言えない想い【2】
俺の夜は、外で過ごすときと家で過ごすときと、もうひとつ、塾で過ごす夜がある。週に一度、水曜日だ。
高校受験を切っかけに通いはじめた塾で、正直かったるくてサボるときもあるが、塾で親しくなった友達もいるから一応顔を出す。その日はその友達からのメールがスマホに入っていて、中間考査も近いし、行っておくことにした。
下校途中の市内の駅で降りて、改札を抜けてすぐ目の前にある大きなビルの四階に、塾は入っている。制服と私服が混ざる教室を覗いても、メールをよこした友達のすがたはない。
『今どこ?』と短いメールを送ると、『三階の階段』と返ってきた。サボるのかな、と俺は肩をすくめ、エレベーターとは逆方向の階段に向かう。重いドアを抜けて階段を降りていくと、踊り場で本を読んでいるその友達のすがたがあった。
「静」
静は小説らしい本から顔を上げ、眼鏡越しに「よう」と笑みを作った。
ストレートの前髪を揃え、俺の通う高校とは較べ物にならないレベルの他校の制服をきちんと着て、どう見ても優等生のお坊ちゃんだ。実際、家柄もいいし、その進学校での成績も常に首位らしい。
でも、静はその賢い頭をお勉強だけに使うなんてしていない。薬物売買、売春斡旋、輪姦、リンチ、裏では犯罪じみたことをさんざんやって楽しんでいる。もちろん、大人の前ではその片鱗もなくにっこり咲って、すべて欺いている。
俺が隣で立ち止まると、静は身をかがめて足元のかばんに本をしまった。
「もうすぐ中間だな」
言いながら、俺は静と並んで壁に背中を預ける。俺と静だと、俺のほうが背が高い。
「自信ない?」
静の声は、見た目の印象より低い。
「まあまあかな。平均点取れればいいや」
「有栖は実力出せば頭いいのになあ」
「んなことないけど」
「相変わらず?」
「ん、まあ」
「そっか」
静はくすくす笑って、無機質な白い電燈を見上げる。静は煙草を吸わないから、隣にいて息が楽だ。涼なんかのほうがよほど吸っている。
「こないだ、萌香さん見たよ」
「……何で」
「出勤じゃない? スーツだったし、萌花さんと一緒だった」
「話した?」
「いや、急いでるみたいだったし」
静は萌香を知っている。というか、俺が萌香の弟だから話しかけてきたらしい。だが、何で静が萌香と知り合いなのかは知らないし、萌香も俺と静が友達であることは知らない。
萌香の彼氏だったのだろうか、と思っていた頃もあったが、静はどちらかといえば、萌香の親友の萌花さんのほうに気があるみたいだ。
「萌香さんは好きな奴いると思う」
親しくなりはじめた頃、静は愉快そうに笑みを噛みながら言った。
「ああいうタイプ、一度好きになったらヤンデレ並みに相手にハマると思うけど──有栖はその男、見たことない?」
萌香のことを話すときの俺のぎこちなさで、静はとっくに見抜いていた。ごまかすには静は怜悧すぎたから、俺は捨て鉢に認めて、何だかんだで萌香とのことをこいつにだけはしゃべるようになっていた。
静は言い触らすタイプでもなかったし、秘密は守ってくれた。代わりに、俺と萌香の仲をおもしろがっている節はある。
静は萌香の気持ちはまだ俺にあると言う。聡明な静にそう言われることが、俺をまだ理性につなぎとめている。もしかして、なんて思えるから、俺は萌香を無理に犯したりしていないのだ。
「萌香さんとどう?」
「何にも」
「有栖が強引に行けば、落ちそうなのになあ」
「強引にするタイミングが分かんねえ」
「強引ってタイミングいるの?」
「………、ねえさんは隙ないよ」
「有栖は隙を見せてる?」
「見せてヒカれたら、立ち直れないだろ」
「萌香さんから『やめよう』って言ったんなら、有栖が『やめられない』って言うのが一番効果的だね」
「いまさら言うのかよ」
「今まで我慢してみせたから言えるんじゃない? 萌香さんも我慢してるだろうから、早く楽にしてあげなよ」
静は高そうな腕時計を見て、腕を伸ばしてかばんを手にした。
「そろそろ教室行かないと」
「授業出るのか」
「今日、模試があるから抜けられない」
「マジか。模試とか対策してねえ」
「帰る?」
「そうだな。せっかく来たけど。……まだ萌香、家にいるな」
スマホを取り出すと、時刻は十八時だ。今帰れば、すれちがうくらいできる。
「顔見れないと結局落ちこむなら、見にいけば」
静はそう言うと、さっさと階段をのぼって行ってしまった。音がなくなって息をつくと、俺は階段を降りてビルを出た。
昼間は厳しい初夏が始まっているが、夜風はまだ軽やかで涼しい。本屋、ドラッグストア、 ATM、ネオンの多い駅前だ。空気はちょっと煙たい。ざわめく人混みを縫って改札を抜け、乗り換えもしながら地元まで到着した。
