世界が壊れそうなほど
日曜日、希咲とたっぷりショッピングを楽しんだらしいおばあちゃんは、日が暮れる前には出発して家に帰っていった。希咲はついにエレキギターをおばあちゃんに買ってもらい、さすがにとうさんとかあさんに「甘え過ぎ!!」としかられていた。それを僕がくすくす笑っていると、「希雪は笑ってる場合じゃないよっ」と希咲は僕を連れて部屋に逃げこむ。
「これ、希雪のだよ」
一段目の僕のベッドに横たわっているものに、「え」と僕は希咲を見返った。
「決まるの」
「……何、」
「ドラムス。やってくれそうな人」
「ほ、ほんとに」
「うん。ただね、それは希雪次第なの」
「僕……、え、僕は関係ない──」
「あるのっ。別にベースを押しつけたいとかじゃない、やってほしいけど。やってほしいから、おばあちゃんに既成事実買ってもらったけど」
僕のベッドにあるのは、四弦が張られたベースだった。僕はとまどって希咲を見る。
「そんな、僕、こんなの弾いたこと──」
「嫌ならドブに捨てていいっておばあちゃん言ってたし。ベースやってもらうことが、希雪にしてほしい協力じゃない」
「よ、よく分からないよ」
「分かるから。すぐ分かる。とりあえず、二学期始まったら希雪にはすぐ会ってほしい人がいる。それは憶えてて」
「あ、会ってほしいって……」
「あたしは希雪とツインで歌いたい。それも、憶えてて」
僕の困った目に、希咲の勝気な視線が映る。歌う。希咲と歌う。なぜだろう。それならいいかもしれない、と思う自分がどこかにいた。希咲と歌うと心が癒される。でも、ベースはさすがに──けれど刺さってくる希咲の目の強さに、ひとまず、誰かと会うことについてはうなずいてしまった。
そのあと、僕たちはお盆に父方の実家に帰省したり、近所のお祭りに行ったり、希咲の宿題なのになぜか一緒にやったりした。蝉の声が少なくなり、でも残暑の太陽は厳しく、相変わらず空気は温い。クリーニングに出していた制服は糊のにおいがする。九月になり、二学期が始まった。
始業式、広瀬先輩いるかな、ときょろきょろしていたけど、探すとなかなか視界に引っかからない。それとも、やはり二学期を区切りに先輩も僕を避けるようになってしまったのか。だったらどうしよう、とそちらのほうが大変なのに、放課後希咲につかまって、例の会ってほしい人に会ってこいと音楽室に引っ張っていかれた。何で僕が、と半泣きで思いながら、なぜか鍵のかかっていない音楽室に、僕は恐る恐る踏みこんだ。
手前に黒いグランドピアノがあり、並ぶ椅子、奥には小さな舞台がある。その舞台の午前中の逆光の中に、ひとり、男子生徒が立っていた。
僕はその細身のシルエットに立ち尽くした。背後で、希咲は音楽室に入らず廊下からドアを閉める。その人は僕に優しく微笑んだ。
「話すの、久しぶりだね」
広瀬先輩──だった。
え、え、と頭の中がわっと茹だって混乱する。何。何で。どうして、希咲が広瀬先輩と通じてるの。希咲は広瀬先輩を知らないって言った。いや、というか、どうして先輩と僕が会うことが、希咲の見つけたドラムスにつながる──僕ははたと顔を上げた。
「もしかして、希咲が見つけたドラムって」
「え……希咲ちゃんに聞いてない?」
首をかたむけた先輩に何度もうなずく。先輩は苦笑すると、「気遣いかな」とつぶやいた。しばたく僕に、先輩は目を向け直した。
「俺、君に話があるんだ」
「え、あ……」
話。何。いや、というか──
「僕も、……僕も先輩に話が」
「そっか。とりあえず、こっちにおいでよ」
ドアをちらりとしたあと、確かにそこに希咲がいたら恥ずかしいなと椅子を縫っていった。
