月の堤-5

黒くなる不安

 灰色の冬の殻が割れて、鮮やかな春が芽吹きはじめた。
 空気は冷えていても風は暖まってくる三月も過ぎ去り、カレンダーでは四月になった。朝起きると鳥がさえずっている。
 ここのところ春の青空が続いて、俺の周りに植えられているところがないので直接は見れないが、学校とかでは桜が満開になっているのだろう。
 そのあいだに小学校には春休みもあったわけだが、「美星に会ってあげてくれませんか」と奈村さんに頼まれて、残業ではなくてもふたりの部屋にお邪魔したりした。
 美星ちゃんは、俺にいろんなことをどんどん話すようになってくれている。学校のことも、学童保育のことも、勉強のことも、友達のことも。それでも、父親のことは美星ちゃん自身知らないのか、話題に出なかったが、祖父母──奈村さんの両親のことは声をひそめられて少し聞いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんとは、私たちあんまり仲良くないの」
 ちょっと意外なことを美星ちゃんは教えてくれた。
「お正月とかもね、ぜんぜん帰ったりしないの。私、おじいちゃんたちとは話したことないし」
「話したことも」
「うん。お店で会ったことはある。でも、すごく怖い顔してて、おかあさんは『勝手にしろ』とか言われてた」
 いつも明るい美星ちゃんの表情が陰った。愛されていない、ということを子供心に悟ってしまっているのだろう。
 その日も食事を用意してくれていた奈村さんを見やった。俺はまだ家出を実行には移せず、養ってもらっているけれど、やっぱり親には疎まれてはいて。
 もしかしたら、奈村さんも──
 俺と奈村さんの距離に、変化はなかった。美星ちゃんがいて自然なのが普通で、職場で昼飯を一緒にしたりしていても敬語は抜けない。
 まあ、あんまり親しくなっても、おばさんたちがまたうるさそうなので、ぎこちないくらいの距離感でいいのかもしれない。
 けれど、やっぱり窺い知りたくなってしまう。俺はたぶん、奈村さんが好きだ。奈村さんは、俺をどういう相手として見ているのだろう。娘がよく懐いているお人よしか。ちょっと仲のいい同僚か。良くて友達といったところか。色恋的なものは感じない。
 結婚はしていない、とは言っていた。でも、よく考えたら終わったとかいう言い方はされていない。いろいろ考える。捨てられた。浮気相手にされていた。最悪、不倫だった。何にせよ、まだ忘れられない相手である可能性はある。
 片想いだよな、とその四月の半ばになった朝も、人がつめこまれすぎたラッシュで工場に向かった。
 ちなみに先月の三月で派遣は契約の更新があるが、俺は何とかクビにはならなかった。しかし、派遣会社の人に「やる気をアピールするよう心掛けてください」とは注意された。
 やる気。そんなん持てるならもっと人生違ってたし、とため息混じりに暗闇を抜ける車内で思い、駅に到着して、人をくぐって車両を降りた。
「おい。実暁、美星」
 さっさといつもの階段から、地上の改札に出ようとした。が、突然そんな声が聞こえて足を止めた。
 美星。そして、実暁、というのも確か──
 振り返っても、人がせわしなく動いていてよく見えない。が、あのふんわりしたボブの頭だけ見つけられた。子供の身長は見つけられない。でも、そういえば、朝の電車もふたりは一緒だと言っていた。
 ボブの人が人混みを避けて、スーツすがたの男の前で立ち止まるのが見えた。俺は思わず目をそらし、え、と鼓動が傷ついたのを感じながら、何とか階段をのぼっていく波に混じる。
 男。奈村さんの名前を呼ぶ男。美星ちゃんを呼び捨てにする男。ぶっきらぼうでも、親しげな呼びかけだった。
 誰だ。何だあの男。たぶん、美星ちゃんも話題に出したことはない。後ろめたくないなら話に出てもいい。後ろめたいのか。それは、つまり──
 何、だ……。忘れられない? 甘かった。
 奈村さんはいつ「別れた」という言葉を使った?
