Wish Kill【3】
「月芽!?」
ぐいっと肩を引っ張られた。その反動で僕は後ろに倒れ、手首が空を泳いで、鮮血が溺れる気泡のように空中を飛んだ。
悲鳴がして、「何やってるの」と焦った声が僕の左手首を持ちあげる。床に仰向けに倒れた僕は、薄目を開けて、寝ていたはずの姉が僕の脇に膝をついていることに気づいた。
「ねえ、あんたおかしいよ」
僕は、僕の血が頬についた姉を虚ろに見つめた。
「家からぜんぜん出ないし、いつも『死にたい』ってひとりごと言ってるし。ここでこんなことして、どうなるか分かってんの? 何で、昔から迷惑なことしかできないのよ」
迷惑。やっぱり、僕は迷惑なのだ。
生きているだけで迷惑だし、死のうとしても迷惑だし、いったい僕はどうすれば許してもらえるのだろう。生きていても、死んでも、認めてもらえない。
僕はただ、安らぎが欲しいだけなのに。どこにもそんな暖かい居場所はない。僕は世界に拒絶されている。どこも僕を受け入れてくれない。僕に安穏は与えられない。
それは、僕が神に自死を宣告されているからなのだろう?
「ねえ、病院行こう」
僕はゆっくりと首を動かし、姉を見上げた。姉の瞳が濡れていて、ちょっと驚いた。
「ちゃんと診てもらったほうがいい。とりあえず、明日精神科に行ってみよう。私、付き添うから。ちゃんとそばにいるから」
僕はぐったり身動きして、取り落としていたカミソリに手を伸ばそうとした。姉はその手をはらって、カミソリはつくえの上に置いてしまった。
僕の視界が湿って揺れてくる。情動が胃から喉へと膨張して、僕は姉の服を血みどろにしながらその軆を揺すぶった。
「死にたいよ」
「……あのね、」
「死なせろよ。もういいじゃん。僕が死んだら世界がうまくいくんだ。僕が生きてるから、みんなぎすぎすしてんだよ。僕が罰を受ければいい。生まれなきゃよかったのに生まれたから。僕が悪いんだ。みんなそう思ってるくせに。僕が死ねばいいのにって思ってる。分かったよ。もう嫌だよ。みんな嫌いだ。僕もお前たちが嫌いだ。死んでやるよ。僕が死んで、幸せに暮らせよ。そしたら、僕は少しは役に立つ。僕は死ぬしか能がないんだ。僕が死んだら──」
「あのねえっ、あんたが死んだところで何にも変わらないよ。世界なんて、あんたなんか気にせずにまわってくよ。自殺なんて、無駄死にと同じなの。誰も、あんたが死ねばいいなんて思ってない」
「思ってるよっ、僕さえ死ねば、」
「あんたが死のうが生きようが、誰も気にしない。でも、私はあんたに死んでほしくない。だから、私ひとりでもそう思ってるんだから、生きなさいよ」
「嘘だ……」
「死んでほしくないよ。ねえ、だから治そうよ。こんなの全部病気だから、病院で治そう。きっと治るから」
「………、」
「死ななくても、つらいのは、終わるから」
僕は脱力して、姉の腕の中に寄りかかった。手首は相変わらず痛かった。
姉は血がべっとりついた服を脱いで、そのTシャツで僕の手首をくくった。そして新しい服を着て、雑巾でフローリングの血だまりを掃除した。薬箱を持ってきて、僕の手首にガーゼを当てて包帯を巻く。
僕は無言だった。「今日は一緒に寝よう」と姉はふとんを敷いて、ベッドのふとんを下ろして僕に添い寝をした。僕は右手で姉の手を握った。姉は握り返し、もう一方の手で僕の頭を撫でた。
不意に目頭が熱くなって、僕は嗚咽をもらした。姉はずっと、僕の頭を安んじていた。僕は相変わらず不眠症で眠れなかったけど、意識はゆらりゆらりと揺蕩って、朝になると溶けてしまう淡い夢を見た。
数日後、僕は姉と隣町の総合病院におもむいた。精神科。神経科。心療内科。どれなのか分からなかったので、精神科にしておいた。
姉と一緒に診察を受けた。幼稚園から小学校、十一歳で引きこもりはじめてこの夏で五年が経過していることを話した。父親への潔癖じみた嫌悪と、部屋を自由に出ることも怖いような状況も話した。
医者は淡泊だった。不登校の切っかけになった、姉に助言したあの内科医のほうが親身にさえ思えた。
たぶん、僕の説明が下手なのだ。うまく伝えられなかった。このヘドロのような感情が言葉に追いつかない。
「ここでは、あまりこまやかに診てあげられないので」と医者は言った。
「近くにある心療内科に、紹介状を書いておきます。月芽くんの歳ぐらいの子の治療をメインにしているところなので、きっと力になってくれるでしょう。まずは、そこに通ってみてください」
