同じ血【2】
がらっとドアが開いたのでぱっと顔を上げ、私は思わず目を開いてこわばった。
「萌香さん」
涼くん、だった。左頬に湿布を当てられている。
「あ、……ごめん──なさい、有栖が」
「……いえ。俺も、悪かったから」
「………、」
「担任が、有栖のおねえさんが来てるって言ってきて。何か、……来ちゃってすみません。有栖は」
「少し教室に行ってるわ」
「そうですか。あの、俺」
「うん」
「俺──たぶん、やっぱり萌香さんが好きだから」
「………、」
「だから、きちんと振り向いてくれなくて悔しかったし……誰か、好きな人がいるのもすぐ分かったし」
「……ごめんなさい」
「それでも、やっぱりダメですか」
「えっ」
「二番目でも……何番目かも分かんないけど、それでも俺を候補にしてもらうのは無理ですか」
私がとまどって返事できずにいると、涼くんは私の前に来てあの上目遣いをした。「萌香さん」と肩に手を置かれて、びくんとすくんだとき、「涼」と冷えた声がして私はそちらを見た。
有栖が持ってきたかばんを投げてつかつかと歩み寄ってきて、私と涼くんのあいだに入った。そして、涼くんに見えないように私の手を握る。私は有栖の背中を見上げて、手を握り返すとその背中に隠れた。
「もうねえさんに近づくんじゃねえ」
「……何で、ただの弟がそこまで言うんだよ。話くらいいいだろ、」
「ねえさんは、お前とは寝ないんだ。その男しか無理なんだよ」
「どうせいつか別れるだろ、恋愛なんて。それを待つのは俺の勝手──」
「絶対別れない」
手に力をこめた有栖を見上げた。有栖の強い断言に、涼くんも一瞬言葉を失った。
私は泣きそうになった。絶対別れない。有栖。じゃあ、あなたはもう一度私と堕ちてくれるということ?
「ねえさんとその男は、離れられないんだ。離れようとしたことだってあるけど、それでも無理だった。あんまりねえさんに近づいてると、お前、その男に殺されるぜ」
「大袈裟──」
「殺したいってその男は言ってたからな」
もう、いい。もういいよ有栖。
私はその想いでじゅうぶん満たされた。私のために、この子は本当に人を殺すと思った。でもそんなことをして、引き離されたら一番つらい。
私たちはただあの家に帰ればいい。あの部屋にこもってしまえばいい。そしてすべてさえぎって、お互いの息遣いだけ感じていられたらいい。
「涼、くん」
私は有栖と手をつないで、有栖の背中に隠れるまま、ぎこちなく口を開いた。
「私も、有栖がここまでしてくれてる人を、本当に離れられないと思う。その人と私の関係を守るためなら、有栖は何度もあなたを殴ると思うの」
「………、」
「私のせいで有栖を悪者にはできない。だから、私はもう涼くんのそばにはいられないわ」
「そんな、」
「ごめんなさい。お願いだから、私に近づかないで」
そのとき、チャイムが鳴った。涼くんの舌打ちが聞こえて、開けっ放しのドアから出ていった駆け足が聞こえた。私は有栖を見上げたけど、有栖はただ私の手を引いて、荷物を取り上げてその教室を出た。
「有栖」と呼んでも、振り返ってくれないので不安になる。廊下では有栖と同じ制服の子たちがにぎやかに咲っている。有栖は自分のスニーカーを取ってきて、私と一緒に客人用の靴箱でそれに履き替えた。私との手はつないだまま、駅まで無言で速く歩く。
有栖の名前を呼びたかったけど、また返事がなかったらと怖くて声にならない。駅に着いて私が顔を伏せていると、有栖は急に立ち止まって強く私の手を引っ張ってきた。
え、とそのまま前のめると有栖の胸に倒れこんでいて、有栖は改札のそばの壁に背中を当てて、私の顔は見えないようにぎゅっと抱きしめてくる。
「……嬉しい」
「えっ」
「ねえさんが俺を選んだ」
「………、怒って、ない?」
「え、何で」
「な、何か、何も言わずに……ここまで、」
「……恥ずかしかったから」
「恥ずかしい……?」
「俺、すげーにやけてたもん」
有栖を見上げると、有栖は笑みを隠すような笑みをこぼして、私の頬に触れる。その指先の焦れったさに私の瞳は濡れる。
「有栖」
「うん」
「……今度は返事してくれた」
「ごめん」
「早く、家に帰りたい」
有栖は、私の頭をもう一度抱きこんだ。シャツから嗅覚になじんだ私たちの洗濯の匂いがする。
「俺、学校に行きたくないよ」
「え」
「ねえさんと離れてる時間なんかいらない。離れてるくらいなら、俺も働く」
「……でも」
「ねえさんも、今朝寂しそうだったし。あんなの嫌だ。俺がそばにいないせいで、ねえさんが哀しんでるなんて嫌だよ」
「有栖……」
「ずっとねえさんのそばにいたいんだ」
私は有栖にしがみついた。小さくうなずいた。しばらくそのまま抱きあっていて、でも始業式だけを終えた学生たちが入り乱れてくる前には帰りの電車に乗った。まだ混んでいなかったから、手をつないで並んでシートに座って寄り添いあった。
