茜さす月-19

明日この世が終わるみたいに【1】

 涼からのメールは、なくなったわけではないけど適当に挨拶する程度になっている。あんなに萌香に会いにこの家に来たがっていたのに、それがなくなった。
 萌香もわりと家にいて、涼とデートに行っている様子はない。あの花火大会からだ。恐らくあの日に萌香と涼はやったわけで、まさかとは思うが、やったので涼は萌香に飽きたとか──。
 いや、涼をそこまでクズとして見るのもよくない。小波は相変わらず遊びにいこうと誘ってくるが、俺こいつのこと振ったよなと思ってスルーしている。
 そんなわけで、前半と打って変わって、涼と小波と遠ざかった夏休み後半、俺は静と会うことが多かった。昼からイベントが行なわれるクラブの地下室で、乱交やら輪姦やらが行われているのを、静は混ざらずに眺めていて、俺はその隣であんまりおいしいと思わない酒を飲む。たまに混ざろうと誘ってくる女の子がいても、静はやんわり断って、俺は聞こえないふりをした。
 夏休み最後の土曜日の夜もそうしていて、夜には帰るって萌香に言ったなと俺は十八時前にスツールを降りた。
「帰る?」
 一応夕方なのに、早くも喘ぎ声が乱れる中で、淡々と文学小説なんか読みはじめていた静が顔を上げる。
「晩飯用意してると思うから」
「そう。気をつけて」
「今度会うのは塾かな」
「来るの?」
「大学行く気しないけど、行けって言われてるし」
「萌香さん?」
「うん。そのために金稼いでるみたい」
「行ってあげたら」
「まだ分かんねえや。じゃあ、またな」
 静はうなずいて本に目を戻し、俺は財布とスマホを確かめると壁沿いを歩き、重いドアを開けて地下室を出た。
 暗めで熱気がこもる階段に人はいない。いかがわしい声を重いドアで絶ってから階段をのぼる。地上のクラブではライヴイベントが始まっているようで、受けつけをパスした人が流れこんでいる。
 地下はあんなことになってるとはこっちの客は知らないんだろうなと思いつつ、俺は受けつけのにいちゃんに軽く目礼して、通りの喧騒に出て駅を目指した。
 今日は土曜日だから、萌香は夜にも家にいるだろう。飯も一緒に食ってくれると思う。おそらく、また俺の好きなものを作ってくれている。涼と小波が来ていた時期、萌香の料理は何となく無難なものが多かった。最近は、また俺の好物をメインに作ってくれている。やっぱり、嬉しい。
 ふたりに戻った食事のとき、涼の話題を出してみることがある。萌香はあやふやに咲って、話を続けようとしない。涼が──俺以外の男が萌香とつきあうなんて、まだ許せていない。でも、仮に涼が萌香を傷つけているならもっと許せない。
 何かはあったのだと思う。萌香が俺には言えない、あるいは言いたくないことが。ふたりとも、俺に話そうとはしない。それも何だか悔しかった。俺に話せない何かが、萌香と涼のあいだにある。
 萌香に恋人について問いつめるのは弟という立場でおかしいから、数日後に二学期が始まったら涼に強く尋ねてみようか。友達だから心配だとか何とでも言えばいい。
 でも、正直、涼が家に来なくなったことにはほっとしている。家に来ないルールが萌香と涼のあいだにできたのなら、放っておいたほうが俺はつらくないのだろうか。
 帰宅ラッシュが始まりかけて、電車はけっこう混んでいた。座席には座れず、冷房がじかにかかる位置に立ったせいで汗が冷めると寒気がした。窓の向こうで流れる空は、橙色が紺色にかたむきかけている。地元に着く頃には月が浮かび上がって、静かな道を黙々と歩いて、家にたどりついた。
 ドアを開けたら、予想外に暗くて驚いた。明かりがついていない。留守──では、ないか。暗目にも、萌香の靴がある。一瞬、涼が来てふたりで部屋なのかと思ったが、涼の靴も誰かの靴もない。
 スニーカーを脱いで廊下を抜けると、ダイニングにもリビングにも萌香のすがたはなかった。やはり、部屋だろうか。着信のないスマホを見ると、十八時半過ぎだ。この時間なら、仮に仕事があっても、萌香は夕飯の支度をしているはずだけど。何かあったのかな、と隣の萌香の部屋のドアを一瞥しつつ、俺は自分の部屋のドアを開けた。
 慣れた手探りで電気を灯して、顔を上げる。そして、ぎょっと目を開いた。ベッドに誰か横たわっていて、それが、顔を確認するまでもなく萌香だと分かったからだ。
 ややめくれたスカートから伸びた脚の、なめらかな白い光沢。え、と動揺しながらベッドに歩み寄ると、やっぱりそこには萌香が横たわって眠っていた。まくらに顔を伏せ、まとめられた黒髪がうなじにこぼれて艶めいている。
