美しい人【1】
「家帰んのうぜえな。今、何時?」
ゾンビがあふれた街でマシンガンを撃ちまくっていた敏輝は、突然現れた『LOSE』の文字に舌打ちをして、ヘッドホンを外すとそう言った。
涼と潤弥は、エンジン音とタイヤの音を軋らせて、俺の背後でレーシングで競い合っている。仕方なく、マシンに寄りかかる俺がスマホの画面を起こし、「十九時になりそう」と騒々しいゲーセンの雑音につぶされないように言った。
敏輝はうざったそうに息をつくと、アッシュの髪をかきむしって、「煙草吸ってくる」とふらふらと何度目か分からないトイレに行った。同じ高校の制服のあいつとは、この四月に同じクラスになってからつるんでいるが、ニコチン中毒が気の毒なレベルだ。
俺は、暗がりの店内で妙に明るいスマホに、メール着信を認めても、読むのが面倒でそのまま画面を落とす。
そのとき「あーっ、くそっ」と涼の悔しがる声がして、その向こうで「よっし、百円!」と潤弥が歓声を上げた。見ると、ダークブラウンの髪の涼がぶつぶつ言いながら財布を取り出し、金髪を注意されて黒髪に謹慎している潤弥に、百円玉を渡している。
思わず笑うと、「有栖笑うな」と一年から同じクラスの涼が俺をじろりとした。「アリス」と敏輝同様、今月からクラスメイトの潤弥がげらげら笑い、「うるせえ」と俺は顔を顰める。
本当に、迷惑な名前をつけられたものだ。おかげさまで、乙女顔の涼と女子ネームの俺、ふたりで「二年六組の女子コンビ」とまで言われている。
「敏輝は?」と涼があたりを見まわし、「帰宅前に一服」と俺は点燈するトイレの案内板をしめした。
「あー、俺も一本もらってこようかな」
言いながら、涼はマシンを降りて、財布をスラックスのポケットに押しこむ。
「涼、帰んの?」
「有栖帰らないのか」
「どうでもいい」
「潤弥は?」
隣に来た潤弥を、涼は振り向く。
「彼女の部屋行く」
「死ね。有栖、帰らないなら女探そうぜー」
「いいけど、ホテル代あんの?」
「俺は年上なら出してもらえるからいい」
「ゲス」
「涼は奥手そうな乙女面をフル活用してるよなー」
「活用しないと、報われませんので」
「まあ、俺は構わないよ。家帰っても──」
喉にトゲが刺さって、息苦しく口ごもる。
帰っても、あの人がいるだけで。……あの人がいるから。
帰っても、頭がぐちゃぐちゃになる。
何も考えられない喧騒、何も考えられない静寂、ジレンマが一気に押し寄せて死にたくなる。
「あー、帰りたくねえ。優等生の兄貴と末っ子の弟とか、マジいらねえ」
俺の様子は気にせず、床に座りこむ涼に、「涼って兄弟三人なのか」と潤弥も無頓着に背後を通った奴らをよける。
「ん。今年みんな高校生」
「うわ、親やりすぎだろ」
「そういうの言うな。吐くし」
「潤弥は兄弟は?」
俺は茶髪の前髪越しに目をやって問う。
「ぜんぜん口きかない妹がひとりいるな。中学生」
「中学生か」
「年下、金出さないからいらない……」
「やらねーし」
「涼は年下とつきあうほうが釣り合って見えるぜ」
「有栖ちゃんうっせえ。くそっ、俺も煙草吸って──あ、敏輝戻ってきた」
涼の視線をたどると、あまりいらだちが落ちていない様子の敏輝が、面倒そうに手を掲げて歩み寄ってきた。
「早かったな」
「一番奥の個室、絶対やってる」
「マジか」と涼が噴き出した。
「あーっ、俺もやりてえ」
「と言う涼と俺は、女漁りに行こうと思ってるけど」
「潤弥は?」
「彼女」
「死ね。俺は帰るわ」
「まじめちゃん」
涼が揶揄って、潤弥がさっきの話を続ける。
「敏輝って兄弟はいんの?」
「あ? いねえよ。ただ、親が過保護で死ぬ」
「ふうん。髪染めてよく文句言われないな」
「すげえうるさい。成績にも進路にも素行にも、全部うるさい。でももう無視」
「にしては、帰るんだな」と潤弥は笑いを噛み、敏輝はその頭を小突く。涼は立ち上がって、俺を向いた。
「有栖は姉貴いたっけ? 俺も見たことないけど」
「いるよ。今年二十歳のが」
「へえ」と潤弥が興味深そうに声を上げ、「美人か?」と敏輝がにやりとする。
「さあ。普通じゃね」
俺は顔を伏せて笑う。
あの人が、美しいか? そんなことは、分からない。本当に、分からない。
自分が正しいのか分からない。
あんなに美しい人はいないと思う弟の俺は、正しいのか──……