有栖は学校に行くのをやめた。私が仕事の準備を始める時間はちょっと不機嫌そうで、「俺の仕事が決まったらそんなのやめろよ」と言う。実際、有栖は求人ペーパーをたくさん持ち帰って、私がいないあいだはそれを細かく熟読しているようだった。
その日も、ふてくされたような有栖に見送られて家を出た。九月になって初めての週末だった。夜になると、少しだけ風が軽くなった気がする。暗闇に虫の声が響く中、ヒールを響かせて歩く。
白い街燈とすれちがったとき、スマホが震えて取り出して見た。萌花のメールだった。すでに駅で待っているらしい。急がなきゃ、と歩調を早めたとき、「すみませんっ」と突然背中に声がかかった。同時に足音が近づいてきて、私は振り返る。
そして目を開いた。そこで制服すがたで立っているのは、小波さんだった。
「え、えと……有栖のおねえさん、ですよね」
「……何か?」
「有栖がぜんぜん学校来ないからっ。様子見に行く、のを、あたしが先生にも頼まれて」
「………、そう」
「病気とかじゃないですよね」
「悪いけど、家には寄らずに帰ってもらえるかしら」
「え、あ──でも、プリントとか」
「いらないわ。あの子はもう働くつもりみたいだから」
「はっ……?」
「先生にも、私が改めてご挨拶には行くけど、退学を考えてるって伝言できる?」
小波さんは私を見つめた。その怯えてすくんでいたような目から、次第に何とも言えない黒いものが滲んできた。
「……あ、たし──見ました」
「急いでいるんだけど」
「見ました、おねえさんと有栖が駅で抱きあってるの」
小波さんの瞳に浮かぶ黒いものの名前に気づく。嫌悪。それから、嫉妬。
「あ、有栖と……どういう、つもりで──あんな、恋人みたいに。おかしいですよ。姉弟なんですよね?」
「……そうね」
「何か事情があるなら、説明してください。でなきゃあたし──」
「私と有栖の秘密を、あなたなんかに話せって言うの?」
「秘密って、」
「少なくとも、あなたが有栖に女として見られることはないと思うけど。もう振られてるんでしょう?」
小波さんの頬が、恥辱に赤く燃えたのが分かった。
「私からしたら、あなたのほうがおかしくて、恥ずかしいわ」
「……る、さいっ」
「まだ自分に脈があると思ってるなら、あきらめなさい。あの子は──」
「あんたたち、姉弟じゃないっ! なのに、あんなっ……絶対、頭おかしいよっ」
小波さんは私を押し退けて、駅のほうに走っていった。私はそれを見送って、ため息をつくとスマホを取り出した。萌花の番号を呼び出して電話をかける。萌花は一コールで電話に出た。
『萌香、おっせえぞ。遅刻か?』
「萌花、私、仕事を辞めるかもしれないの」
『は? 何だよ、いきなり』
「その理由を萌花には話しておきたいわ。だから、仕事前に少し時間が欲しいの」
『ママに何て言うんだよ。いや、あー、まああたしたち一緒に通勤してるから、電車が遅れたとか言えるか』
「無理なら、明日のお昼──」
『いいよ、聞くよ。萌香がそんなわがまま言うのめずらしいしな。じゃあ、いつもの店に移動しとくわ』
「分かった。あのね、萌花」
『ん?』
「昔から好きな男の人の話なの」
『は? マジか』
「その人が、もう一度私といたいと言ってくれてるの。だから──」
『はいはい、のろけでも修羅場でも聞きますって。何ならサボればいいし、最悪クソババアの店をクビになればいいだけだし』
「萌花」
『おう』
「今まで、ありがとう」
『………、そいつに本気か』
「うん」
『そっか。まあ、あたしも夜の仕事はやめてくれって親うるさいしなー。萌香が辞めるなら一緒に辞めるかな』
「だったら、ママが怖いわね」
『辞めるなら、てめえの小言にうんざりだって言ってやれるだろ』
萌花はからからと笑った。この親友に真実を伝えられたら、それでいいだろうと思った。
そしたら、私は外の世界を断ち切ってしまおう。有栖とふたりきり、あの家にひっそりと沈んでいく。
私と有栖は、離れられない。昔、秘密を共有して強く強く結ばれてしまった。私は穢されて、有栖は穢させて、その染みを落とすという口実で姉弟の線を超えた。
本当は、姉弟で交わるなんてあってはならない。だけど、その理性が私たちには通用しなかった。どんな卑劣な手段を使っても結ばれたくて、一度はその手段を私は悔いようとしたけど、やっぱりダメだった。
有栖が好き。あの子が私のものではないと気が狂ってしまう。有栖をつないで、有栖につながれて、縛りつけるほどにお互いが欲しい。
早く、もう一度、有栖と軆を交えたい。有栖はまだ言ってくれていない。言ったら始まってしまうのか分かっているのだと思う。私の心の準備ができるまで、「好きだ」というひと言だけは我慢している。
でも、もういい。準備はできた。有栖以外の、うるさい外の人間など、滅亡したようにいなくなってしまっていい。心の底から、有栖以外の何もかもを絶望できる。
有栖、もう一度、私たちふたりだけの世界を始めよう。あなたに犯されて乱されて壊されたい。この世が終わったような静謐の中で、同じ血を流す肌を重ねて、その体温だけに生かされたい。
【第二十三章へ】