 黒と紫のボーダーのタンクトップに、白いデニムのミニスカートを着ている。素足のままの脚も、寝顔を乗せる腕も、ほとんど日焼けせずにしっとり白くて柔らかそうで──ゆっくり上下する肩に、小さく寝息も聞き取れる。
 何で、と突っ立ってしまう。何やってんだ、萌香。自分の部屋と間違えたのか。いや、仕事が終わって酔っていても、萌香はしっかり自分の部屋に戻る。
 だいたい、萌香が俺の部屋に入ってくるなんて、あの秘儀がなくなって以来、たぶんなかったのではないか。俺は唾を飲みこんで、萌香の肢体をまばたきしながら目でなぞった。思わずそこに舌を這わせるところを想像して、ぞくりと軆の芯に甘さが痺れた。
 外の虫の声が透き通る部屋は蒸し暑い。軆がほてっているのは、その室温のせいか、萌香の無防備に昂ぶっているのか。
 ゆっくり息を吸って、吐いて、床にひざまずいた。首をかたむけ、萌香の寝顔を近くで見つめた。
 やばい。かわいい。くそ。やっぱり、俺は萌香が好きだ。物心ついたら、欲しいと思っていた。誰にも取られたくない、どんな手段を使っても落としたい、俺だけを見てほしいと思った。そっと首筋に手を伸ばして髪を梳いた。萌香はちょっと身動きしたけど、起きない。
 起きろよ。起きてくれないと、我慢できないよ。目の前で好きな女が眠っていたら、男がやってしまうことなんて分かるだろ。
 長い睫毛が頬に影を落としている。赤い唇がこぼす息遣い。胸元の谷間に焦れったくなる。
 外の虫の声が鼓膜から遠くなって、萌香の肩をそっとつかむ。
 起きろ。思っても伝わらず、萌香は起きてくれない。口に出せばいいのかもしれない。
 何してんだよ。起きろよ、ねえさん。
 でも言えない。ほんとは起きてほしくないから。萌香が俺の部屋にいる。終わって以降、ぱったり来てくれなくなった俺の部屋で眠っている。頭がおかしくなりそうに愛している人が、目の前で寝顔をさらしている。
 どうしろっていうんだよ。起こせない。耐えられない。
 静かに身を乗り出し、萌香を陰らせて見下ろす。キスしたい。俺も萌香とキスがしたい。涼の味なんか忘れるほど。身をかがめると、俺の前髪が伏せられた睫毛をくすぐった。
 萌香は起きない。いい匂いがしている。全部、萌香のせいだ。ここまで深く眠っている、萌香が悪い──俺はこわばりそうな動きで、萌香の唇に唇を重ねようとした。
 その瞬間、萌香が小さくうめいた。俺ははっと動きを止めた。起きる気配は、ない。そのまま、まだ口づけられそうだ。だが、俺は脱力して顔を離した。ベッドにも背を向けて座りこんだ。
 ダメだ。ここでキスしても、きっと何だか虚しい。勝手にキスをしたって、俺ひとり気まずくなるだけだ。息をついてベッドにもたれかかると、空を眺め、手足も投げ出してしばらくぼんやり座っていた。
 そうしていて、髪を撫でられたのは不意だった。はっとまぶたを開いて、肩越しに振り返った。そこでは、いつのまにか萌香が目を覚まし、まくらに頭を埋めたまま、俺の髪に手を伸ばしていた。じっと見つめあって、萌香が細い声でつぶやく。
「……有栖」
 胸と息が震える。その甘さに泣きそうになる。萌香の手が俺の頬を滑って、濃いブルーのマニキュアの親指が唇に触れた。
「起きて、た?」
 俺がそう言うと、萌香は指先を少しだけ俺の口に食ませた。何の味か分からないけど、懐かしいような味がした。萌香は俺の舌先に触れながら、崩れそうな瞳で言った。
「私、どうしたらいい?」
「えっ……」
「どうしたら、有栖に触れてもらえる?」
「……ねえさん、」
「もっと汚れたらいい?」
「汚れ……なくて、いいよ」
「でも、キスしてくれなかった」
 萌香の黒い目が哀しそうにゆがみ、ついでじわりと濡れた。その傷ついた色合いに、俺はたまらなくなってもう一度身を乗り出した。萌香の肩をつかんで、抑えて、今度は躊躇うことなく口づけた。
 萌香も俺の服をつかみ、俺を自分のほうに引っ張る。俺の上体は萌香に重なって、貪るようにキスを味わった。息を継ぐとき、萌香が俺の名前をうわごとのようにつぶやいた。お互いの熱い舌に絡みつき、覚えている味の唾液をすすり、ちぎれそうな唇を甘く咬む。
 どんな女と口づけを交わしても、こんなに夢中になれなかった。やはり、俺は萌香しかダメなのだ。こんなに、涎があふれるほどおいしいキスを俺は知らない。
 俺はふと唇を離すと、萌香を強く抱きしめた。萌香も俺の胸にしがみついた。「好き」という言葉は出なかった。それでも、あと一歩であの頃に立ち返りそうなほど、お互いがお互いへの想いで壊れそうになっていることは分かった。

第二十章へ

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