写真を見るより、はっきりとそのすがたが意識に残像する。濡れたようにしっとりした黒髪。潤んだ瞳を縁取る長い睫毛。なめらかなクリームのように甘く香る雪肌。瑞々しいいちごのような唇。パーツだけ思い返すと幼いのに、ぞっとしそうな色気は、精緻なアンドロイドのようだ。
柔らかい軆の線は、歳を重ねるほど危うく艶やかになっていく。伸びる肢体、しなやかな腰つき、覗ける胸の谷間。
嘘みたいに美しい。妖しく、壊れそうに、淑やかで。
俺を見つめて微笑み、そっと俺の名前を呼んでくる。大嫌いな名前だけど、あの人の声で鼓膜に響くと、俺は発熱して泣きそうになる。
「──有栖?」
俺ははっとして、覗きこんできている涼に気づいた。
慌てて睫毛の影をよぎっていた幻覚を忘れ、「もうここ出る?」と春休みにクリーニングに出して糊がきいたブレザーの肩を揉む。「だなー」と涼は伸びをして、敏輝も潤弥もかったるそうに床に放っていた荷物を手にする。俺も涼にかばんを投げてから、自分のかばんを持ち上げた。
俺たちの高校は大したレベルではないから、制服のままゲーセンなんかに来れるけど、遅くまでうろついていたら、やはりスタッフに声をかけられる。
いろんなマシンが騒々しい地下の店内から地上に出ると、心地よい春の夜風がちょうど通り過ぎて気持ちよかった。ネオンがにぎやかで、暗い空に星は見つからない。
このへんにはいくつか学校があって、まだこの時間でも違う制服が普通に行き交っている。駅前のゲーセンだから、徒歩三分ぐらいで改札の前に出た。
そこで敏輝と潤弥とは別れると、俺と涼は、そばのファーストフードに入った。
一階の席では、女子高生が下品に笑ったりしていてうるさい。ハンバーガーやフライドポストをたくさんトレイに乗せられると、「ありがとうございましたー」と送り出されて、とりあえず二階の禁煙席を覗いた。見たところ、座席がいっぱいだ。三階の喫煙席にまでのぼると、空いた席が見つかって、俺たちは煙たさがただよう中に腰を下ろした。
「制服に煙草のにおいつくかなー」
言いながら、涼は窮屈そうにネクタイを引っ張る。
「俺、ここのトイレで着替えてく」
「俺も。でも、まずは腹減った。くっそ、何でこんなに腹減るのが早いんだ」
涼は手にした包みを開き、ソースが香ばしいてりやきのチキンががっつり挟まったハンバーガーを頬張る。俺は塩味の強いポテトをつまみ、熱くて柔らかなナゲットをケチャップに浸してから口に放った。
涼はしばらく食事がいそがしそうなので、俺はスマホを取り出して、さっき無視したメールをチェックする。
いつのまにか、もう一通来ている。肘をついて画面に指を滑らせる。新着のほうは、あの人──姉の萌香からだ。
『夕食作ったんだけど、まだ遅くなるの?』
萌香のメールは、いつもそっけなく短い。
くそ、と頭を抱える。ほんとはもっと俺を問いつめたいくせに。一緒に夕食を食べたくて。だから俺のために食事も作って。もっと早く帰ってきてほしくて。なのに、どうして俺は冷たいのかと──
なんて、そんなの、全部俺の妄想だ。こんなもん、萌香には単なる事務メールなのだ。
『帰らないからメシいらない。』
そして俺も、感情を切り取ったそんなメールになってしまう。
萌香が、このメールで泣けばいいのに。ひとりは寂しいと、一緒に食べたいと言えばいいのに。そうしたら、俺は何を置いても家に帰る。
けれど、すぐ返ってくるメールはこんなものだ。
『分かった。
私はもう仕事に行ってくる。』
萌香は二年前に女子高を卒業し、進学せずに仕事──水商売をしている。「私が働かないと、有栖の学費がないでしょう」と萌香は言う。そこまでしてもらって、高校に行きたいとは正直思えない。むしろ俺が働いて、萌香を養いたい。
でも、それを言ったとき、萌香は淑やかな目のまま「有栖にはみじめな想いはしてほしくないから」とつぶやいた。
「大丈夫。有栖は大学まで出なさい」
そうして俺は、萌香とのあの家からも、自立させられるのだろうか。
でも、と思っている。そのときは萌香も連れていく。水商売なんかも辞めさせて、俺が萌香を縛って生かして食わせていく。萌香もそれを断らない気がする。
早く萌香を抱きしめて、執拗にキスをして、俺を見つめるだけで脚のあいだが濡れているのを確認したい。
【第二章へ】