月の堤-1

灰色の日々

 やる気が出なくても、仕事には行く。
 重たい夢ばかり見て迎える朝、ぼんやり頭が白んでくる。緩いまばたきで目覚めてくると、ベッドスタンドに積まれたふくろをつかんで、朝に飲むように言われている薬を、常温のグレープジュースで飲む。
 週五連勤、朝九時から十七時までの勤務。それが習慣だから、ふと祝日が入ると、気づかずに無理に起きてしまうときがある。
 たいてい、時間を確かめるためにケータイを見て、待ち受けにしている質素なカレンダーの赤字で休みだったと気づく。
 昨日もそうだった。成人式だった。俺は出席しなかった。できるかよ、とケータイを閉じながら舌打ちした。
 登校拒否をしていた奴には、成人式なんて孤独感を蒸し返す迷惑な行事だ。
 親には「行ってみれば」と言われたけれど、俺は部屋にこもって、何をするでもなくベッドで寝ていた。中学時代のまま、バイト以外ではこんなふうに過ごしているなんて、嗤われるだけだ。
 午前八時のラッシュの地下鉄に乗って、昨日の息苦しさを思い出してうんざりしながら、ふた駅先の工場に向かう。
 駅から歩いて二十分近くかかるこの工場に、俺は派遣で雇われている。ケーキを飾りつける単純作業だが、従業員の出入りはかなり激しい。
 社員の態度は悪い。時間よりノルマ重視で残業も多い。おばさんの派閥もある。時給がいいわけでもない。
 それでも、俺のレベルでは、このくらい粗悪な環境でないと受からなかった。
 登校拒否してたし。高校行ってないし。病院に通って、眠れないという相談をしてから、あっという間に精神安定剤まで出されるようになったし。
 ため息混じりにスニーカーを規定のシューズに履き替え、制服に着替えるとタイムカードを切る。事務室に立ち寄るとパソコンを覗きこんで、画面内に表示されている自分の番号が、今日はどこの作業に割り当てられているかをチェックする。
 そうしたら、ラインの流れるメインルームで、工場長が来るのを待機だ。
 従業員は、五十人くらいいる。週明けには、いつも知らない顔がある。
 この工場はほぼ常に募集をかけていて、毎週金曜日に一次面接に受かった人たちが見学に来る。見学後に二次面接があり、土日に電話で合否が分かって、たいていはすぐ入れる人を採るから、週明けには新しい人がいるわけだ。
 社員である工場長より早くメインルームには来ておき、社訓を暗誦させられたり、なぜか毎日三人ランダムで当てられて今日の目標言わされたりして、午前九時から作業を開始する。
 実際に食べ物を飾る作業のときは神経を使うが、今日の作業は、オプションのケーキピックに『Happy Birthday』というシールを貼っていくものだった。この作業なら座って作業できるが、まあ座る作業は作業で尻が痛くなる。
 ケーキピックをふくろから取り出してはシールを貼り、ラインに整列させていく。
 何か今日流れてくる量少ないな、と右側をちらりとすると、古株のおばさんにあれこれ言われている女の人がいた。新人混じってるせいか、とそれなら仕方ないと、俺は文句は言う気になれない。
 自分自身、先輩連中にいびられる側であるせいかもしれない。
 男の俺は、本来こういう細かい作業より、荷物を運んできたりする仕事につかなくてはならない。だけど、雇われる切っかけになった一昨年のクリスマスシーズン、ふらりとよろけてサンタのオーナメントを床にぶちまけそうになった。そのときは、先輩が支えてくれて何事にもならなかったものの、以降、力仕事は外された。
 だから、職場に同じ仕事を共有できる男友達はいないし、女の人からも、自分たちと同じ力量なんてもやし野郎だと蔑まれている。
 好きな職場じゃない。マシな職場があるなら移りたい。でも、頑張ってみようとたまにほかの面接を受けても、ここ以外、受かったことがない。
 早いときは、昼飯にもならない十二時前から滅入ってくる。忍びこんでくるケーキの甘い匂いには、吐き気を感じるようになった。ずっと同じ作業をするのは、予想以上に拷問的で忍耐がいる。
 チャイムが鳴っても、作業中の一シート十個のシールは全部貼らないと抜けられない。