改札を出てスマホを見ると、萌香のメールが来ていた。
『今日も遅くなる?』
俺は指を躊躇わせたものの、正直に返信した。
『駅に着いた。
あと十分で帰る。』
人気が減っていく住宅地へ歩き出して、数分で返信が来た。
『ごはん温めておく。
気をつけて。』
そのメールを見つめて、嬉しいとかそういう感情を読み取りたかったけど、やっぱり分からなかった。この文章を打ちながら、萌香が喜んでいたらどんなにいいだろう。それが分かるなら、俺だってもう我慢しない。萌香を抱きしめて、優しいキスをして、あの頃のようにベッドで軆を重ねる。
萌香を大事に愛したいのに、今のままでは乱暴に抱くことしかできない気がする。俺が「やめられない」と言ったら、萌香は軆だけ開いても、心は開かないのではないか。そんなのはつらいから、俺はきっと萌香を手荒に抱いて、硬い瞳からは目をそらす。
「おかえりなさい」
帰宅すると、まろやかなクリームの匂いがしていた。俺は黙って家に上がって、ダイニングを覗いた。すると、足音で気づいていたのか、萌香が鍋をかきまぜながら振り返ってきた。十九時が近いのに、まだルームウェアで髪もまとめている。
「仕事は?」
「今日は休みよ。水曜日はお客さん少ないから」
萌香は、ふたつの皿にホワイトシチューをよそっている。
休み。じゃあ、今日は萌香を見送らなくていいのか。ひと晩中、萌香とこの家にいられる。俺は顔を伏せ、頬が笑みに緩みそうで唇を噛む。
やばい。嬉しい。帰ってきてよかった。
「どっか出かける?」
「今日は家でゆっくりするわ」
「……ふうん」
萌香は湯気の立つ皿をテーブルに並べると、俺に目を向けた。濡れた黒い瞳に、わずかに肩がこわばる。
「どこかに出かけてしまったほうがいい?」
俺は眉を寄せ、荷物を下ろして萌香に歩み寄った。萌香は俺を見上げてくる。
くそ。このまま引き寄せて抱きしめて、全部言ってしまいたい。欲しい。したい。まだ俺にはねえさんが必要なんだ。一生ねえさんを縛りつけたいんだよ。愛してるんだ。愛してる。この世の誰より、ねえさんを愛してる。
「有栖──」
「どこにも、行かなくていいよ」
萌香は俺を見つめて、小さくうなずくとキッチンに向き直った。そして、ボウルのポテトサラダをガラスの小鉢に盛る。
萌香の艶々した黒髪を見つめて、喉が渇くような錯覚を覚える。白い首筋も覗ける胸元も、俺をかきたてるのにぶつけられない。
「ねえさん」
「うん」
「どこにも、……ないで」
萌香は手を止めて、再び俺を見た。声がかすれたから聞き取れなかったはずなのに、萌香は微笑んで背伸びして俺の頭を撫でた。俺と同じ匂いがする。
「有栖が出ていくまで、私はここにいるわ」
俺は泣きそうな目で萌香を見つめた。そんな日、だったら絶対来ない。俺がこの家にしがみついていれば、萌香もここを離れられないなら、俺はそれで萌香を縛ってやる。
本当は、俺は手段を選ばない男なのだ。子供のときから。萌香をどんなに傷つけても、俺は自分さえ萌香を独占できるならよかった。あんな男で汚した姉の肌に、「綺麗にする」なんて戯言で触れた。あの日のまま、萌香を俺だけのものにしたい。
萌香は手を下ろして、持ち上げていたかかとも下げて、「支度しておくから着替えてきなさい」とポテトサラダの小鉢をテーブルに置いた。俺は何か言いたかったけど、やっぱり何も言えない。
仕方なく身を返して、かばんを手にして部屋に行った。重たいため息がもれる。頭に残った萌香の指の動きをつかみ、ぞくりとするほど甘美な名残に「くそっ」とつぶやく。
萌香。好きだよ。ガラスの箱の中に飾ってしまいたいくらい。めちゃくちゃに引き裂いてしまいたいくらい。
萌香と暮らしているのに、萌香のいない毎日が苦しいよ。もっとそばで、俺に触れて、優しいことをささやいてくれよ。俺が萌香を幸せにしたいんだ。ほかの男なんか許すものか。ほかの男で満たされるようになる萌香なんか、いっそ殺してやる。
俺だけを見てくれ。萌香の子宮は俺の精液で満たしてくれ。
萌香としたい。もう何年、萌香とキスをしていない? あの頃、俺たちにはあの行為が当たり前だったじゃないか。
今さら姉弟になれない。あんなに愛し合った人を、他人どころか肉親として見るなんて。
萌香、あんたはそれができてるのか? 俺なんか、ただの弟? 俺を欲しいとは思ってくれないのか?
俺は萌香が欲しくて頭がおかしくなりそうだ。もし萌香も同じなら、何で俺たちは躊躇っているんだ?
【第九章へ】