とん、と舞台に上がって向かい合って、広瀬先輩のすがたがはっきり窺えるようになる。さらりと艶やかな髪、怜悧な黒い目、綺麗な骨の線、顔立ちの印象より優しい表情。
どうしよう、と思わず声も失ってしまう。心臓の脈が腫れて、胸に刺さるようだ。指先が緊張で震える。思っていた以上に、広瀬先輩を好きになっていたようだ。頭の中すらさらさらと白くなって飛んでいく。
先輩も僕を見つめ、一瞬、なぜか哀しいような苦しいような色を過ぎらせた。
「話って?」
でも、すぐにその色は優しい笑みが上書きされる。
話。そう、話だ。ちゃんと話さなくては。でも、いきなり、好きな人がいるなら優しくしないでほしい、とかあまりにうぬぼれていて言いづらい。
「せ、先輩の話は」
「俺の話は……まあ、希咲ちゃんにバンドに誘われて、カセットとか聴いて、希雪くんとならいいよって条件出したこと」
「はっ?」
「あの歌詞、希雪くんだよね?」
そういえば、先輩が僕を名前で呼んでくれている。そのことに気づくとどぎまぎしてくる。
「えと、まあ、はい」
「折角だから、歌ってほしいなって。男女のふたごのツインボーカルっておもしろそうだし」
「………、でも、僕、ベースとか弾けないし」
「俺が少し弾けるから教えるよ。バンドやりたければ」
口ごもってうつむいた。バンド。先輩と──いや、先輩と希咲とバンド。眉を寄せた。とっさに思ったことが、バンド参加の動機として不純な気がした。
先輩のそばにいられる。
「ごめん、説明が下手で」
「あ、いえ」
「希咲ちゃんが話してると思ってたから、説明考えてなかった。ええと──あ、話しかけてきたのは希咲ちゃんだよ。四月の部活の見学のとき、軽音部で俺の顔だけは憶えたって」
記憶がめくられる。そうか。そんなことを希咲は言っていた気がする。気になるドラムスがいると。
「中間が終わって、部活が再開したときにいきなりつかまった」
中間のあと。顔しか憶えていなかったのなら、図書室のあの日の時点では、広瀬先輩の名前を知らなかった理由も解ける。
「それから、たまに話して、夏休みにはカセットとかも持ってきて聴かせてくれたんだ」
「……そう、ですか」
「詞がほんとに好きになれたから、俺は希雪くんにベース弾いてもらって、歌ってほしいけど。まあ、この話は俺のわがままだから。興味が湧いたときでいいんだ」
希咲が答えを急かしてくると思うけど──。
「それで」と先輩は口調を切り替えた。
「俺の話はそれだけ。希雪くんの話っていうのは?」
う、と目を伏せてしまう。今度は逃げられない。
小さく息を吸いこんだ。その息をそっと吐く。そして、先輩を見上げた。
「先輩は」
「うん」
「……先輩、は」
「うん」
「好きな人……が、いますよね」
「えっ」
「だから、僕……、」
「………」
「そ、の……」
「……きつい?」
僕は肩を揺らしても、ここで嘘をついても仕方ない。素直に、こくんとした。「そっか」と先輩はまた、瞳の中で哀しいのと苦しいのを混ぜた。
「そうだよね、普通は──。知ってたんだね」
「クラスの人が、何か教えてくれて。卒業した先輩と、うわさがあったって」
「そう」
「……お、男の先輩だったって」
「……そう」
先輩の瞳の色はつらそうに苦くなっていく。どうしよう、と僕は言葉を躊躇わせる。僕は何を言っているのだろう。先輩を傷つけたいわけではないのに、ひどく傷つけてしまっているみたいだ。
先輩は息をつくと、「そういううわさが立ったのは嘘じゃない」とつぶやいた。
「男同士で抱き合ってたって。でも、実際は、めまいがした先輩を支えただけなんだ」
「えっ」
