小さな声で歌う
なぜなのか分からない。今まで気づかなかっただけだろうか。あの日から視界の中に広瀬先輩がよく映るようになった。通学路。靴箱。校門。広瀬先輩も僕に気づいた。そして、声までかけてこなかったけれど、あの優しい笑みを向けてくれた。
寝る前のベッドでその笑みを反芻して、僕は六月になって蒸してきた気候で軽くなったふとんを抱きしめた。
どうしよう。あの笑顔を見ることができると、何だか無性に嬉しかった。咲いかけられたときは、慌てて頭を下げるのでいっぱいなのに、あとから勝手に顔が笑ってしまう。
そして、こんなふうに夜になる頃には胸がいっぱいになって、シーツをごろごろする。あんなに登校が憂鬱だったのに、今日は広瀬先輩とすれちがうかな、とそれだけで、希咲が訝しそうにするほど学校が楽しみになった。
広瀬先輩が、なぜ希咲を知っていたのかはやっぱり分からない。それでも、僕のこともけっこう憶えてもらえたみたいだから、もうそれでよかった。希咲が切っかけになったのなら、僕としてはじゅうぶん妹に感謝できた。
梅雨に入ったその日も、昇降口で広瀬先輩を見かけて微笑んでもらい、いそいそと教室に入った。ざわめきの中におはようと声に出すことはなく、自分の席に向かう。また広瀬先輩に逢えないかな、とさっそく欲張りなことも思いつつ、ひとまず今日は逢えたから学校に来てよかったと安心する。
逢えない日ももちろんあって、そういう日の放課後は、けっこう落ちこんでしまう。微笑んでもらえてすごく嬉しいけど、ちょっとだけ、また話したいなあと疼く。でも話題がないなと息をついて、頬杖をしたときだった。
「観月くん」
目を上げると、とっさに名前も浮かばない、名札でやっとクラスメイトだと分かる女子がふたりいた。僕は思わず頬杖の手を引っこめ、かしこまってしまう。彼女たちは彼女たちで、目配せしあってなかなか切り出さない。僕は何とかわずかな笑みを作ると、首をかたむけた。
「何?」
彼女たちは、もう一度目配せしあって、やっと右側の女子が口を開いた。
「観月くんって、その、広瀬先輩と仲良くなってない……よね?」
「えっ」
「あ、その、……気をつけたほうがいいと思って」
気をつける。意味が分からなくてきょとんとまばたくと、左側が身を乗り出してきた。
「広瀬先輩、観月くんに目をつけてると思うの」
「はっ?」
つい裏返った声が出てしまう。目をつける? 右側がまだちょっとおどおどしながら続けた。
「私のいとこが、去年この中学卒業したんだけどね。そのいとこが、言ってて……何というか、」
「うわさがあったんだって。この子のいとこと一緒に去年卒業した先輩と、広瀬先輩」
「え、あ……つきあってる人がいる……の?」
言いながら、わけが分からなかった。
広瀬先輩につきあっている人がいる? 僕に目をつけている? 気をつけたほうがいい?
でも僕は男だし、気をつけるも目をつけるもないはずだし、つきあっている人がいるならなおさら──混乱する僕に、左側が耳打ちで伝えてきた。
「そのつきあってるってうわさになった卒業した先輩、男なの」
教室のさざめきが切断されて、目を開いた。
「続いてるかは分からないけど、別れたって話は流れてないみたい。とりあえずね、広瀬先輩はホモってこと」
え……え? ホモ? 広瀬先輩が?
