月の堤-6

実りなく散る

 そして、樹海に行くならかえって晴れやかな顔ができそうなほど、どんより陰鬱が泥んだ空気をまとって、日曜日の午前中に家を出た。
 地下鉄で目的の駅まで運ばれて、地上に出る。約束は改札だったので、そのへんの柱にもたれて震えそうな呼吸をこらえた。
 何話せばいいんだろ、と今日までたくさん考えてきたのに、まだまとまっていない。
 奈村さんの部屋に出入りしていいですかとかバカ正直な質問はとりあえずしないほうがいい。俺と奈村さんの仲を疑われては、奈村さんも迷惑だろう。
 面接の前みたいに、どんな質問をされるかとかも不安で、飲み物買ってトイレで薬飲もうかな、と念のため持ってきた薬にすがりたくなっていたときだった。
「おにいちゃんっ」と活発な声がして、顔を上げると奈村さんと美星ちゃんだった。
「あ……こ、こんにちは」
「こんにちは。すみません、せっかくの休日に」
「い、いえ」
「耀ちゃん来てるかな」
「まだいないね。──どこか入っておきましょうか? お昼はどうされましたか」
「あ、えと、軽く食ってきました」
 本当は朝から何も食べていない。喉を通りそうにないし、無理に飲みこんでも胃に拒絶されそうだった。
「私はお腹空いたー」と美星ちゃんが奈村さんの手を引っ張り、「食べられるところでもいいですか」と奈村さんは訊いてくる。俺がうなずくと、手近にあったファミレスに入ることになった。
 俺はドリンクバーだけ頼んだ。奈村さんはドリア、美星ちゃんはハンバーグセットを頼んでいた。
 飲みすぎてトイレに行きたくなってもかっこ悪いな、とカルピスをちびちびと飲んでいると、奈村さんのケータイが鳴った。どきりと俺が反応していると、奈村さんはケータイを開いて、短いメッセだったのかすぐ返信を打ち始めた。
「耀ちゃん?」とハンバーグを飲みこんだ美星ちゃんが奈村さんの手元を覗きこみ、奈村さんはうなずく。
 来るのか、と俺はもう飲み物の味も分からない。
「もう改札も出たそうなので」
 奈村さんが俺を見て、俺はあやふやに咲ってストローで氷をかき混ぜる。どくどくと心臓から吐き出される血に毒が混じっているみたいに、気分が悪い。
 奈村さんの好きな人なんだよな、と改めて思った。敵意なんて持てる心臓は持っていないが、そのぶんひどく卑屈になると思う。自信がすり減るあの気持ちを味わうのが、今から憂鬱だった。
 やがて、「いらっしゃいませ」というウェイトレスの声に「待ち合わせなんですが」という落ち着いた男の声が続いて、ぎくんと生唾を飲んだ拍子、「耀」と奈村さんが手を掲げた。
「実暁。何だよ、もう食ってんのか」
「私たちはお昼まだだったから。耀は食べてきたの?」
「いや、食ってないけど。あんまり食欲ないなー。昨日飲み会だった」
「土曜日に?」
「休日出勤してくれたからおごるとか言われてさ。むしろさっさと帰らせてほしいよ、ったく」
 就職してるのか。いや、あの日スーツだったし当たり前か。何だか口調の快活さといい、俺とぜんぜん違う。
「ええと」とふとこちらに視線が当たって、挙動不審と分かっていてもビビってしまう。
「彼が──」
「風野さん。今の職場で仲良くしてくれてるの」
「そうなのか。初めまして、風野さん。頼元よりもとです」
「頼元……さん。あ、か、風野です」
 まともに頼元さんの顔を見れない。それがすごく相手に失礼だと知っているのに、怖くて見れない。
「俺、どこ座ろう」と四人掛けのテーブルに頼元さんは言って、「私、おにいちゃんの隣がいい」と美星ちゃんが俺の隣の席に移動して、こちらを見上げ、にこっとしてくれた。
 その笑顔に、固まっていた息がやっとわずかにやらわぐ。
「『おにいちゃん』?」
 さりげなく置かれた水を飲んで、頼元さんがその言葉を拾う。
「美星がね、すごく懐いてるの。ね」
「うん。おにいちゃんは私とおかあさんに優しいの」
「ほんとにお世話になってるの。美星が私の職場に突然来たとき、対応してくれたのも風野さんで」
「美星が実暁の職場に? 何か急用?」
「少し話したでしょ。今の職場、どうしても残業させられるって。学童保育も閉まっちゃうから、それで美星が待てずにね」
「待てよ、それは放り出した教師に何か言ったほうが」
「放り出したんじゃないの。先生は一緒に待つって言ってくださったんだけど」
「美星、危ないことはおかあさんの心配になるからやめろって言ってるだろ」
「危なくないもん」
「あのな、お前くらいの歳の女の子が、ほんとに危ないんだぞ。ちゃんと学校でおとなしく──」
