒針と鼓動だけ垂れ流していると、恐怖のような空白感に息苦しくなった。何かすることが必要だなあ、と思ったとき、不意に以前の、作業所に行くのもいいかもしれないという先生の言葉を思い出した。
「そろそろ貯金がなくなってきたので、また役所に行ってみようと思ってます」
もちろん、例の精神科への通院も続けている。この先生とのカウンセリングもしっくり来るようになってきた。初めは診察が終わってから言い残したことがあるような焦れったさがあったものの、今は言いたいことはすっきり吐き出して帰れる。
今年初めての診察で、僕がそう告げると「そうですか」と先生は相変わらず淡々と返した。でもこの先生が忍耐強く「聞く」人なのだとはもう分かっている。
「それで、あの……何か、僕は人とつきあうのが下手というか、できないというか、そんななんですけど」
「はい」
「このままじゃ、孤独死なのかなあとか考えたりして。やっぱり、いつかちゃんと社会復帰したいとは思うんです。いつまでも社会復帰しないのに、生活保護受けたいとかダメだと思うし。けっこう、話相手もずっといないまま時間だけ過ぎるのって、怖くて」
「怖い」
「あの家に帰りたいとかじゃないんですけど、それは絶対になくても、ひとりの時間が長引くと虚しくて、死んでるのか生きてるのか分からなくなる感じがするんです。そしたら、前に作業所って言ってくれてたの思い出して。そういうところに行けば、少しマシなのかなとか」
「そうですね。行ってみるのはいいことだと思いますよ」
「じゃあ、そういうのはどこに行けば教えてくれるんでしょうか」
「役所じゃないでしょうか。生活保護の申請のとき、一緒に訊いてみたらどうですか?」
「そ、ですか。ちゃんと通えるかとか、そういう自信はないんですけど」
「行ってみて、合わないと思ったらやめていいんですよ。近場の作業所もひとつではないと思いますし」
「分かりました」と僕はうなずき、それから改めて、年末年始のことを話した。特に初詣に出かけることもなく、テレビがないので正月番組を見ることもなく。何だか恥ずかしいので、この一年間、文章を書いていたことは話していない。夕乃と電話をしたこと、夕方には今年初めて姉と会うこと。あとはいらいらや無気力が代わる代わる訪れることを話す。
出してもらった薬が残っていないことも言うと、同じ処方箋を出してもらって、二週間後に予約を取って診察室を出る。待合室を横切って総合案内に戻ると、しばらく待たされてから会計をして、薬局でさらに待って薬を用意してもらう。バスと電車で帰宅すると、僕はたった数時間だけのことにすっかり疲れてしまっていて、ふとんを引きずり出して寒いので毛布にくるまる。
夕方、仕事を終えた姉が電話をくれて、僕はまた外出するのがつらかったから、姉に部屋に来てもらった。貯金が尽きそうなことと役所に行こうと思っていることを伝えると、「一緒に行ったほうがいい?」と問われ、「あのとき話した人に手続きしてもらえるなら、ひとりで行けるかもしれない」と答えた。「そっか」と姉はうなずき、「じゃあ、役所にまず電話してみて」と微笑んだ。
「ひとりが心細かったら、ちゃんと付き添える日探すから」
僕はこくんとして、ちょっと口ごもってから、作業所も考えていることを話した。姉は少し驚いたようでも、「あの家を出て、そんなふうに前向きになれてるならよかった」と咲ってくれた。「できるか分からないけど」と僕がぼそっと続けると、「できるか分からないのにやろうとしてるのがすごいよ」と姉は励ましてくれた。
【第二十三章へ】