 やっと食堂でひと息つくことになっても、ほとんどの人が誰かと一緒に持ちこみの弁当やパンを食べているのに、俺はいつもひとりだ。
 さすがに、ぼっちが俺ひとりということはないが、ぼっち同士で群れることも特にない。かあさんに持たされる弁当をもそもそ食べて、単調作業で発狂寸前の意識を何とかはっきりさせる。
 弁当にブロッコリーは入れないでくれ、と言いたいのに言うのもかったるいから、また入っている。まずいなあ、とあまり噛まずに飲みこんで、自販機で買った温かいお茶で口の中を流す。
「簡単じゃないですか、右端を揃えて貼るだけですよ」
 弁当箱を空にした俺は、おばさんのそんな非難めいた声に目を動かした。
 ふんわりしたボブの見かけない女の人が、おばさんに囲まれて、その中のボス格の主婦に責められている。女の人は「すみません」とただ繰り返して頭を下げ、目を伏せがちにしている。
「いくつもいくつもはみだしていて、貼り直すほうが大変なんですよ」
「別にねえ、私らも入ってもらって迷惑なんてことはないんですよ。坂田さかたさんが言いたいこともねえ、もっとゆっくりやってくれていいってことなんですよ」
「ほんと、深間ふかまさんの言う通り。一週間くらいは作業が遅くても大目に見るんですから」
 俺は要領が悪いから、一週間なんて、とてもじゃないが研修として足りない。気のふれそうな単純作業だからこそ、ミスできない強迫観念が、手元を狂わせたり手間を取ったりする。
 あの人が俺のようなタイプだとしたら、おばさんたちの言葉は「辞めろ」と同じだ。
 見た感じでは、女の人は俺ほど無能にも見えない。というか、わざわざこんな工場じゃなくても、接客業のほうが儲かりそうな若い女の人だ。ブスでもないし、体格は華奢なくらいだし、何でこんな工場に入ったのか分からない。
 おばさんたちの攻撃は嫉妬もあるかもな、ととりあえず俺は、それが見ていて気分が悪いので食堂を出た。
 ロッカーに弁当箱をしまうと、昼休みが終わるまで、廊下で冷めていくお茶を飲む。寒いので人気もない。窓の向こうは、出荷したり入荷したりするトラックが出入りする倉庫が見える。
 二百五十ミリリットルのペットボトルに口をつけると、澄んだ苦味が香った。
 いつからこんなかなあ、とぼんやりため息をつく。小学校あたりまでは、わりと普通だった気がする。中学時代だ。何がいけなかったのだろう。勉強にあまり追いつけなくなって、あいつバカだよなという陰口が始まった。
 イジメはなかった。いっそひと思いに、イジメでも受けておいたほうが、現状に納得がいく。でもイジメはなかった。陰口程度なら誰だって言われる。そんな、みんなされていること、みんな我慢できていることが、できなくなっていったように感じる。
 基本的な耐性が、どんどん水準から落ちていった。勉強も運動もダメで、能力も低下していった。周りと「違う」自分が、優れて「違う」のではなく、劣って「違う」のが首を絞めて、自分のかすれていく呼吸しか聞こえなくなった。
 このままでは死ぬ。きっと自殺する。勇気はなかったけど、無感覚になる瞬間はあった。
 死が怖いと思う。でも、その恐怖感が麻痺するほど、頭の中が憂鬱な思考で腫れ上がるときがあった。いっそ脳をたたきつけてつぶしたくなる。心を閉じて、命を消して──このままでは、明日から逃げてしまう。
 登校前に覚えるようになった胃痛は、俺にもわずかにあった防衛本能だった。
 親は初めはうるさかった。鍵なんてついていないし、すぐドアを開けられてとうさんにもかあさんにも怒鳴られた。学校に行けと言われて、死ねばいいのかとつぶやくと、脅してまでサボるのかとやっぱり責められた。
 中二のときの担任が、「無理はさせなくていいんですよ」とけっこう理解して俺を引っ張り出す真似をせず、親のこともなだめてくれたみたいだった。
 それからは、両親は困惑と不安を綯い混ぜつつ、俺の引きこもりを邪魔しなくなった。高校時代に当たるはずだった三年間は、ほとんどベッドに突っ伏して過ごした。

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