アスタリスク-7

Wish Move【1】

 志帆からのメールを何度も読み返し、その拒絶の匂いに急速に心が冷たくすくんでいった。
 どういうこと? 何でそんな命令?
 そう思っても、このメールに従うなら、もう僕からその質問さえ送ることもできない。強引に連絡したら縁まで切られる冷ややかさを感じた。
 何だろう。僕は何かしてしまったのだろうか。メールをまた読み返し、仕事、と思った。そういえば、志帆の次の仕事の話は聞いたことがなかった。
 いそがしくなる。本当に、それだけなのか。仕事に集中したいから、そっとしておいてほしいだけなのか。
 でも、電話どころか、空いた時間にチェックすればいいメールも拒んでいる。そこまでこちらからの連絡を拒否する仕事って、何だろう。分からない。
 今までは、何かあればいつでも、そんな感じだったのに。もしかして──いや、やっぱり、志帆もついに僕が嫌になってしまったのか。
 僕はふらふらと、昔は姉のものだったベッドに座りこんだ。志帆のメールを読んだのは、夜中、バイトの夜番を終えて帰宅したところだった。ぱたんと上体を倒し、志帆に嫌われた、と思った。
 冷え切った絶望感がせりあげて、頭の中に激しい砂嵐が起きた。指先の感覚が、痺れては砂礫になっていくように感じられなくなっていく。志帆から連絡が来るのをただ待てばいいだけの話なのかもしれないが、もし、連絡が来なかったら?
 志帆を信じていないわけではないけれど。ただ僕は自信がなさすぎる。嫌われる要素しか思いつかない。志帆には弱いところをさんざん見せてきた。志帆なら受け入れてくれるなんて思ったからだが、それが志帆にとって負担ではなかったと言えるのか?
 僕はこのまま志帆を失うのか。志帆とつながりが途切れてしまった毎日なんて想像がつかない。志帆に報告できない出来事なんていらない。志帆がいるから頑張れたのに。志帆のおかげで生きていられるようになったのに。志帆に見捨てられたら、僕は──
 僕は白熱燈で左手首を映し出した。赤茶のケロイドが薄れかけている。ずいぶん切っていない。切らなくても生きてこれた。僕にはもう志帆がいた。
 だが、志帆がいなくなったのなら、僕は何を支えに生きればいい? 感情を吐く相手がいないなら、カミソリで肌を裂いて血を吐き出すしか……
『仕事中にプライベートの相手から着信がつくと、上司に怒られるの』
 志帆から連絡が来たのは、あのメールから一週間以上過ぎた真夜中だった。僕は眠っていたけど、いつ着信が来ても気づくように音量を最大にしていたので、さいわい気づくことができた。
 僕は志帆の今の気持ちを訊きたくて、一方的過ぎるメールを責めたくて、かえってうまく混乱を説明できなかった。かろうじて「何で僕から連絡しちゃいけないの」と問うと、志帆はそう言った。
「マナーモードにしておけば」
『仕事の相手から、かかってくることもあるから』
「……でも、今までは普通にいつでもよかったのに」
『ちゃんとあたしから連絡できるときはするから。待っててくれればいいの』
「ほんとに、連絡してくれる?」
『うん。会えるときには会うし』
 僕は体温が巡ったふとんの中でごそっと身動ぎし、「分かった」と小さな声で答えるしかなかった。
 どのみち、僕は志帆に逆らえなかった。志帆に好かれるなんて、きっとない。だから、せめて志帆に嫌われないために何でもしないと。耐えて、待って、合わせないと。志帆に切り捨てられるのだけは、絶対に嫌だ。
 けれども、志帆への安心感は、撃ち落とされた鳥のように急落してしまった。何か不愉快なことがあっても、愚痴の電話も吐露のメールもできない。黒い吐き気のような憂鬱は、どんどん自分の中に積もり、溜まり、燻っていった。
 あるとき一度、父が母を怒鳴る声がひどく、耐えられなくて電話をかけてしまった。でも志帆は出なかったし、翌日には『勝手に電話かけないで。』というひと言だけのメールが来た。
 僕はこんなメールなら来ないほうがマシだと思って、でもきっと本当に来なかったら怖くて、ぐちゃぐちゃになってくる感情に任せて泣きそうになった。でも、つっかえて涙さえ出ない。息が切れて、ひとりの部屋で過呼吸に苦しんだ。
 手首を切ったら、夏に仕事の制服が着れなくなる。そう思って耐えたけど、夏にはとっくに僕は故障して辞めているだろうか?
 切りたい。苦しい。死にたい。つらい──
 くらくらしながら何とか出勤しても、作業の手を見つめて動けなくなる。ちゃんと働かなきゃ。働いて、稼いで、僕も自分の部屋を持つのだ。
 そうしたら、あの家さえ出たら、僕は治る。僕が健康ではないのは、あんな親元にいるからだ。元気になったら、志帆との距離にだってこたえなくなる。
「大丈夫?」
 思い直して何とか作業をやり直していると、店長の藤崎ふじさきさんが声をかけてきた。僕ははっと隣を見て、引き攣った笑顔を作ると手元に目を落とす。