「それだけ、言っておいたほうがいいと思って。ほんとに気をつけてね」
「ど、どうして──」
「この子がどうしても気になるっていうから。分かるでしょ」
そう言った左側に、右側は頬を染めて僕を見ると「それだけっ」と行ってしまった。左側はなぜか僕ににやっとして、右側を追いかける。意味が分からなかった。
そんなことより、何なのだ。広瀬先輩が? 男と? 僕と同じ? でも──仲間が見つかったという晴れ間は、一瞬にして曇った。だけど、そう、つきあっている人がいるのか。
広瀬先輩には、好きな人がいる。胸の真ん中に、ちくり、と細いけど、確かな針が刺さった。あれ、とその痛みに狼狽える。何で。何で痛いの。何で哀しいの。
急激に、さっきまでの新鮮な薔薇色が褪せて、広瀬先輩の笑みが霧がかかったように分からなくなる。近づきたくて、確実に近づいていたつもりだったのに、蜃気楼が遠ざかるように本来の距離に気づいて茫然としてしまう。喉に穴が空いたみたいに、呼吸がうまくいかなくなる。
……ああ。そうか。咲ってくれた。それで胸がいっぱいに満たされた。その時点で、僕は──
その日、家に帰ると、制服のままベッドに伏せって泣き出してしまった。針が空けた穴は、急速に僕の心を蝕んで大きな穴になっていた。そこから血が噴き出す。その血のまま、どくどくと涙を流した。
希咲が帰宅しても嗚咽をこらえられなくて、さすがに驚いた様子で「どうしたの」と声をかけられた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。ベッドサイドの床にひざまずいた希咲が、睫毛をしばたいている。
片割れにくらい、もう全部吐いてしまいたかった。僕は男が好きなんだ。好きな人もいるんだ。でも、その人には……
「希咲……」
「うん」
「……僕、」
「うん」
僕は瞳をゆがめて、顔を伏せた。希咲は珍しく我慢強く待ってくれた。なのに、僕は結局それ以降は噛んだ唇をほどけなかった。肩を震わせ、どう言い訳するかに困っていると、希咲は僕の頭を小突いた。
「言えないなら、無理しなくていいけど」
「……ごめん」
「いいよ、別に。で、何なの? おとうさんたちには言わないほうがいいの? 何かありそうってチクったほうがいいの?」
「………、言わないで……」
「っそ。じゃあ気が済むまで泣いてろ。夕飯も食欲ないならうまく言っとくから」
視界がさらにじわっとひずむ。僕は手の甲で目をこすって、「ありがとう」とかぼそく言った。希咲は何も返さずに立ち上がり、服を着替えて僕をひとりにしてくれた。
また、まくらに顔を押しつけた。染みこんだ水分がひやりと匂った。喉の奥が、嗚咽で傷んでずきずきする。
ここに広瀬先輩がいればいいのに、と思った。そして咲って、大丈夫だと言ってくれたらいいのに。僕のことが好きでなくてもいい。誰かとつきあっていてもいい。ただ、僕の気持ちを、許してくれたら……
何でかなあ、とまくらを抱きしめる。何でこんな、報われない人を続けて好きになるのかな。
学校の先生の次は、ゲイではあったけど、すでに好きな人がいる人。あまりにも目がなさすぎる。何で、幸せになれる人に惹かれないのだろう。何で応えてくれる人を好きにならないのだろう。何で……幸せな恋ができないのだろう。
せっかく好きになったのに。小学校であれだけ傷ついたつもりだったのに。好きになっていた。
広瀬先輩。どうして、僕に咲いかけていたのだろう。こんなに絞めつけて、僕の頬を涙で傷つけるなら、せめて……初めて逢ったときの案内で、すべて終わっておいてほしかった。
その日以来、広瀬先輩の視界から逃げるようになった。見かけたら、こちらから身を隠す。気づかれて微笑まれたら、顔を伏せるような短い会釈で去る。
いいよね、と自分に言い聞かせた。別に僕がこんな態度を取っても、何も悪くないはずだ。気をつけろと言われた。そう、気をつけて、これ以上心が傷つかないようにする。
本当は話したかった。同じゲイとして。好きな人として。もっと仲良くなりたかった。
だけど、そうなって何になる? どうせ、広瀬先輩には好きな人がいるのだ。期待はしたくない。だからいい、僕がすげなくなったところで、広瀬先輩はどうだっていいのだ。それなら僕は──
そのまま、中間考査よりちょっとむずかしくなった期末考査があって、うるさく蝉があふれはじめ、すぐ夏休みになった。太陽は痛いほどまばゆくなっていくのに、僕の表情は陰っていった。
小学校のときと酷似しているので、さすがにとうさんとかあさんも心配してきた。僕は問われても何も言わなかった。期末の成績でもらったお小遣いで買った服を着る希咲は、僕を一瞥しても、約束通り何も話さずにいてくれた。
「……希咲」
「んー?」
「ギター聴きたい」
夏休みの白日、クーラーのきいた狭い部屋で僕がそう言うと、希咲は「仕方ないなあ」とか言いながら僕たちの曲を弾いてくれた。僕はシーツにうつぶせながら、自分で書いた詞を思い出して、初めて小さな声で歌った。
何となく、歌うと沈むような鬱がわずかに排されていった。僕の声と希咲の声が絡まって、ギターの音に溶けていく。それはとても幸福なことで、暗い心に優しい気持ちを芽生えさせてくれた。
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