温かい光
「えっ、かあさんこっち来てるの?」
八月にさしかかった土曜日の朝だった。家族揃って焼き鮭と白いごはん、浅漬けなんかの和風の朝食を取っていると、家の電話が鳴った。こんな朝から、と顔を合わせ、かあさんがその電話に出るとすぐ驚いた顔になって、そんな声を上げた。
「おばあちゃん!?」
希咲がぱっと表情を輝かせて、僕はとうさんと目を交わした。とうさんが参った顔で息をつき、おばあちゃん、と僕は口の中の甘いたまご焼きを飲みこんだ。
「もう駅にいるって、ちょっと待って。いつも言ってるでしょ、来るときは──」
椅子を飛び降りた希咲が電話に駆け寄り、「おばあちゃん!」と引ったくった受話器に呼びかけた。
「お義母さんが来てるのか」ととうさんも椅子を立つ。たぶん、とりあえずパジャマのままだと笑われるからだろう。困ったようにうなずいたかあさんに、僕も着替えなきゃ、と朝ごはんを急ぐ。
「駅にいるなら、迎え行こっか? ──ババア扱いじゃないよっ。早くいっぱい話したい! ──うん、そう、中学生になった。──学校はまあまあ。勉強は分かんない」
女友達といるときより、はるかにテンション高く希咲は笑う。「お義母さんはいつも突然だな」ととうさんは朝食を中断して身支度を始める。「食べてしまいなさい」と希咲はかあさんに受話器を奪われ、「あーん」と抵抗したものの仕方なく隣に戻ってくる。
「おばあちゃん、元気そうだった?」
僕が首をかたむけると、希咲は味噌汁の豆腐を箸ですくいながらうなずく。
「いつも通り。中学になって会うの初めてだよね」
「駅って、どのへんまで来てんの?」
「最寄りー」
「えっ、じゃ、じゃああと十分くらい……」
「だよねっ。とっとと着替えないとっ」
「僕も早くしなきゃ。おばあちゃんに買ってもらった服、どこやったかな」
「どうせもう入らないでしょ。あんたいつも服買ってもらってるよねー。いいなー」
「服がおばあちゃんの趣味じゃないだけだよ」
「希雪もそろそろ自分で服選びなよ」
「着れればいいよ」
「どうせ着るなら、好きな服がいいじゃない」
何だか言い合いになっていたけれど、「おばあちゃん来るわよ」とかあさんが割って入って、慌てて僕たちは朝食を片づけた。
そして希咲は白基調で赤い血のりや金のチェーンが際立つ相変わらずのパンクファッション、また文句言われるなあと思いつつ、僕は普通のTシャツとジーンズになった。
「髪ー。髪型が間に合わないー」
それでも、希咲が急いで髪を結ったり留めたりしていたときだ。チャイムが鳴った。希咲が声を上げて仕方ないので、僕はヘアアレンジを手伝ってあげた。
部屋のドアが開けっ放しだったので、「いらっしゃい」と一階からかあさんの声がした。
「もう、来るならせめて前日に言ってちょうだい、ほんとに」
「別に、いきなり来たってやましいことはないだろ。夜でもないんだし」
「かあさんっ」
「はいはい。あ、希由くん、これあんたにおみやげね」
「あ、来ていただいておきながら、さらにすみません」
「堅いこと言うんじゃないよ。お盆はあちこち混むからねえ、今のうちに会っとこうと思っただけさ」
「まあそうだけどね。お盆は希由さんの実家にも行きたいから、重なるよりは助かるけど」
「そうだろ。あたしのほうは、向こうに誰かの墓があるわけでもない」
おばあちゃん相変わらずだなあ、と思いながら、ゴムやピンでカラフルになっていく希咲の頭を眺める。ちなみにおばあちゃんは、見事に勘当で家族と切られているから、僕たちは母方の祖先のお参りには行ったことがない。
「で、あたしの孫はどうしたんだい。希咲はおおかたお洒落だろうけど、希雪は反抗期か何かかい」
「あ、いや──まだ着替えてるのかもしれませんね。おーい、おばあちゃん来たぞ」
「めちゃくちゃ聞こえてる!」
そう言ったあと、「希雪はおばあちゃんとこ行っていいよ」と希咲はドアを見やった。僕はこくんとして部屋を出ると、階段を駆け下りて玄関を覗いた。
そこには、確かに化粧は濃いのだけど、若作りというより女を捨てていない、サーモンピンクのカジュアルスーツを着こなすおばあちゃんがいた。「おばあちゃん」と僕ももちろんおばあちゃんのことは好きなので、笑顔になって三人の元に駆け寄る。
「おう、希雪。また背が伸びたかい」
眼鏡をかけたおばあちゃんは、もともとまっすぐした腰を伸ばして僕の頭を撫でる。
