Baby, RAG BABY-3

出逢った日のこと

 ゴールデンウィークが終わって、初めての定期考査に入るにはまだちょっと余裕がある。葉桜になった桜の樹の木漏れ日のように、少しだけ学校での時間が緩やかになった。
 教室ではほとんどの生徒に親しい友人ができて、みんな楽しそうに笑っている。四月の段階でこうなってしまう予感はしていた。教室の中で、僕はどうも単独行動の目立つ、浮いた存在になっていた。
 イジメられていないだけマシだと分かっている。テレビではイジメの報道が相次いでいる。自殺のニュースが流れたりすると、それに較べたら自分はマシなのだろうと、余計に情けなくなってくる。
 陰では何か言われてると思うけど、とうつむきながら、今日もやっぱりひとりで移動教室の準備をする。行き先は図書室だ。月に一回、国語の授業は図書室で行われる。個人的に行ったことはまだないから、行くのは二回目だ。
 確か本館の三階だったよね、とまだ校舎内を把握していない曖昧な記憶で向かった僕は、見事に空振ってしまった。そこにたどりつくことはできたけど、空き教室で、図書室なんてなかった。え、と焦って引き返しそうとしたところで始業のチャイムが鳴ってしまい、さらに混乱して自分のいる場所も分からなくなってしまう。
 あっという間に生徒が引いていく廊下をきょろきょろしていると、「観月さん?」という声がかかった。ぱっとそちらを向くと、そばの教室のドアに手をかける、ぜんぜん知らない背の高い男子生徒がいた。僕はおろおろとその人を見たけど、「あ」とその人は臆した顔になる。
「ごめん、人違い」
 人違い──観月「さん」、と言った。希咲と間違えたのかもしれない。髪形や服装は違っても、顔なら僕たちはそっくりだ。希咲の知り合いならと、少し勇気が持てた。
「あ、あのっ」
 教室に入ろうとしていたその人は、僕に目を戻す。教室の中からその人を呼んでいるらしい声がしているのも分かっていたけど、泣きそうな僕はすがるように駆け寄ってしまう。
「と、図書室は、どこですか」
「え……」
「あの、僕、図書室で授業で、でも分からなくて」
「えと、あー……図書室は、東館の三階だよ」
 東館。東ってどっち、とまだ泣きそうな顔を正せない。「どうしたー?」という先生らしき声を、その人は困ったように振り返る。
「一年生が、図書室どこかって訊いてきてて」
 教室から失笑が湧いて、頬がばっと染まる。それでも、「お前連れていけばー?」という声に現金に顔を上げてしまう。
「えー……先生、いいですか」
 僕は国語一式とペンケースを抱きしめる。「しょうがないなあ」という声がして期待すると、「すぐ戻れよ」というありがたい言葉が続いた。
「分かりました」
 先輩はそう答えると、廊下に出てドアを閉めた。教室の中ではまだ笑い声がしていて顔が熱い。
「じゃあ行こう」
 先輩は若干そっけなく言って歩き出す。僕はその場にすくみそうになったけれど、ぎこちない足取りでついていく。
「あ、あの」
 大股を追いかけながら声をかけると、先輩は切れ長の黒い瞳を向けてくる。
「何?」
「……あ、いや。すみません、その──」
「いいよ、気にしないで。一年のときは、俺もこの中学迷ったから」
 声は硬くてクールな感じだけど、先輩は意外と優しく微笑んだ。そのギャップが何だかかっこいいと思った。
「えと、さっき、『観月さん』って」
「ああ。似た感じの女子を知ってたから。間違えてごめん」
「いえ……」
 やっぱ希咲の知り合いか、とほっとする。そうではなかったら、ずうずうしいのもいいところだった。
 改めて先輩を盗み見る。黒い目が印象的で、鼻筋や顎の線は細く、澄ましたような口元をしている。一見、冷淡にも見える顔立ちだ。一年生は夏服ができあがっていなくてまだ冬服だけど、先輩は夏服を着ていて、細身なようで腕の筋肉はしっかりしている。
「というか、一年で合ってるよね」
「えっ。あ、はい」
「よかった。勝手に言っちゃったから」
「先輩は、何年生ですか」
「二年だよ。二年の広瀬ひろせ実和みかず
 広瀬先輩。渡り廊下を進みながら、記憶に刻む。
「僕は観月希雪です」
 何となく言うと、広瀬先輩は怪訝そうにまた僕を見た。
「『観月』……?」
「あ、」と僕は一応説明しておかなくてはと気づく。
「あの、僕、観月希咲のふたごの兄なんです」
「ふたご?」
「はい。顔はそっくりですよね。だから、間違えてもおかしくないです」
「いや、まあ──それでも、制服も髪型も違うのに。観月さんにも君にも失礼だったね。ほんとごめん」
「いえっ、ぜんぜん」
 僕が一生懸命首を横に振ると、広瀬先輩はくすりと咲った。渡り廊下が終わって、「図書室はあそこだよ」と広瀬先輩が立ち止まる。直進方向を見ると、突き当たりの教室に、確かに先月おもむいたときの見憶えがよぎる。
「じゃあ、俺も早く戻らないといけないから」
「あ、はい。えっと、ありがとうございます」
「ううん。じゃあ、中学頑張って」
 僕はこくんとうなずいた。広瀬先輩は表情に淡白そうなのに柔らかく微笑むと、きびすを返して早足でなく走り去っていく。国語一式を抱きしめてそれを見送った僕も、授業、と気づいて急いで図書室に走った。
 それでも国語の授業ではちょっと先生にしかられて、その日はため息混じりに帰宅した。
 部屋のドアを開けると、先に帰った希咲が鏡を覗いて髪の毛をいじっていた。「ただいま」と声をかけると、「はいはい」と言われて『おかえり』も返さない。
 広瀬先輩は何で希咲を知ってたんだろ、と今日はそればかり上の空で考えていた。
「希咲」
「んー」
「今日、広瀬先輩に逢ったよ」
「は?」
「広瀬先輩に逢った」
 色とりどりのスワロフスキーのヘアピンを刺していた希咲は、眉根を寄せて僕を振り返った。ちなみに希咲は、服装も私服になっている。
「誰?」
「えっ?」
「先輩? 先輩なんかに知り合いいないよ」
「え……、で、でも、向こう希咲のこと知ってたよ」
「男? 女?」
「男」
「じゃあ、勝手に向こうがあたしに惚れてるとかでしょ。気持ち悪」
「き、気持ち悪くないよっ。すごく優しかったよ」
「でも知らないって。まだクラスメイトで精一杯なのに、先輩とか知ったこっちゃないよ」
 希咲は鏡に向き直り、再び髪を飾りつけはじめる。
 僕はうつむき、じゃあ、と思った。広瀬先輩は、どうして希咲を知っていたのだろう。惚れてる。希咲のそんな意味不明の予想通りなのか。希咲を見かけて、かわいいとか思って、それで知っていた──
 そうだよな、とかばんをベッドに放った。気になっているから、困っているところに声をかけた。そのほうが自然だ。だいたい、知り合いなら希咲にふたごの片割れがいることも知っているだろう。好きかどうかまではともかく、一方的に知っているだけだから、僕のことは知らなかったと考えるほうが普通だ。
 何だ、と僕は暑くなってきた学ランを脱ぎはじめる。やはり僕は、恥ずかしかったのではないか。
 なぜか泣きそうになってくる。広瀬先輩の優しい笑みが脳裏をかすめる。中学頑張って──頑張れそうだったのに、と小さく睫毛を伏せた。

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