 結婚はしていないと言っただけだ。やっぱり、ちゃんといるのだ。続いている。
 いや、もしかして、もう美星ちゃんの父親ではないかもしれなくても。ちゃんと、奈村さんには相手がいる。
 そうだよな、と情けない苦笑がもれた。あんなおっとりと綺麗な人。
 いるよなあ、と今にも表情を取り落して泣き顔になりそうなのを感じながら、改札を抜けた。そして同時に、自分が思っていた以上に奈村さんの微笑に惚れていたことを痛感した。
 頭がじんわり麻痺して、今日はやたらミスを連発してしまった。飾りつけるいちごの向きを逆にしてしまったり、いちごを床に落としたり、隣になったおばさんには「向いてないこと続けなくてもいいんじゃないの」とか言われた。
 やっと昼休みになって、奈村さんと並んで座っても、朝にホームで会っていた男は誰ですかなんて訊けない。そんなのをいちいち見かけているなんて、ストーカーみたいではないか。
 当たり障りない笑顔をするのが、あまりにも息苦しかった。
 奈村さんに、男。じゃあ、もう、全部意味ないのか。美星ちゃんと仲良くしても。部屋にお邪魔しても。手料理をもらっても。俺には進展なんてないのか。
 どうして。いつもこうだ。いつも結局うまくいかない。せっかく、話ができるようになったのに。人を好きになったのに。
 奪い取るなんてとんでもない。仮にいつか打ち明けられたら、笑顔で見守るしかできない。見守りながら、ぐちゃぐちゃに心が裂けても、みずからそんな心を踏み潰して奈村さんには絶対隠してしまうだろう。
 俺はそういう、自虐的な奴だ。嫌な状況のまま自分を圧迫して、そうすることで、心の深いところは醜く守る。
 こどもの日のために残業があった日、奈村さんと美星ちゃんが俺を待っていた。もう断ったっていいのは分かっていたけれど、みじめったらしくも断り方が分からない。
 無理やり咲っていつも通り歩いていたら、「最近具合悪そうですけど」と奈村さんが愁眉してきた。「そんなことないですよ」と奈村さんの目を見れずに笑みを作る。奈村さんは言葉を続けようとしたけれど、やっぱり口をつぐんでいた。
「おにいちゃん、何かあったの?」
 部屋に着いて、ぼんやり暖房の風に当たっていると、美星ちゃんも俺の隣に来て覗きこんできた。俺は弱気に咲って首を横に振り、「勉強してて」とその頭をぽんぽんとした。
 美星ちゃんは哀しそうにうつむいた。その表情に、罪悪感がちくりと刺さる。
 心配してもらったのに、嘘をついてごまかして。
 別に、いいんじゃないのか?
 むしろはっきり聞いておいて、引き下がる理由にすればいいのではないか?
 そうだ。あの男だって、俺なんかがこの部屋に出入りしていると知ったら気分が悪いだろう。奈村さんが責められるだろうし、正直、自分が責められるのも嫌だ。
「奈村さ……おかあさんって」
 俺が声を抑えてつぶやくと、美星ちゃんはぱっと顔を上げた。
「何?」
「友達、いるよな」
「えっ」
「友達──って、美星ちゃんは言われてると思うけど」
「おかあさんの友達……? おにいちゃん?」
「俺じゃないけど、その、男で」
「………、あっ──えっ、おにいちゃん、耀あかるちゃん知ってるの?」
「あ、アカル……ちゃん?」
 予想外の呼び方に、絶望するような混乱するようなよく分からない衝撃を受けていると、「どうしたの?」と背後に声がしてぎくりとする。
 こそこそしていた俺たちの背後で、エプロンをつけてきょとんとしているのは、もちろん奈村さんだ。
「おかあさん、おにいちゃん知ってたよ」
「えっ」
「耀ちゃんのこと」
 奈村さんは目を開いた。そしてなぜか頬を染めて、おろおろと視線を彷徨わせる。何だか、その反応が完全に恋人だと言っている。
「ど、どうして、風野さん──」
「……俺、朝の電車って奈村さんと同じ時刻のに乗ってるみたいなんですけど。こないだ、ホームでスーツの男といたから」
「あ、耀は何でもないですっ」
「……え」
「ほんとに、ただの幼馴染みなんです。耀はあの駅から会社に通ってるので、たまに逢うだけで」
 奈村さんは何だか必死にエプロンを握っている。俺はそれを見つめて、美星ちゃんに目を移した。
「おかあさんが、おにいちゃんに耀ちゃんの話はしないでって」
「美星っ」
「え、な、何で──」
「耀は、私にお節介ばっかりで。昔からあいつらつきあってるとかいろいろ言われて、もうそういうのが嫌だったんですっ」
「………、」
「おにいちゃん、耀ちゃんがおかあさんの彼氏だと思って、元気なかったの?」
 美星ちゃんの屈託ない言葉にどきっとして、でも図星すぎて何を言えばいいのか、思わず口ごもる。
 つい下げた視線をそろそろと奈村さんに持ち上げると、奈村さんは狼狽えた目で俺を見ている。それに俺はどう反応すればいいのか、ただ頬が熱くなった。
