茜さす月-13

朽ちる絆【1】

 家は聖域だった。まだゆいいつ、有栖との時間が秘められている。食事。洗濯。入浴。ふたりだけで共有している世界だった。
 せめて、ここだけは犯されたくなかった。有栖がここを離れるのは覚悟していたけれど、人が踏みこんでくるのは嫌だった。
 なのに、有栖に告白した女なんかが来るかもしれない。すでに吐きそうな嫌悪が毎日ひどかったのに、夏休みが来るより早く、有栖は秘めやかな家庭を引き裂いた。
 有栖の友達だという男の子が、唐突に家にやってきた。
 何してるの。ここに入らないで。早く帰って──なんて、もちろん言えない。咲うしかなかった。嘘をつくしかなかった。有栖を見ても、何だかいい加減に咲っていて、私の瞳を気取ろうともしない。
「飯すごいおいしかったです」と、帰り際にその涼くんという男の子は私に妙にきらきらした目を向けた。私はぎこちなくならないようにうなずき、「ありがとう」と返した。「また来てもいい?」と涼くんは有栖を見た。
 また来る? やめて。これ以上、私と有栖を壊さないで。
 なのに、有栖は相変わらず上の空で、「もちろん」と微笑んだ。
 めまいがするほど泣きたくて、その感覚に死にたくなった。またこの家に他人が来るの? それが当たり前になっていくの? この聖域は侵されて消えていくというの? そんなの、首をくくってでも見ていたくない。
 そのあと、私は三人で取った夕食の食器を洗って、有栖は乾燥機に残っていた食器を片づけた。
 バカバカしささえ感じていた。有栖は、もう本当に私を何とも想っていない。私を見ようなんて、考えもしていない。私ばっかり有栖を引きずっている。何てみじめなのだろう。
 だから、こういう場合は、どんな話題が適切か考えて、涼くんを褒めておいた。そしたら、やっぱり有栖は無神経な返事をした。涼くんを私に紹介したほうがいいかもしれないと。
 もう、どうでもよかった。男なんて、そもそも私には有栖以外すべて同じだ。そうしてくれるよう、ほのめかすことを私は言った。
 強がった反動で、肌がひりひりと過敏になっていたせいで、有栖の視線が刺すように感じられた。怖くて痛くて、顔を上げられなかった。有栖が食器を片づけ終えて、部屋に行ってしまってから、やっとぼろぼろと情けない涙があふれてきた。
 有栖。私だけの有栖。
 でも、今は違うんだ。有栖には有栖の世界があって、そこに私はいなくて、ただの姉の心など踏みつけても平気なんだ。あの子は私の有栖じゃない。私も有栖のものではない。私と有栖は結ばれない。
 それでも生きていくって、いったい何なの?
「あ、萌香さん。お邪魔します」
 快晴がカーテン越しにもまばゆい週末、仕事もなくて萌花との約束もなくて、家なんかいたくないのに、家にいるしかなかった。
 蝉の声が、耳障りにあふれかえっている。
 仕方ないので、掃除でもやりはじめていたら、さっき出かけた有栖がすぐ帰ってきた。有栖はキッチンで飲み物を用意しはじめて、続いて現れた涼くんが、冷房のかかるリビングでしゃがんでコロコロをしていた私にそう声をかけた。
 また来たの──それは顔に出さず、咲って「こんにちは」と立ち上がった。有栖は麦茶のグラスふたつとペットボトルひとつを持ってこちらに来た。
「今、いそがしい?」
「……別に。することがないからしてただけ」
「っそ。じゃあ、こないだの話、涼ともしてたから」
「え」
「涼をねえさんに紹介するって」
 顰めそうになった眉をこらえて、有栖を見た。有栖はやっぱり目を合わせようとしない。
 涼くんはちょっとそわそわと有栖を見て、「とりあえず座れよ」と有栖は涼くんにソファを勧めた。涼くんは、私は頭を下げてからソファに腰を下ろす。有栖はその前に麦茶のグラスを置くと、座卓を挟んだ向かいにもグラスを置いた。何も言われなくても、私がそこに座るのは分かる。
 有栖は涼くんの足元あたりに腰を下ろし、ペットボトルのお茶でごくんと喉を潤した。動いた喉仏に愛おしさを覚えたものの、その愛情はただ虚しいことに哀しくなる。私も涼くんの正面に座って、すると、背後のガラス戸の逆光で、ふたりの表情がよく見えなくなった。
「ねえさんも涼も、お互いの存在を知ったのはこないだだよな」
 有栖はそう言って、淡々と私と涼くんを取り持つ。
「涼はもともと年上の女のあつかいがうまいから、ねえさんにも合ってると思うよ」
「何かそれ、人聞き悪くね」
「事実だろ。ねえさんの男の話って、俺は聞いたことないけど──まあ、年下無理ってことないだろ」
 何、……それ。私の男のことなんて、有栖が一番知っている。私がどこで感じるかまで、知っているのは有栖だ。
 うつむいて黙りこんでいると、「ねえさん?」と有栖の声がしてそちらを見るのだけど、背後が白光してやっぱり顔は見取れない。
「ねえさんには、彼氏も好きな男もいないだろ?」
 どうしてこの子は、私にそんな残酷な質問を投げられるのだろう。
