Wish Love【2】
志帆がいるあいだは、まだあの煙草臭い店に踏みとどまれると思った。だが、その先は分からなかった。志帆が辞めたら、僕も続かないのではないだろうか。だって、しゃがみこむヒマもなくなるし、ひっきりなしに店内に氷を運ぶし、包丁も使えるようにならないといけないし。そんなにいっぱいの仕事をひとりで担うなんて、僕にはできない。
志帆がいなくなったら辞めようと思った。使えない僕を引き留めるなんてないだろうし。最悪、志帆が言ったみたいに「飛んで」しまえばいい。
仕事をしなくては、家を出ることはできない。分かっている。働くよりあの家にいたほうがいいとは思わない。ただ、仕事を変えよう。金がすぐ貯まるのはこの仕事だと思って飛びついたが、こんな仕事つらすぎる。少しずつでも、心の負荷にならない仕事で貯めていったほうがマシだ。
辞めよう。志帆が辞めたら、僕もこんな仕事は辞めよう。
志帆が残っている二ヶ月間は、何とか乗り越えることができた。クーラーがきつすぎて寒くても、客のカラオケで声が聞こえなくて女の子をいらつかせても、酔った客にまずい水割りを飲まされても。「大丈夫?」と志帆が気にして声をかけてくれる。「帰り、また話聞けるから」と励ましてくれる。
そのうち、志帆の顔が見れるから来れているぐらいのぎりぎりの状態になっていた。仕事を上がって、志帆と何か食べてから、深夜のひと駅を歩いて家に帰る。生温い空に浮かぶ月を虚ろに眺めて、髪に染みこんだ煙草の臭いに眉を顰める。
その日の仕事を思い返して、自分の無能さに泣きそうになる日もあった。初めに言われたのに、酒の銘柄もまだ憶えられていない。客の顔は常連なら憶えても、名前はぱっと出てこなくて、誰がどのボトルかなんて分からない。それでも、志帆がいるあいだは耐えて、勤めていた。
しかし、やがて、八月が終わる日が来た。
店を閉じると、「じゃあ、明日から頑張ってね」と志帆は僕の肩をたたいて、ネオンが踊る人通りの中に紛れこんでいこうとした。僕は突っ立ちそうになった。
このまま、志帆とは他人になるのだろうか。
そう思うと、急激に怖くなった。志帆が店に来なくなることより、志帆とつながりがなくなることに怯えた。ケータイの登録なんて、残しておいてくれるか分からないじゃないか。むしろ辞めた職場の奴の連絡先なんて削除してしまうのではないか。
志帆のすがたが見えなくなる。僕は無意識に駆け出して、その背中を追いかけて、志帆の腕をつかんでいた。
志帆は立ち止まり、振り返ってきた。その瞳に自分が映って、僕はようやく悟った。
いつからなのかはもう分からなかったけど、僕は志帆に恋をしている──
「今度」
走って軽く息を切らす僕は、それでも志帆の瞳を見つめた。人の目を見つめるなんて、僕はできなかったはずなのに。
「今度、また、会ってくれますか」
志帆も僕を見つめて、少し困ったように咲った。
「月芽くんって、あたしの年齢知ってるの?」
「えっ」
「もう二十九だよ。デートの相手にしては、おばさんでしょ」
「そんな、……デート、してくれるなら。志帆さんが嫌じゃなかったら」
「嫌ってことはないけど、」
「じゃあ、僕とつきあってくれますか」
志帆は目を開いた。僕も言ってしまってから、こすったマッチのように頬が熱くなった。
今、僕は何を言ったのだ。こんなに突然発していい言葉ではないのに。
志帆はため息をついて、「つきあうかは分からないけど」と腕をつかんでいる僕の手に手を重ねた。志帆の体温が手の甲に染みこむ。
「しばらく、一緒に過ごしてみる?」
「えっ」
「月芽くんが嫌じゃないなら。あたしも、このまま月芽くんの様子が分からなくなるのは心配だし」
「いい、んですか」
「うん」
「僕、志帆さんが好きなんですよ」
「物好きだね」
「会ってたら、期待とか、するんですよ」
「あたしがそんなにいい女じゃないことも分かってくるよ?」
僕は息を飲みこんで、志帆の腕をつかんでいた手で、今度は志帆の手を握った。「志帆さんの」と今度はゆっくり言葉を選ぶ。
「弟……みたいだって、分かってます。僕なんか考えられないって。でも、僕が勝手に好きなのは、いいですか?」
「けっこう、それ、つらいと思うけど」
「他人よりはいいです。ほっとけない弟でいいから」