「クラスでは小さいほうだけどね」
「あはは、そうなのかい。最近の子ってのはどんどんでかくなるねえ」
「うん、みんな大きい」
「それでも、希咲よりは高いだろう」
「そりゃあね。あ、希咲は今頑張って髪を整えてる」
「髪まで整えるって心がけはいいね。希雪は、まーた貧乏臭い服着て」
「これ、かあさんが買ってきた奴だよ」
「ちょ、希雪──」とかあさんととうさんが焦ったので笑ってしまうと、おばあちゃんも大笑いした。そこでばたんとドアを閉める音にばたばたと階段を降りる音が続き、「おばあちゃんっ」と希咲が顔を出した。
「まあまあ、希咲はほんとに人形みたいな格好が好きになったねえ」
僕たちのところに来た希咲は、「人形遊びはあんまりしなかったけどねっ」と僕と同じくまず頭を撫でてもらう。
「いつ出たの? 始発で来たの?」
「夜行だよ。昨日の夜にネットで席が空いてるのが分かってね」
「えっ、おばあちゃんPC買ったの?」
「もう、かあさんまた新しいものだからって」
「今の新しいもんと言ったらケータイだろうが。PCぐらいみんな持ってるよ」
「うちはとうさんが仕事で使うくらいだよ」
「いいなあ、PCいいなあ。ホームページとか作りたーい」
「とりあえずみんな、リビングに行こう。お義母さん、荷物は和室に移動させておきますので」
そう言ってとうさんはおばあちゃんの荷物を持ち上げ、「麦茶でも淹れるわね」とかあさんもキッチンに走っていく。僕が先回りしてリビングへのドアを開け、希咲がおばあちゃんの隣について、数分後にはまたクーラーのきいたリビングに五人集まった。
大きくなったのかな、と僕は自分の身長に首をかしげる。僕はまだ目覚ましい成長期ではないみたいで、クラスメイトには圧倒されていたりする。
最近の子は大きい。まあ確かにそうなのかもしれない。広瀬先輩も背が高いよな、と何気なく思って、思ったあとに心の包帯にまたうっすら血が滲んだ。
さっきの朝食もそうだったけど、夏休みになって、僕はずいぶん演技の明るさで過ごしていた。夏休みになる前までは、ひとりになるとほとんど泣いていた。広瀬先輩の笑みを拒絶する自分に泣いていた。
夏休みに入って、そもそも広瀬先輩に遭遇することがなくて、何とかまともさだけは保てるようになった。でも、二学期が始まったら分からない。二学期まで、僕なんかを広瀬先輩が憶えているかも分からない。夏休みは卒業した例の相手と会ったりするんだろうしなあ、という想像でさらに憂鬱になる。
希咲はそんな僕に合わせて、適当にごまかしたり部屋に放っておいたりしてくれている。希咲は、あんなのでわりと中学をうまくやっているらしい。夏休みになって、約束があると言ってときどき出かけていくこともあった。
僕にはそんな友達もいない。夏休みが始まって、ほとんど家にいる。そして増える考えごとに、先輩今どうしてるかな、とか思って、それを知るすべもない距離に、みずから広瀬先輩を逃げたくせに涙がこぼれた。
おばあちゃんは、あっという間、明日の夕方には帰宅してしまうらしかった。「明日の昼、一緒に買い物行こうよ」とか希咲はおばあちゃんにべったりで、僕ととうさんとかあさんは苦笑してしまう。おばあちゃんはそんな希咲の相手をしつつも、うまく僕や両親にも会話をまわす。キャバレーって今のホステスだよな、と思うと、その気遣いにも納得できた。「ギターは続いてるのかい」とおばあちゃんに訊かれると、「もちろん!」と希咲は笑顔で答えていた。
その日の夕食は外に食べに行って、帰宅すると希咲はお風呂に行った。大人だけで話すこともあるかな、と僕は部屋で宿題を広げた。授業中はぼんやりしていることが多かったから、予想以上にむずかしかった。読書感想文の本でも読もうかな、と自由に選べた課題図書にした本を広げ、文章を目でたどっていたときだった。
「希雪、入っていいかい?」
はたと振り返ると、いつのまにかドアが開いていた。そしてそこには、さっきのレストランでお酒も少し入ったおばあちゃんが立っていた。
僕はしおりを挟みながらうなずき、すると、おばあちゃんは部屋に入って僕のベッドに腰掛ける。僕は迷ったものの、つくえは立っておばあちゃんの隣に座る。おばあちゃんは、酒の匂いをさせていても悪趣味に感じない。
「どうしたの。とうさんたちと話すかと思った」
「ああ、このあと希咲の相手もしたらそうするさ。ちょっと希雪と話したくてね」