「……まだ、シチュー煮込んでるのでっ」
 奈村さんはそう言ってキッチンに駆け戻っていった。
 何。何だ。俺が勘違いをしていて、なぜそんなうわずった反応をされるのだ。
「おかあさんね」
 俺は何やらため息混じりの美星ちゃんを見た。
「子供の頃から、耀ちゃんのことが好きな女の人に意地悪ばっかりされてたんだって。だから、耀ちゃんが今でも何か心配してくれたりすると、もういいからっていつも言ってるの」
「……はあ」
「私は、耀ちゃんと話してるおかあさんより、おにいちゃんと話してるおかあさんが好きだよ」
「えっ」
「おにいちゃんとのほうが、いつものおかあさんだもん。耀ちゃんと話すのは、おかあさんもつらそう」
 奈村さんを見た。鍋の中の具合を見ている。ホワイトクリームのまろやかな匂いがする。
 つらそう。俺は恋愛のことは分からない。でも、そのくらいの機微は察せる。
 いつも通りの顔。つらそうな顔。どちらが、意識してることなのかぐらい──
「耀はほんとに、何でもないですから」
 帰り際、奈村さんは念も押してきた。俺はさすがにやや言葉に困って首をかしげる。「ほんとに」と言った奈村さんの瞳に、小さな切り傷が走った。
「あの人には、会社に恋人だっているんです」
 目を伏せた。傷ついた目でそんなことを言われて、はっきり分かった。
 ……ああ、好きなんだ。
 結ばれてはいないようだけど、少なくとも、奈村さんは好きな人がいるんだ。俺は顔を上げて、壊れないように咲った。
「きっと心配しますね、その人」
「えっ」
「俺みたい奴が部屋にまで来てるって知ったら」
「そ、それは──」
 もう来ないほうがいいですよね。そう言おうとした。なのに、なぜか俺の口からはぜんぜん違う言葉が突き出ていた。
「一度、挨拶させてくれませんか」
「えっ?」
「あ、いや──そしたら、俺がここに来るの分かってくれる……かなって」
 奈村さんは目を開いた。俺は急にばつが悪くなって、情けない笑顔で慌てて繕った。
「いや、俺が来なきゃいいだけですよね。すみません、変なこと言って。もう──」
「あ、挨拶してくれるなら」
 奈村さんは俺をじっと見つめて言う。
「してくれたら、たぶん、耀は分かってくれます」
「……でも」
「風野さんが来なくなったら、何か、寂しくなっちゃいます」
 俺はうつむいた。「これからも来てください」と奈村さんは言って、俺は小さく笑うと、とりあえずうなずいた。
「じゃあ、その……ほんとに、耀に会ってもらえますか」
「その人が迷惑じゃなければ」
「一応、風野さんのご都合聞いておいていいですか」
「仕事以外は何にもないですよ。あ、土曜の午前中は無理なんですけど」
「分かりました。あとで、耀に予定訊いておきます」
「………、ちょっとコミュ障ってことも言っておいてください」
 奈村さんは咲って、「そんなことないのに」と言っても、うなずいてくれた。「じゃあ」と俺は頭を下げてドアノブに手をかける。「気をつけて」と奈村さんは微笑んで、俺は夜風が頬の上をすべっていく外に出た。
 挨拶。挨拶って、言い出しておいて、何を話すのだ。
 奈村さんをこれからも見守って、幸せにしてあげてくださいとでも言うのか。でも、恋人がいるのならそこはずうずうしいか。
 何だか、奈村さんを任せるような言葉しか浮かんでこない。ちゃんと身を引くので安心してください、とか言いそうな自分がいる。
 奈村さんはその人が好きだ。それは恐らく確実だ。
 なのに、俺がこれからも仲良くしますと言ってどうなるのだ。そんなの、奈村さんの幸せじゃないのに。奈村さんに幸せになってほしいのなら──いや、でも、お前が奈村さんの気持ちに気づけなんて、とてもじゃないが勝手に言えない。
 何なんだよ、と泣きたくなってくる。せめて、もっと俺に自信があれば。奈村さんは任せろくらい言えたら。今はあんたが好きみたいでも、俺が守るくらい言えたら。
 しかし、その台詞をぽんと言うのは俺には重すぎる。
 翌日、奈村さんに今度の日曜日の昼にその人の時間が取れたと伝えられた。プレッシャーで死にたくなってきた。会うのは、奈村さんの部屋の最寄り駅だそうだ。
 いきなりふたりで会う予想ばかり立てて吐きそうになっていたが、奈村さんと美星ちゃんも同席してくれるらしい。そこには一応ほっとして、でも緊張する。
 奈村さんと美星ちゃんは例外なのだ。俺は親ともまともに会話できない奴だ。ある意味、それがふたりの前でばれることにもなる。
 何かもういろいろダメだ、ダメになる、とめまいと吐き気で落ちこみ、前日の診察では久々に薬が増えた。
 安定剤をオレンジジュースで飲みこんで、ベッドで毛布にくるまって、ひどい憂鬱に頭も心も黒く蝕まれていった。

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