 私は有栖を想っている。有栖しか考えられない。それすらあなたは否定するの? 私から有栖への愛を奪ったら、それはただの幽霊なのに。私を想ってくれないどころか、私が想うことすら拒絶するの?
「も、もしかして、誰かいるんですか」
 涼くんがそう言って、ここでうなずけば楽なのかなあと思った。でも、私に誰かいることになったら、有栖も誰か作って家を出ていくかもしれない。いよいよ有栖との生活が終わってしまう。
 いや、でも──涼くんと関係を進めたら、どのみち有栖は離れるのか。もしかして、早く私を突き放したいから、涼くんを勧めるのかもしれない。
 そう思うと、何だか笑みがこぼれてしまって、涼くんのほうを見た。
「いないわよ。……いたら、今頃デートに出かけてるわ」
「ねえさん、いつも週末は家でぼーっとしてるよな」
「仕事で疲れてるからよ」
「萌香さん、何の仕事してるんですか」
「……あ、夜に──」
「夜にファミレスのウェイトレスしてる」
 私は有栖のほうを見た。
「マジですか。いいなあ、こんなウェイトレスが席に来たら」
「あ、……そう、かしら」
 何? 別に私は隠さなくていいのだけど。有栖の表情が見えないから、選ばれる言葉がいちいち何なのか測れない。
「それで、涼のほうにも、一応今は彼女はいなくて──」
 涼くんの情報は、興味がなくて頭をすりぬけていった。
 膝の上で手を握って、適当に相槌を打ちつつも、早く帰ってくれないかなと気が遠くなった。有栖がどんどん遠くなっていく体感が怖かった。あんなに一番近くにいた有栖が、私を置き去りにして沖へと、その先の知らない場所へと旅立ってしまう。
 もうこんなのいらないから、やめよう。そう言ったのは私だ。そんなことを言っておいて、いまさら有栖が離れていくのを嫌がるなんて、確かにわがままだ。
 私に切断された、有栖の絶望した目を憶えている。
 では、あんなことを言わなければよかったのだろうか。そうしたら、私たちはまだ繭に隠れて愛しあっていたのだろうか。外界に生まれ落ちることなく、家の中でお互いを蝕むように求めていたのだろうか。
 そうだったのかもしれない、と思うと過去を書き換えるか、あるいは未来を絶ち切るかを願いたくなる。たとえあの人に穢されることはなくなっても、きっと有栖は変わらずに私を抱いてくれていた。穢されることなんて、ただの言い訳だとよく分かっていた。有栖は私が欲しかっただけで、私も有栖が欲しかっただけだ。
 姉と弟。理解されない。でも、理解されなくて何だというの。私がもっと強く、有栖を受け止めていればよかったのだ。言い訳を見失っても、それでも有栖を受け入れていたら──
「涼、ねえさんに一目惚れしたって言ってたよ」
 涼くんが帰ったあと、有栖はグラスを片づけながらダメ押しのようにそんなことを言った。私はまだ座りこんでいて、有栖を見上げた。さっきより日がかたむいて、顔つきが見取れる。有栖の目は無機質で、でもそれが私などどうでもいい本音の色なのか、何か隠した偽った堅さなのかは分からなかった。
「……有栖」
「ん」
「どうして、水商売のこと隠したの?」
 どちらも飲みかけのふたつのグラスを持ち上げた有栖は、私を見た。
「ねえさんのことは大事にしてほしいから」
「えっ」
「さっきは言わなかったけど、涼は年上の女を財布だと思ってるとこがあるんだ。ねえさんに稼ぎがあるって知ったら、あんまり良くないかなって」
「涼くんは親友じゃないの?」
「親友だけど。そのへんはあんまりよく思ってない。ちゃんとつきあったらいい奴だから、あいつにもねえさんはきちんと恋愛する切っかけになるんじゃないかな」
「……そう」
「きっと幸せになれるよ、涼となら。考えてやって」
 大事になんか、されなくていい。私は乱暴にされたい。有栖がそう愛されることを教えた。私をわざと傷つけて、その傷を舐めて、沁みる甘い痛みに依存させる。
 この世は冷たく、優しいのは有栖しかいないと思わせるその愛し方が私は好きだった。崩壊した世界でふたりきりになっている錯覚が愛おしかった。
 有栖はグラスをキッチンに持っていく。私はガラス戸にもたれて、すると、思いがけないほどの熱が背中に伝わる。
 有栖を愛していること。有栖に抱かれたいこと。それを有栖に伝えたら、普通の姉弟のように、きっと有栖は眉を顰める。
 私をおねえちゃんと呼んでいた有栖も、自分を僕と言っていた有栖も、もはや虚像なのだ。あの甘美な麻痺は失われた。肌はそっけない現実を知覚し、私と有栖の距離を見せつける。
 有栖があんなにそばにいたのは、すべて幼い夢だったのだ。本当は、有栖は私のそばになんていなかったし、いたいと思ってなかったし、いようともしてくれない。
 ガラスの向こうは、白昼夢の空のように光っている。それを見つめていると、ひどい孤独感に泣きたくなってきた。
 誰に愛されても意味はない。有栖じゃないと、私の心は感応して温まらない。

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