僕の恋は報われない
小学五年生のときだった。しかるときは怖いけど、褒めるときは頭をくしゃくしゃになるほど撫でてくれる担任の先生がいた。授業、当番、掃除、僕は頑張ってまじめにやった。一度でも多く、頭を撫でてもらおうとした。その、大きくて力強い、たくましい男の人の手で──
「俺、松田のこと好きかもしれないんだ」
五年生の秋も深まった寒い頃、親しいクラスメイトに廊下に連れ出され、ひそひそとそんな相談をされた。僕はまばたきをして、ざわめく教室にいる松田さんを見た。
「あいつ、背が高いじゃん」
松田さんを見つめる僕の肩を引っ張って、その友達は視線を戻させる。
「だから、運動会の組体操の練習で、俺と組んでただろ」
「でも、松田さんが嫌がって解消されたよね」
「そうだけど──何回かは、こう、くっついたわけだろ。そのときの柔らかさとか、何か……俺、」
首をかたむけた。「分かるだろ」と焦れったく言われたけど、分からない。そう言うと、彼はため息をついた。
「まあ、それはいいや。とにかく、何か、そのときからあいつのことばっかり考えてて」
「好きなの?」
「ん……たぶん」
「……そうなんだ」
くっついたときの柔らかさ。まあ松田さん女の子だからな、と思った。女の子は柔らかいものだろう。しかし、それで好きになるものなのか。よく分からない。だって僕は興味ない──
「──え」
思わず声に出た。友達が怪訝そうに僕を見た。「あ」と僕は曖昧に咲う。
「何でも、ない」
何? 興味ない? “まだ”興味ない? ……違う、何となく。僕が欲しいのは、女の子の柔らかさより、そう、先生の、男の、たくましい──
あ、と背筋に冷たいものが伝った。
とっさに浮かんだ連想は、テレビで芸人が笑いを取るためにする男同士のキスだった。まさか。まさかまさかまさか。いや、でも、もし先生とキスできるなら。先生がぎゅっと抱きしめてくれるなら。
……嘘だ。どうしよう。
嬉し──……
頭の中が、ゆらりぐらりと砂嵐に堕ちていった。吐き気がするほどのめまいに、視覚が悪酔いで痺れた。
ホモ!
そんな。僕はホモなのか。何で。いつから。分からない。
でも、そういえば、女の子にどきどきしたことがない。ふたごの妹で、実際の女の子を知っているせいだろうか。いや、あの奇抜な妹は女の子の参考にならない。あんな妹だからこそ、淑やかそうな女の子に惹かれそうなのに、記憶も欠片も経験の端子もない。
少なくとも、今の僕が一番ときめいているのは、同性である先生だ。
どうしよう。ホモなんて。どうすればいいのだろう。そんなの、どうしたらいいのか分からない。
「希雪がさ、やっと優等生辞めたみたい」
クラス替えはなく、六年生になった春の食卓、ふたごの妹の希咲はかあさん手製の野菜の肉巻きを口に放りながら飄々と言った。僕は眉を寄せてうつむいた。とうさんとかあさんは顔を合わせ、とりあえず希咲の立て膝を注意する。
「希雪、それはとうさんたちも先生から聞いて、心配してたんだ」
顔を伏せたまま、とうさんを上目で見る。
「とうさんとかあさんは、成績とかにはなるべく口出ししないけどな、お前たちの気持ちはいつも気にかけてる」
「ん……」
「学校で、何かあったとかではないんだな?」
「………、」
「希雪」
「あのさー、あんなのんきな学校で何かあるわけないじゃない。あたしは助かってるよ、較べられずに済んで」
そう言った希咲は、かあさんがたしなめる。
ぴこぴこと跳ねるセミロング、指ごとに違う色のマニキュア、紐やチェーンが絡まるパンクな服装。しょっちゅう先生たちに注意されているが、希咲は幼い頃からそういうファッションを譲らない。
「僕……」
とうさんとかあさんが僕を見る。希咲も一瞥くれる。僕はほかほかした匂いを立てる、肉に巻かれたじゃがいもとにんじんといんげんの三色を見つめる。
何にもない。何にもないよ。ただ、その心配してくれる先生に触れられるのが切なくて苦しくて、褒められないように、頭を撫でられないように、逃げてるだけだよ。
……なんて、言えるわけない。「何にもないよ」と、そこだけ切り取って咲うしかない。家族に、こんなこと言えない。もちろん、友達の誰にも打ち明けていない。
僕を知っているのは、僕だけだ。それは黒煙が昇るように孤立感をかきたてた。
友達と笑っていても。希咲と喧嘩していても。両親と話していても。
皮を演じている感じが、生身の僕を乾燥させた。知らない。誰も僕がホモだなんて知らない。だから笑ってくれる、突っかかってくれる、話してくれる。もし知ったら、途端に僕は、ありのままになったら僕は、孤島へと突き放される。
男にときめいて。でも当然、相手に伝えることもなくて。僕はひとりぼっちなのだ。両想いの恋など、ずっとできないのだ。僕は、人を好きになっても絶対に報われない──
心がひどい絶望感に染まる。寝る前はいつも涙が勝手にあふれてきた。声も息も殺していたけど、同じ部屋で二段ベッドの上にいる希咲は、本当に気づかなかったのだろうか。
気づいてほしかったわけではない。むしろ気づかれたくない。だから、希咲が誰にも何も言わないことだけには、僕は本当に救われていた。
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