「僕と? なあに」
「なあにもない、ずいぶんしけてるじゃないか」
「えっ」
「希咲より希雪のほうがなよなよしいけどね、やわじゃないとあたしは思ってるんだ」
僕はおばあちゃんの眼鏡越しの目を見た。その目が問うところに、「あ」と声がもれるまま、僕は瞳まで揺らした。
「あたしが一日で気づいたんだ、季美や希由くんもバカじゃない。希咲もね」
「……うん」
「まあ、男がしけた面してても愛おしい理由なんて、色恋くらいだがね。仕事でしけた面しちゃいけない。お前の歳なら学校だろうが──最近の学校はあたしには確かに理解できない。何があったかなんて野暮は訊きたくないんだよ。しかし、孫のこととなるとあたしも野暮になっちまうみたいだ」
僕は首をかたむけ、「学校は普通だよ」とそれは言っておいた。
「友達がいないのは、僕の要領が悪いだけだから。大丈夫だよ」
「……そうかい」
「ただ、その──悩みはある。あるけど……おかあさんたちに、言わないでくれる? 嫌とかじゃなくて、何か恥ずかしいから」
おばあちゃんは僕を見て、「やっぱり色恋かい」とにやりとした。気弱に咲うと、「そんな面だと思ったよ」と僕の頭を小突いた。
「うまくいってないのかい」
「うん──。というか、絶対に片想いで、それがつらい」
「絶対なんてあるか」
「だって、その人はもう好きな人がいるんだよ。なのに、何か優しくされて、それがかえってつらくて。何か、逃げて無視みたいのしてる自分が嫌で。……でも、やっぱ優しくされたくない」
「じゃあ、まずそれを伝えないといけないね」
「えっ」
「優しくされてるのを、無下にしてるんだろう」
「……ん」
「じゃあ、相手さんは希雪に好意はあるんだ。でもその好意はいらないと伝えなきゃ、つらいまんまだ」
「い、いらないというか」
「好意は欲しいが、構ってほしくない? そいつはわがままだね。そんなわがままは、いい仲になって言えることだ」
僕は自分の膝に目を落とした。
「今は、希雪が勝手に無視してる状態なんだろう。だからやましさも募る。相手さんの好意が分かってるからやましいのさ。つまり、希雪も相手さんを傷つけてるんだよ」
僕は目を開いた。傷つけてる。僕が広瀬先輩を。
広瀬先輩の優しい笑みがよみがえる。そういえば、目をそらすようになったから、その笑みがどうなったかを僕は知らない。僕に目をそらされても、広瀬先輩の笑みは曇らなかったと言い切れるだろうか。
「逃げるんじゃないよ、希雪」
言いながら、おばあちゃんは泣きそうになる僕の頭をぽんぽんとする。
「好きな人がいるなんて幸せなことなのに、何で哀しく受け取るんだい。相手さんに決めた相手がいるなら、どんなに優しくされていても、確かにうまくいかない恋かもしれない。でもね、だからってその優しさをないがしろにするのはやつあたりさ。期待するからやめてくれって言わないと、希雪が嫌な奴になる」
「ん……」
「それにね、あたしは『ありがとう』って受け取ってもいいと思うんだよ」
「えっ」
「それで期待しないのは、むずかしいことだがね。まあ、希雪の気持ちを知って相手さんがどう出るかだ。応えてもらわなきゃ、好きになった意味がないかい?」
「……ううん」
「じゃあ、伝えたいことはまず伝えてみようじゃないか。下手くそでも、長ったらしくても、舌足らずでもいい。まずは相手さんと話してごらんよ」
僕は緩んだ目をこすり、おばあちゃんを見つめてこくんとした。おばあちゃんは笑って、「そろそろ希咲が風呂上がるね」と立ち上がった。
「おばあちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
おばあちゃんはにっこりして、「いずれはちゃんと家族にもそれを言うんだよ」と言った。僕はまたこくんとした。おばあちゃんが部屋を出ていくと、すうっと深呼吸する。
話す。広瀬先輩と、もう一度、きちんと話す。少なくとも、向けてもらった笑顔から逃げていたことは謝る。
うん、とひとり納得してうなずく。そのあと、おばあちゃんは希咲のギターのお手並みを拝見したり、とうさんとかあさんとお酒を飲んだりしていた。そこにいるだけで場が明るくなる、そんなおばあちゃんがいることに僕は心から感謝した。
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