「月芽くん──」
「志帆さんが見守ってくれるなら、これからも頑張れます」
志帆は僕の目を見つめて、静かに手を握り返した。僕はすがる捨て犬みたいな目をしてしまっていたと思う。だから、きっと志帆の言葉も愛情などではなく、同情だったのだろう。
「じゃあ、こんなおばさんでよければ、今度デートしようか」
それから、交換しただけだった連絡先で、志帆と電話やメールを始めた。
僕はちょっとずつ、志帆には素直に甘えられようになっていった。出勤が憂鬱なときに、行きたくないとこぼす。落ちこんだ帰り道に、つらいと嘆く。志帆はすぐに返信をするほどマメではなくても、しばらく経てば何かしら応えてくれた。
志帆が励ましてくれるメールは、着信したときだけでなく、何かあるたび何度も読み返した。志帆が僕のために言葉を選んで紡いでくれたのが嬉しかった。
志帆がいなくなって、僕はフル出勤が続いている。祝日と日曜日以外、ほぼ週六で店に出ていた。それでも、志帆と映画に行ったり街を歩いたりするような日曜日があって、それが僕を元気づけた。そんなふうに過ごしていると、緩やかに暑さがやわらぎ、流れはじめた風がひんやりする十月に入っていた。
仕事を始めて四ヶ月、志帆が辞めて一ヶ月が過ぎていた。どれだけ志帆にかばわれていたかが分かる一ヶ月だった。ボトルをすぐに探し出せない。氷がグラスに入るサイズまで砕かれていない。女の子からの合図に気づかない。果物も綺麗に剥いたり切ったりできないし、その表情がよくないと必死に作った笑顔も否定される。
「あんたはほんとに使えないねえ!」とママが些細なことで切れはじめることも増えてきて、これがいつ切れるか分からないということかと、初日に志帆が言っていた言葉を思い出したりした。
「あんた、よっぽど家では甘やかされて育ったんだろうね。いつまで経っても、何もできないじゃないの」
客からかかってきた電話の対応で、僕が目配せに気づかなかったので、ママがカウンターの中に入ってきて、ざくざくと氷を掘り出しながらそんなことを言った。
ちょうど電話が切れて、僕はママの着物すがたの背中を見た。すみません、と言おうとした。いつもみたいに。しおらしく。
でも、無意識にもれた言葉はぜんぜん違った。
「……るんだよ」
「何!?」とママがきっと僕を睨んできたのに、僕は目を開いてすくむことなく、言っていた。
「あんたに何が分かるんだよ!」
店に入ってきてからずっと、おとなしいだけだった僕が声を荒げたので、ママだけでなく、カウンターの向こうの女の子や客もぎょっとこちらを見た。それでも抑えられなかった。
「ふざけんな、僕の家の何を知ってんだよ! それだけは他人が分かったみたいに言うんじゃねえっ。あんたは何にも知らない、僕がどんな奴らと暮らしてきたか、あんたはっ──」
そばにあった果物ナイフに手を伸ばしかけたとき、「落ち着けっ」と駆けつけた客に背中を羽交い絞めにされた。僕はママを睨みつけ、まだもっと言いたかったけど、感情が言葉に追いつかなくて唇を噛みしめた。
ただ、分かったふうなこの女をそのナイフでずたずたに刺し殺したかった。殺してみせるしか僕の感情をこいつらに伝えられない気がした。息が荒くなっている僕をまだ抑えながら、「落ち着いて」とまた背後の客が言った。
「そんなになるほどここで働くのがつらいなら辞めろ。無理しなくていい。ママ、それでいいだろう?」
「あ、当たり前よっ。雇ってやった恩も忘れて……あんたなんか、どこ行っても続かないだろうと思って雇ってたのに、そのあたしに何なのその目!」
「ママ、こんな奴、わざわざ挑発して相手にしなくていい。ほら、もう帰っていい。出ていけ。二度と来なくていいから」
その客は僕をカウンターから追い出し、僕はふらつきながら店内に出た。カラオケもちょうど止まって、薄暗く煙たい店の中は静かだった。
乱れた呼吸が、舌を乾かしていく。目の前も頭の中もくらくらしている。
ぼすっと背中に何か当たって振り返ると、私服を詰め込んでいるリュックが足元に転がっていた。見ると、ロッカーからそれを引っ張り出したらしい女の子が、怯えた目をしていた。
僕はゆらりと腰を折って荷物を拾い、死にたい、とつぶやいたようなつぶやいてないような、曖昧な意識のまま店をあとにした。
【第六章へ】