「彼女と何かあったの?」
「え……はっ?」
「いるんでしょ、好きな人」
 話した──記憶が、ないのだけど。それが顔に出ていたのか、藤崎さんは笑って僕の肩をたたいた。藤崎さんは社会人一年目でこの店舗を任されている社員で、幼い容姿から想像がつかない有能な人材らしかった。
「面接のときに言ってたじゃない。私が『今までで一番頑張ったことは何ですか?』って訊いたら、『好きな人に告白したことです』って」
 僕は一瞬眉を寄せたが、言われてみれば、そんなやりとりをしたような気もした。それに事実だ。僕は志帆に「つきあって」と言ったときほど勇気を振り絞ったことはない。
「えと、……いえ、彼女ではないので」
「別れたの?」
「つきあってなくて、最初からずっと片想いなので。それでも好きなだけです」
「そっか。まあ、何かあったなら私でよければ話聞くからさ。お客さんの前では笑おう」
 僕は藤崎さんを見つめる。
 たくさんのところで、面接に落ちた。こんな僕なのに、スタッフとして雇ってくれた。この人にはしっかり応えないと。そう思ってうなずき、もう一度笑顔を作った。すると藤崎さんもにっこりして、「私語終了」と悪戯っぽく言うと持ち場へと走っていった。
 とはいっても、志帆からの連絡が来ないのが長引くと、頭がまともではない時間が増えてきた。ようやく会えても、ゆっくりデートすることはなく、さっさとホテルに行って休憩だけで事を済ませて帰る。
 志帆を抱けるのは嬉しかったけど、何となく、志帆は感じていないことが分かってきた。おそるおそるそれを確かめると、「月芽くんが気持ちよければいいから」と志帆は煙草を咥えながらストッキングに脚を通した。
 僕は志帆と気持ちよくなりたいのに。そう思っても、女の人が簡単に感じるものではないのも言われている。自分が上手だなんて自負もない。
 そんなことをぐるぐる考えていると、「会ってあげたのに、そういう顔しないでよっ」といらだった志帆は僕を突き飛ばす。それから口もきかず、夏の衣替えも済んだ服を着て、ホテルを出てから駅で別れる。
 いつも、僕が負ける。
「また、」
 夏の夜の喧騒の中、志帆が立ち止まり、振り返ってくる。闇を縫う暖色のイルミネーションが泳ぐ金魚みたいだ。
「連絡、くれる?」
 志帆は憐れむように僕を見つめてくる。僕はこぶしを握り、情けなくてもすがってしまう。
「待ってるから。志帆の都合いいとき、……待つから」
 志帆はかすかに嗤った。僕も自分の台詞を軽蔑した。
 待つ、なんてあまりにもみじめな言葉だ。男が女に向かって言う言葉ではない。男が待ったっていじらしくも何もない。女々しいだけだ。
 でも、僕が志帆にさしだせる言葉はこれしかないのだ。強引に抱きしめたら、変質者だとわめいて僕は突き放すと思う。
 風が流れ、汗の匂いがして、「時間があれば」とつぶやいた志帆は雑踏に紛れこんでしまった。じゃあ、志帆の生活にもう一分も余裕がなかったときは、これが最後なのか。そこまで被害妄想は突き進み、座りこんで泣きたくなる。けれど、何とかよろよろ自分の乗る電車の改札を抜け、家に帰る。
 また手首を切るようになっていた。涙のはけ口だった志帆を理由に、血を流すようになった。
 志帆が冷たかった。
 志帆が怒った。
 志帆が連絡をくれなかった。
 手首を切る理由は、どんどん些末なものになっていく。やがて志帆から連絡が来ないまま眠ることができなくなった。だから、ほぼ毎晩手首を切って、どくどくと血を流した。思春期の自慰で消費するくらいの勢いで、血でティッシュを染めてゴミ箱に溜めていく。
 このまま死ねたらいいのに。楽になりたい。志帆を忘れるなんてできないから、僕が消えたい。
 朦朧として、熱いくらい血があふれるのを見ていて、僕は『今から死ぬから、もう連絡しなくていいよ。』というメールを打った。それをそのまま志帆に送信しようとしたが、『もう連絡しなくていいよ。』はやっぱり削った。
 それを志帆に送った。何の反応もなかった。僕はメールを読み返し、『もう連絡しなくていいよ。』が残っていないのを確認した。なのに、慌てたひと言も来ない。僕が死なないと思っているのか。どうせ僕に死ぬ勇気はないとタカをくくっているのか。
 急に憎しみに似た炎がこみあげる。僕はカミソリをつかみ直し、手首だけでなく腕までずたずたに切り裂いた。痛みがよく分からない。切った瞬間は痛覚がきしむけど、そのあとはあんがい、淡々と血が流れるだけだ。
 僕の心の痛みはたったこれだけなのか。違う。もっと痛い。もっと深い。もっと止まらない。
 だから僕は、カミソリで傷をえぐり、何とかこの心を表現しようとその行為を繰り返した。

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