「もーっ、耀ちゃんのそういうとこやだって言ってんじゃん。おにいちゃんは分かってくれてるからいいもんっ」
 そう言って美星は俺に身を寄せ、案の定会話に入れず、カルピスを飲んでいた俺は「えっ」とか変な声を出してしまう。それにくすりと咲った奈村さんは、「風野さんって天然っぽいとこありますよね」
と言う。
 しかし、何となく頼元さんの視線が憮然としてきているのを感じて、俺は過呼吸が起きないのを祈る。
「そういえば、話があるとかメッセにあったけど」
 パエリアを注文した頼元さんが、仕切り直してそう言った。俺は肩を揺らし、「あ」と奈村さんもドリアを食べる手を止める。
「それなんだけど。風野さんが気遣ってくださったことで」
「……君が」
「耀って、私たちに過保護なところあるでしょ。さっきもそうだけど」
「過保護って、俺は──」
「もう耀には、恋人もいるんだから。彼女を一番に考えてればいいの」
「実暁のことは、」
「私にはもう風野さんがいてくださるから」
「は?」
 え、と俺もちょっと顔を上げる。視線が集まって奈村さんはやや躊躇っても、言葉を続けた。
「私たちのことは、今は風野さんが見守ってくださってるからって話をしたかったの」
「……まさか、」
「そういうのじゃないけどっ」
 ないよな、と俺はストローに口をつける。
「でも、美星もすごく風野さんと親しくできてるし。私も風野さんなら信頼できるし」
「だから?」
「だから──その、耀はもう私たちのこと心配しなくていいってこと」
 頼元さんの視線が痛くて、やっぱり顔を上げられない。それどころか、指先が震えそうだ。何とか歯を食い縛ろうとしても、泣き出しそうな感覚が襲ってくる。
「風野さんがね、耀のこと聞いて自分は迷惑じゃないかって気にしてくださったの。だから、耀にも風野さんのこと認めてほしくて」
「認めるって、」
「耀にも風野さんを信頼してもらって、私たちのこと任せるって言ってほしいの。で、耀は恋人の──」
「実暁」
「ん?」
「悪いけど、風野さんとふたりで話させてくれないか」
 俺はテーブルを見るまま目を開いた。
 何。ふたり。どうしよう。嫌だ。怖い。
「ええと……どう、ですか。風野さん」
 ここで首を横に振ったら、この場が壊れるのは分かった。だからといって、うなずくのか。
 何を言われる? 責められる? 怒られる? なじられる?
 会話が弾まないのは分かりきっている。でも早く何か答えないと。どうしよう。どうすればいい。分からない。頭が混線してくる。
 やばい。薬。この感じ、薬を飲まないと──
「おにいちゃん」
 視覚を脱線させていた俺は、はっと美星ちゃんを見た。美星ちゃんは黒目がちの瞳に俺を映している。
「おにいちゃんは私の味方してくれたから、私もおにいちゃんの味方」
「……あ、」
「大丈夫だよ。耀ちゃんの話が終わったら、また三人でごはん食べよう」
 俺は美星ちゃんを見つめて、弱く咲うと、うなずいた。美星ちゃんはにっこりとして、食べ終わっていたハンバーグセットの席を降りる。「じゃあ少し美星と外に出てる」と奈村さんも席を立った。そして俺のほうを見ると、「あとでまた」と微笑んでくれた。
 俺はぎこちなく深呼吸して、カルピスを飲みほした。
「悪いね、いきなりふたりきりなんて」
 ふたりがファミレスを出ていったのを見届けてから、頼元さんはそう言った。「いえ」と俺は小さな声でかろうじて答える。
「その──違ったら悪いんだけど、精神的に?」
 肩がこわばって答えられずにいると、「会社にもいるだけだよ」と頼元さんは特に軽蔑も含めずに言った。
「俺は人事部だからさ。ほかの部署より、どういう社員がいるか知ってるんだ」
「そう、ですか」
「それに、大学時代は心理学も専攻した」
 大学。俺と真逆の人種だ。奈村さんがこういう男が好きなのだとしたら、俺なんて、ぜんぜんダメではないか。
 どんどん肩幅が狭くなって、いたたまれなくなってくる。
「実暁のためだったけどね」
「……え」
「専攻したからって、そうあっさりその希望の職種なんてつけないよな。臨床心理学なんてぜんぜん関係ない仕事をしてる」
「カウンセラー、とかになりたかったんですか」
「ああ。まあ、俺がなっても実暁を救えたかは分からないけどね。でも、今でも──思ってはいる。実暁だけのドクターになってもいいって」
 俺は乾く目にまばたきながら、手の中の冷えたグラスをつかむ。
「恋人……いるって」
「いるよ」
「それより、大事……みたいですね」
「俺がほんとに好きなのは実暁だからね」
 一瞬、喉が塞がって心臓の動きが落ちた。
 何? 何だ今の最悪の台詞?
