茜さす月-9

縛ってつないで【1】

 仕事が終わるのは、一応午前二時となっていても、大抵は一時間くらい伸びて午前三時になる。もちろん電車は動いていない。だから私と萌花は、お店が契約するドライバーさんの車に乗って、地元まで帰る。
 私は席について二杯目から烏龍茶にするけれど、萌花は自分も飲んでボトルを空けるから、かなり酔っていることが多い。ちょっと蒸した小雨が降る六月の夜、今日も萌花はアルコールに浸かっていて、私に抱えられて後部座席に乗りこんだ。
 私たちに染みついた煙草の臭いが広がった車内には、ラジオとクーラーがかかっている。ドアを閉めて、「お願いします」と湿り気を帯びた髪をはらいながら私が言うと、いつも無口なドライバーさんは、手を掲げて車を発進させた。
 タイヤが濡れた道路を切っていく音が響く。お酒にほてった軆に、クーラーの冷気が沁みこんでいく。
 萌花は柔らかなウェーヴの髪を流し、私に膝枕をさせて、うつらうつらとしはじめる。私はシートにもたれて、雨粒が跳ねる窓の向こうを見た。もうネオンも残っていなくて、真っ暗だ。
 テンションの高いラジオをぼんやり聴いていて、高速道路に乗りこんだ頃、ふと萌花の好きなバンドの曲が鳴った。萌花を揺すると、「何だよお」と萌花は鬱陶しそうにスマホをバッグから探り出す。
「メール……ああ、静だ」
「こんな時間に?」
「あいつならおかしくないだろ……。あー、無理、貸すから萌香が適当に返事しといて」
「静は萌花の返事が欲しいんでしょ。明日でも遅くないわ」
「えー、めんどい……眠い」
 萌花は私の胸にスマホを押しつけ、また眠りについてしまった。私は息を吐いて、スマホの画面を起こし、表示されたメールを読む。
『仕事終わった?
 萌花さんと萌香さんはすっかり静かになったね。
 ふたりがいなくなって退屈だよ。
 今度また遊ぼう。』
 静は、私と萌花が高校生のときに知り合った、現在高校二年生の男の子だ。当時はまだ中学生だったけれど、例の売りをやっていたチームのブレーンだった。
 裏では悪いことばかりしていても、表では完璧な優等生を演じている。萌花は静のことは弟みたいに思っているということで、邪慳にするようでかわいがっている。静には姉じゃないのにと思っても、そこに萌花は気づかないらしい。
 萌花に頼まれたのなら、私から返信を一応打つべきかと思っても、やめておいた。私のスマホは鳴らないから、やっぱり静が欲しいのは、萌花のメールなのだろう。私は萌花のスマホを彼女のバッグに入れておき、自分のスマホを見た。
 着信はあるけれど、客からばかりで息をつく。連絡なんてくれなくていい人からの連絡は、本当に滅入る。この中に有栖の着信が混ざっていればと思っても、もちろん、そんなことはない。
 今日の出勤前は、有栖に会えなかった。私はひとりで、きつねうどんとたけのこ炊きこみごはんの夕食を取ってきた。通勤中、有栖から今から帰るから勝手に食べておくというメールが来た。
 ここのところ、有栖は帰りが遅いのに、一応帰ってくることが多い。私が帰宅する午前四時には寝ていて、私が起床する十時とか十一時には登校していて、会えないのは同じだけれど。
 数時間だけ、同じ屋根の下で眠れているわけだけれど、何となく不安が募っていた。有栖が適当な女と行きずりで泊まってくるのも苦しかった。でも、一応帰宅してくるなんて、もしかして夜には送り届けていったん離れる、落ち着いた誰かができたのではないかと邪推してしまう。
 そうだったら、私はどうすればいいのだろう。有栖の恋人なんて認めたくない。認められない。
 先月、有栖が私に一瞬甘えてくれたことがあった。私は有栖の髪に触れた。茶髪なんかに染めているけど、私と同じ艶がある髪だった。なめらかな感触が懐かしくて、ずっとこのまま触れていたいと思ってしまって、すぐ手を離した。