そんなわけで、僕と姉は今度はその心療内科に行ってみた。オルゴールのBGM、淡いピンクが基調の内装、受けつけの女の人も優しく対応してくれる。
わりと新しい病院に見えた。あまり待ち時間もなく、診察室に通された。僕は顔を上げられず、先生の顔を見なかったけど、おっとりとしゃべる男の先生だった。
僕はまた昔から今までのことをぼそぼそとしゃべった。たまに姉が言葉を助けるときもあった。先生は万年筆をカルテを走らせながら話を聞いていた。「穏やかな先生だったし、通えそう?」と姉は帰り道に訊いてきたが、僕は何とも答えられなかった。
僕は五年以上、外出をほとんどしなかった。先生がどうとかではなく、毎週水曜日になると家を出なくてはならない規則が課せられるのが、苦痛だった。
僕はまた、頭が痛いとかお腹が痛いとか言っていた。でも「学校に行くんじゃないんだよ」と部屋着の僕に着替えるように姉は言う。それでも僕が動かずに膝を抱えていると、「もう予約の時間なんだから!」と姉は僕を引きずって病院に連れていった。
そんなふうに無理やり連れていかれている感じだったから、僕は病院がどんどん負担になってきた。だいたい、医者にいろいろ話して何だというのだ。ほかの患者にも、同じように言っているのに。
僕を心から心配なんてしていない。僕の話を聞いているのは飯の種だからだ。一回の診察で千五百円も取る。毎週通っていて、ひと月で六千円になる。それは姉がバイトをして稼いだ金だった。
僕が通院なんかやめれば、姉も労働が減って楽になる。そう思うと、ますます病院が億劫になった。僕が死ねば、しょせん姉もすっきりするのではないか。そう思って、僕は結局また、通院日の水曜日になるとカミソリで手首を切った。
病院に行っても、毎週同じ話しかない。父親がうるさかった。母親が泣いていた。嫌な夢を見た。眠れなかった。いらいらした。不安につぶされそうだった。吐き気がした。死にたくなった。手首を切った。
そんなことを螺旋状に話すうち、たまに子供の頃の話になった。父親が怒鳴りはじめると逃げた公園。ブランコで僕の背中を押す姉のすすり泣き。父の留守には抜殻のようになっていく母親。
幼稚園。小学校。中学の保健室登校。
「全部、演技のように、感じます……」
そんなことをぽつりと言ってみたことがあった。
「病気だったら、逃げられるから。僕は病気を演じてるだけじゃないかって。ほんとは健康だけど、頑張りたくないから、病気のふりをしてるんじゃないかって。僕は病気なんですか? 逃げてるだけですか? 僕は──」
「月芽くん」
僕はゆっくり顔を上げた。先生の顔を初めて見た。微笑が物柔らかな顔立ちだった。眼鏡をかけていることすら、今知った。
「君は、病気ですよ。深刻な心の病気です。だから、そんなに自分を責めたり疑ったりしなくていいんですよ」
僕はのろく、まばたきをした。病気。僕は病気……なのか? 本当に?
先生はそう言っている。姉も言っていた。そう、なのか。僕は、心を病んでいるのか──……
死にたい。その衝動のまま、手首を切ってしまう。この家にいると、僕はどんどん心を侵されていく。離れないといけない。引きこもっていてはダメだ。
僕は僕の心が耐えられない。こんなのは爛れて、腐って、やがて悪臭を放つ生ゴミになる。僕は心の病気の進行を止めなくてはならない。
そのためには、まずこの家を離れなくてはならない。引きこもったまま一生が終わるなんて、どうせない。親は死ぬし、姉もいつまでもそばにはいない。このままでは僕は虚しく死ぬだけだ。
でも、病気さえ治せば、自由になれるかもしれない。この感情からも、思考からも、環境からも。僕は逃げるのだ。ここから飛び出す。死にたいと思うだけの部屋から出る。
五月、僕は十八歳になった。学歴がなく、それでも金が手っ取り早く貯まるのは、安直に夜の仕事だと思った。かといって、ホストはたぶん無理だ。一応求人に目は通したけど、お話してお酒を作るだけなんて絶対嘘だ。ノルマとかすごいに違いない。
僕は一時間ぐらい逡巡して、勇気を出してボーイを募集している歓楽街の店に電話を入れた。
僕はそこで、志帆に出逢った。
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