「ずっと昔から、俺が本命で想ってるのは実暁だ」
「……そんな、」
「だから分かるよ、風野さんのことも」
「え……」
「実暁に気があるのも、美星は手駒なのも──」
「そ、それは違うっ」
 思わず顔を上げていた。切れ長の目の涼しげな男の顔があった。でも、これだけは竦まずに言わなくてはならなかった。
「美星ちゃんはそんなんじゃない、ほんとに──切っかけではあったけど、そんな利用みたいなことは思ってない」
 頼元さんは面食らったようでも、ちょうどそのときパエリアが来て、「そう」と言いながらスプーンを持ち上げた。
「でも、実暁に好意はあるんだ」
「……まあ」
「じゃあ、絶対にそれを実暁に悟られないようにすること」
「えっ」
「俺も同じ立場だ。好きだから、この気持ちは伝えちゃいけないと思ってる」
「ど、どういう意味ですか」
「それは言えないけど。ただ、実暁のことを思うと、絶対に気持ちを伝えたり、まして押しつけたりしたらいけないと俺は思ってる」
 奈村さんのこと。──って、何だ。俺は知らないことのようだが、頼元さんがそれを教えてくれる気配はない。
「だから、風野さん」
 俺はおろおろしながら頼元さんの視界に捕まる。
「実暁に惚れるなとは言わない。近づくなとも言わない。実暁が信頼できるって言ってる人なら、俺も信用するよ。ただし、実暁のその信頼は、風野さんの気持ちを知らないからだってことを忘れないでほしい」
 どう答えたらいいのか分からない。
 俺の気持ちを奈村さんに知られなければいいのか。どのみち告白なんてできないのだけど。気取られてもならない形相だ。
 ひとまず、うなずくしかなかった。
「俺はガキの頃からそうしてるんだ。それで今の関係がある。君も、せっかく実暁が信頼できたって言ってる人だ。実暁を裏切らないでやってくれ」
 とまどいながらも、もう一度うなずいた。
 頼元さんはふうっと息をつき、もう何も言わずに食事を始めた。
 奈村さんに、何があるというのだろう。気持ちを悟られてはならないなんて、なぜなのか。ふたりは想い合っているくせに、何で素直に通じ合わせないのか。
 訊きたいことはいくつもあっても、ずかずか踏みこまれたのに、何だか今度は唐突に壁を置かれたのを感じ取って、声も出せなかった。
 奈村さんと美星ちゃんは呼び戻さないのかと思っていたら、頼元さんはあっという間に量の少ないパエリアを片づけてしまった。そして席を立ち、「実暁には俺から終わったって連絡入れとくよ」と自分の伝票を取ると、まっすぐレジへと行ってしまった。
 奈村さんに惚れるなと言わない。近づくなとも言わない。ただし──
 歯噛みしてしまう。俺は奈村さんに何か伝える度胸なんてない。ないけど。それでも、我慢しろと言われたら痛々しく腫れ上がるではないか。
 どのみち奈村さんは頼元さんが好きなのだが。だったら、なぜ頼元さんは奈村さんを幸せにしてくれないのか。
 脳内が混濁から一転し、ぱさぱさになっている。いずれにしろ、これは確約されたのだ。
 俺の恋は実らない。あるいは、実ってはならない。
 一瞬視界滲んで急いで目をこすった。どうしてだろう、といつもみたいに思った。どうして俺の人生は、決まってうまくいくことがないのだろう。

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