茜さす月-18

香りに狂う【2】

 有栖の夏休みの後半は、そんなふうにわりと一緒に時間を過ごすことが多かった。夏休みの前半は、涼くんと小波さんが家に割りこんできて、すごく不快で不安で。こうして、ふたりだけの空間に戻ると、いらいらもなくて幸せだった。
 私と有栖しかいない家。やっぱりここに侵入者は許せない。「有栖はあのふたりを呼ばなくていいの?」と一応訊くと、「あいつら来ると、ねえさんと話せないし」と有栖は断っているようなことを言った。「ありがとう」と有栖を見上げて言うと、「これがいつも通りの夏休みだから」と有栖は微笑んでくれて、私は瞳が潤みそうになった。
 そして、あと数日で夏休みが終わるという土曜日、有栖は夜には帰ると言って出かけていった。涼くんだろうか。小波さんだろうか。あるいは、ふたりともだろうか。別れたって聞いたらさすがに何か訊かれるかなあと私は憂鬱になりながらも、夜には帰るならしっかり夕食を用意しておかなくてはならないと、買い物のために家を出た。
陽射しはまだまだつらぬくように強くても、蝉の声はだいぶ減ってきた。夜にはコオロギの声も響いてきている。窓を開けてクーラーはつけない夜には、うっすら秋の気配を感じた。
 駅前まで歩きながら、たまに飛んでくるトンボをよけたりもしていたとき、突然「おねえさんっ」と聴き憶えのある声が駆け足と近づいてきた。
「こんにちはっ」
 立ち止まった私は、眉間に寄りそうになった皺を慌ててほどいた。目の前で立ち止まって屈託なく咲ってきたのは、小波さんだった。
「よかった、おねえさんでもいいから話がしたかったから」
「……何、かしら」
「有栖、元気ですか?」
「え、まあ。いつも通りよ」
「そうですかっ。よかった。ぜんぜん会えてなくて、メールとか返ってこないんで心配してました」
「……涼くんと一緒?」
「いえ。涼もおいでよとは言ったんですけど、自分はいいやって」
「そう──」
「おねえさん、涼とうまくいってますか?」
「えっ」
「あいつ、ほんとずっとだらしなかったから。おねえさんがしっかりさせてやってくださいね」
 私は引き攣りそうに咲いながら、この子も聞いてないのかと思った。まあ、夏休みが明けてから話してもおかしくはないか。
 それでも若干とまどう私をよそに、小波さんはやたらと私と涼くんの仲を応援することをまくしたてた。私と仲良くなってまた四人で出かけたりもしたいと言うから、またはぐれて有栖とふたりきりになるためなのかなと勘繰ってしまう。いや、たぶんそうなのだろう。
 有栖にはもう振られているくせに。あきらめられなくて、私から固めていこうとしている魂胆が伝わってくる。でなければ、「おねえさんとも仲良くしたい」なんて私からしたら意味不明なことは言い出さないだろう。
 私は、この子と仲良くなるなんて嫌だ。有栖と寝た女なんか、好きになれるはずがない。私はもう手が届かないかもしれない。そんな有栖に触れられる女なんて、みんな消えればいいとさえ思うのだ。
 嫉妬だと分かっている、それでも私は、このとげとげしくなる心を押し殺せない。こんな女、早く有栖の前から消えればいいのに。せめて、私の前には来ないでほしい。
 だいたい、振られておいて、何でそこまでずうずうしくなれるのだろう。他人だから? 他人は、振られてもなお求めるのが当然なの? 私だって、まだ有栖をあきらめられていなくても、その気持ちを有栖を押しつけようとは思えない。
 迷惑かもしれないとか、考えないのだろうか。いくら愛する気持ちであっても、しつこければかえって嫌われるだけなのに。有栖に憎まれても追いかけまわしたいの?
 私には分からない。他人なんか愛したことがないから分からない。有栖に疎まれる危険性なんて、私ならぞっとするのに──
 さんざんしゃべった挙句、有栖は留守だと聞いたら、小波さんはがっかりした様子で「じゃあ帰ることにします」と去っていった。別に嘘はついていないのに、どこか小波さんの目の色は私を疑っていた。実際、有栖が家にいても私は留守だと言っていたと思うけれど。
 もう家に他人は入れたくない。地元にまで勝手に押しかけるなんて、有栖に気をつけるよう言ったほうがいいだろうか。
 そんなことに悩みながら、さらりと食べられそうなトマトのリゾットをメインにした献立の食材を買いこんで、私は十五時を過ぎた頃に帰宅した。
 夕食の支度には早いので、食材を冷蔵庫にしまい、自分の部屋に入ろうとした。けれど、ふと隣の有栖の部屋のドアを見た。まだ、気分にいらいらした感じが残っている。小波さんは有栖に触れられる。でも私は──
 私だって、昔は。昔は、私が誰よりも有栖に触れていた。愛撫して、体内に受け入れていた。あの有栖の部屋で。