「実際、俺も先輩も迷惑して仲悪くなったし。ばれたから気まずくなったんだとか、尾鰭がつくだけだったけどね。それに、そんなうわさふざけるなって、俺は一概に言えないから」
「ど、どうしてですか」
「………、実際、そうだから」
「え?」
「その先輩のことはほんとに何でもない。でも、俺はそうなんだ。だから、希雪くんも俺を避けてたんだろ?」
「え、あ……」
「それは、確かに希雪くんのうぬぼれではないよ。だから俺は何とも言えない。……ごめんね」
意味が分からなくておろおろしているのに、先輩は話を切り上げる口調だ。
「気持ち悪くて、ごめんね」
「あ、あの、僕、」
「じゃあ、希咲ちゃんには俺から言っておくから。全部忘れていいよ。話してくれただけでも──」
「ま、待ってくださいっ」
先輩が身をひるがえしたので、僕は慌ててその手を両手でつかんだ。
「先輩……えと、い、意味が分からなくて」
「え」
「先輩は好きな人がいて、僕とか何とも想ってないって。なのに、優しいとか、僕はそれがつらくて」
「………」
「せ、先輩が……好き、だから」
先輩が目を見開いた。僕は顔どころか全身が熱くて、舌がもつれそうで、たどたどしい話し方になってしまう。
「好き、なのに……避けるとかして、傷つけてごめんなさい。でもそれは、先輩が気持ち悪いとかじゃなくて。だって、それなら僕もそうだから。僕も、男を好きになるから」
「えっ……」
「ほんとですっ。小学校も男の先生が好きだったし、女の子がそばにいてもよく分からないし。僕は……」
先輩の手を握りしめる。エアコンもカーテンもない音楽室は、蒸し暑くして汗ばんできている。
「僕は、広瀬先輩のことが好き、です」
先輩は僕を見つめて、僕も先輩を恥ずかしいのをこらえて見つめる。先に目をそらして、咲ったのは先輩だった。
「じゃあ、希咲ちゃんが伏せてくれたことを教えるよ」
「希咲……」
「希咲ちゃんは、希雪くんの参加には、ちゃんと希雪くんの代わりにノーって言ってくれたんだ。きっと歌わないし、ベースもやらないって」
「え……」
「それでも俺が希雪くんを条件にしてたら、女の子は感づくものだね。夏休みに入る直前かな。『希雪に気があるの?』って」
「えっ」
「確かに、そうだったよ。バンドを口実に希雪くんに近づいて、そばにいたかっただけだ」
全身がふわっと痺れて、そのまま蒸発しそうな気がした。
ほんと。ほんとに? 今の聞き違えじゃない?
でも、耳なんてものより、次の瞬間、全身に真実が流れこんだ。先輩が、つながった手を引いて僕を抱き寄せた。
「俺も、希雪くんが好きだよ」
分からない。もう頭も顔も心臓もぐちゃぐちゃで分からない。手から離れた先輩の手が、僕の頭を包んで撫でる。まばたきが先輩の胸板でこすれる。温かい軆が伝わって甘い麻酔になって、手足の感覚が陶酔して、足元から崩れ落ちそうだった。先輩の声が耳元で響く。
「希雪くんのそばにいたい」
「先……輩」
「でも、俺のそばにいると必然的にうわさになるから。迷惑なら──」
「め、迷惑なんてないですっ。僕も先輩と一緒にいたい」
ぐちゃぐちゃしていたものが、やっと瞳で濾過されて震えはじめる。
「ほんとは、先輩には、一番に優しくしてほしかったです」
ぽろぽろと、雫が瞳からこぼれおちて、僕は先輩にしがみついた。先輩はいつまでも、短くなった日が暮れはじめても、温かい手で僕の頭をなぐさめていてくれた。
幸せで、幸せすぎて、次の瞬間、世界は壊れてしまうんじゃないかと思った。
でも先輩の体温が確かに僕の体温に流れこんできていて、僕は、実った恋が確かに心に沁みこんでいくのを感じていた。
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