 そのときの有栖の視線は、息もできないほど切なかった。その瞳に、少し安心を覚えたのに、その直後から有栖は朝帰りでなく深夜帰宅が増えた。
 急にどうしたのなんて訊けない。深夜でも帰宅するようになっただけいいことなのだから、責めるわけにはいかない。
 私は、家の外の有栖を何も知らない。どんな友達がいるか。どんな女の子がそばにいるか。たまにメールや電話をしているから、友達はいると思う。
 昔は友達を作るのが苦手だったのに、あの子も変わったのだ。私に隠れて、手をつないで、引っ張ってあげなきゃいけない子供ではなくなった。私がいればいいと言った有栖が、私からどんどん離れていく。
 私はいまだにこんなに、有栖の存在に依存気味に支えられているのに。
 地元に着くと、萌花を先に一軒家の自宅前で降ろして、次に私のマンション前にまわってもらう。時刻は午前四時が近くて、朝の匂いがほのかにただよいはじめていた。静まり返った景色は、闇に蒼く透けるレースをかけたようだ。気温も一日で一番低い。
「ありがとうございます」とドライバーさんに頭を下げて、私は三階に上がって自宅のドアを開けた。
 廊下の明かり以外、家の中はしんとしている。スニーカーがあるから、有栖はいる。もちろん起きて待っているなんてないけれど、キッチンを覗くと、夕食のうどんを食べて片づけた跡があった。炊飯器を覗くと、炊きこみごはんは消えて水が入れてある。
 完食か。おいしかったのかなと思って、ちょっと嬉しくなる。
 着替えたスーツは、網に入れて洗濯機にソフトでかける。朝ごはんは何を用意しておこうと思いながら、まずはシャワーを浴びた。
 水商売は、煙草の臭いが髪に染みつく。有栖と同じ匂いにならないと落ち着かない。多めに取ったシャンプーとコンディショナーで髪の指通りを溶かし、軆も泡立ててボディソープに包まれる。
 それを一気に熱めのシャワーで落とすと、ほかほかした肌にルームウェアを重ねる。頭に巻いたタオルが髪の水分を吸うあいだに、有栖の朝食を作る。
 ウィンナーの輪切りを入れたスクランブルエッグ、シーチキンとポテトをマヨネーズで和えたサラダ、コンソメスープの素をマグカップに入れておく。あとは物足りなければトーストを、ということで、食パンもテーブルに置いておいた。
 洗面所でタオルをほどいて、しっとりした髪にドライヤーをしっかりかける。さすがにあくびがあふれてくる午前五時、洗濯機は寝ているあいだに乾燥まで動かしておくので、私は自分の部屋に入って、黎明がうっすら照らしているベッドに倒れた。
 今日も疲れた。笑って。歌って。飲んで。
 有栖。私、本当は今でもやめられていないの。もうこういうのはやめようと言ったときから、私は何ひとつやめられていない。
 今でも私は汚してもらっている。有栖に綺麗にしてもらえなくなった今でも、自分の肌にみだらな手を受けている。髪をすくわれ、耳に吐息がかかり、内腿に手が伸びかける。
 有栖に綺麗にしてもらえないのに、だったら、こんなことは無意味なのに。有栖に言えない。今でも汚してもらってるなんて、言えなかった。
 高校生のときからそうだ。やめると言ったくせに、いらないと言ったくせに、私は相変わらず有栖に触れてもらうために自分を穢している。知らないおじさんにされてるの。あるいは今、しょっちゅう男の人に撫でまわされているの。
 有栖に言えば、有栖はきっとまた私を抱いてくれる。そう思ったのに、自分から身を引いた負い目が、有栖との距離を広げてしまった。
 私は有栖に言えなかった。汚されてる──だから? 綺麗にして──いまさら? 有栖が必要なの──もう知らないよ。