 もうやめようと言った日から、ずっと入っていない。入ったら、何かが崩れそうな気がしていた。でも、小波さんの声や眼つきがちかちかと神経をいらだて、もやもやしたものがこみあげ、ひと思いに有栖の部屋を見て安心したくなった。
 私だって有栖のそばにいる。同じ家に暮らしている。愛しあった記憶がある部屋にだって、入ろうと思えば──
 ゆっくり、有栖の部屋の前に立った。小さく唾を飲みこんだ。板張りのドアを見つめる。暑くて背中に汗が滲んでくる。そっとドアノブに手をかけ、いったん引いたものの、息をついて思い切ってドアを開けた。
 ふわっと、私と同じ匂いなのに、さらに強く有栖の匂いがした。クーラーは切られて蒸していて、水色のカーテンが引かれたまま日射はさえぎられている。
 有栖の気配が染みこんでいる。私が愛してやまない、有栖の生活の匂いがする。シーツがよれたベッド。漫画が散らかったつくえ。開いたクローゼットの服。
 全部、有栖だった。私はやっぱり、泣き出しそうになってしまう。ゆっくりベッドサイドに腰を下ろすと、涙があふれてきた。変わっていない。あの頃と同じ空気がある。私を愛してくれた有栖の気配が残っている。
 シーツの皺に手を這わせて、静かに上体をシーツに重ねた。同じシャンプーから生まれた匂いが、鼻腔を甘美に撫でる。有栖の名前をつぶやいて、シーツが有栖の胸の中であるように甘えて握りしめる。涙が止まっていなくて、ぽたぽたと染みができてしまう。私はベッドに乗ると、深呼吸してからそこに横たわった。
 脚のあいだが、じわりと切なく濡れたのが分かった。そんなことをしたら、気まずくて有栖の顔を見れなくなるかもしれないのに。でも、疼くくらい核が刺激を求めてもどかしい。
 少しだけ。ほんの少し。有栖の匂いを嗅ぎながらしたい。
 いつも部屋でやっていることだ。壁一枚か、そうでないかだけだ。私はスカートをめくって、脚のあいだに指をもぐらせ、下着越しに敏感に熟れているところに触れた。
 声がもれて、自分のその声の痛切さにまた涙があふれる。息が荒っぽくなって目を閉じると、このあいだ有栖に抱きしめられたときの感触がよぎった。最後に触れあったのは、あの子が中学生になる前だ。筋肉のつき方も、骨格も、腕の力強さも違った。でも、大切に抱いて、頭を撫でて、沁みわたるように癒してくれるのは変わらなかった。
 有栖。どうしよう。やっぱり、線を超えてしまったかもしれない。有栖が欲しい。有栖に愛されたい。有栖をここに閉じこめたい。泣きながら、お願いしてしまうかもしれない。
 もう一度、私を抱いて。
 指が無意識に下着の中に入って、じかに核をゆっくりこすった。びくんと軆が震え、有栖の名前が空を彷徨う。涙が止まらない。有栖にされているみたい。有栖が私の核に触れて、離して、こすって、すくって──
 膣が痙攣するのが分かった。有栖を求めてとろとろと蜜が溢れて、ぬるりとそれを指につけてまた核を刺激すると、抑えきれずに喘いでしまう。
 有栖。ねえ、有栖。有栖が欲しいよ。ずっと我慢してきた。欲しくてたまらないくせに、ずっと、一番そばで耐えてきた。もうこれ以上は無理。
 有栖が好き。好きで好きでたまらない。あなたを想うだけで、その残り香で、こんなにも濡れて乱れてしまう。弟だから何だっていうの。私を誰よりも上手に愛してくれるのは、やっぱり今でもあなたしかいない。
 私のそばにいて。離れないで。私もあなたを食んであげるから。奥深くまで、あなたを飲みこんでしまうから。
 有栖。もう私を、このままひとりでなぐさめるなんてさせないで。あなたの指で、熱で、瞳で私のほてった鼓動を殺すように癒して。
 分かっている。こんなの、きっと気持ち悪い。弟のベッドに欲情して、狂おしく脚のあいだをいじって。何をしているのかと考えると、泣いてしまう。
 でも、ダメなの。どうしても有栖なの。私が愛しているのは、求めているのは、弟である有栖だけ。世界中どこを探しても、有栖以上の男はいない。有栖以外の男なんかいらない。またあの子と結ばれたい。愛しあいたい。
 叶わないの? どうしても? 私たちは本当にかけはなれてしまったの?
 ねえ、有栖。あなたを愛しているの。あなたの匂いで、こんなに水音が跳ねるほど濡れるの。
 私に触れて。抱いて。めちゃくちゃに犯して。
 私が愛しているのはあなただけ。あなたが愛していいのは私だけ。
 だから、今すぐ私にキスをして、好きだとささやいて、私以外のものなんか、もう見ないで。

【第十九章へ】

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