 そんなふうにあしらわれるのが怖くて、そう仕向けた自分が憎くて、私はただ自傷しては自分で手当てして泣いている。有栖のキスで血をぬぐって、巻いた包帯の上から、傷痕を優しく撫でてほしいのに。
 有栖にされなくて、虚しいだけだ。何で私はいまだに自分を辱めるのだろう。
 頭の中にアルコールが広がっていて、意識が朦朧としてくる。考え事もつかみどころがなくなってくる。視界がぐらりと眠気に押され、私はふとんをかぶった。
 私と有栖の同じ匂い。同じシャンプー。同じ柔軟剤。なのに、どうして、私の気持ちと有栖の気持ちは食い違っているのだろう。
 私は忘れられないことを、有栖は簡単に投げて、新しい生活に踏みこんでしまった。
 私がいない世界に行ってしまった有栖が憎い。哀しい。寂しい。感情がゆらゆら揺れて、そのまま私は眠りに落ちてしまった。
 起きたのは、十時半の少し前だった。相変わらず二日酔いで頭が痛くて、視界がしばらく白くぼやけていた。
 目をこすってスマホを確かめ、今日が土曜日だと知る。家族や恋人へのサービスがいそがしくなるので、客からのメールも見事にない。昨夜の客への返信も、朝までにすればよかったのに、つい寝てしまった。下手に今返すより、週明けにしたほうがいいだろう。
 ベッドを降りると、閉め忘れてレースカーテンだけの窓から、雨音を眺めた。そんなに激しい雨ではない。買い物行かないと、と冷蔵庫の中を思い返しながら部屋を出ると、リビングでテレビの音がしていた。
 ダイニングの朝食は片づけられて、その向こうのリビングのソファで有栖がビスケットを食べていた。起きたら取り出そうと思っていた昨日のスーツが、ガラス戸にかかっている。それに歩み寄ると、有栖がテレビから目をそらさないまま言った。
「出しておいた。皺になるだろ」
「……ありがとう。土曜日なのに、出かけないのね」
「雨が嫌だってさ」
 うつむいて、唇を噛む。当てつけなのか、無意識なのか。それは── “相手”が「嫌だ」と言ったということ?
 ぽりぽり、という有栖がビスケットを噛む音が鼓膜を引っかく。
「ねえさんは、どっか行く?」
「夕食の買い物には行くわ」
「冷やし中華食いたい」
「じゃあ、今夜はそうする」
「昼は? 疲れてるなら、ピザ取ってもいいけど」
「大丈夫よ。今からご飯は炊いておく」
「ふうん」と有栖はふくろに大きな手をさしこんで、ビスケットを口に運ぶ。あの手がまだそんなに大きくなかった頃、その指先は私のものだったのに。もう違う女の髪を絡みつけて、愛撫している。それならマシだったけど、今はもしかしたら、特定の──
 そのとき、座卓の有栖のスマホが鳴った。有栖はビスケットを含むまま、何やら画面に指を滑らせる。その無表情を横目にキッチンに移ろうとしたとき、ふと有栖が言った。
「そういや、こないだクラスメイトの女子に告られたんだけど」
 足を止めた。まだまとめていない髪で表情を隠せるから、ひどい眼つきをしたのが自分で分かった。
「もしそいつとつきあいはじめたら、ここに連れてきていい?」
 何……?
 震えそうになった息をこらえた。雨音がノイズのようにいやに耳に響く。
 つきあう、って……
「有栖の、好きにしていいわ」
「分かった。夏休みくらい、連れてくるかもしれない」
 つきあうの? 有栖もその女が好きなの? 私のことはどうでもいいの? 私が傷つくって分からないの? 私が傷つくなんておかしいって、そんなふうに考えるの?
 土砂崩れのようにそう思っても、口に出して楽になることはできない。私は浅い息を吐いて、キッチンに踏みこむとお米を研いで炊飯器にそそいだ。自分の中がすごく静かで、その静寂が怖かった。今にも気が狂いそうな悲鳴が近づいてきていて、それがどんな静けさも突き破ると知っているから。

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