光の道を渡れば
冷房はないのだけど、窓から海風が入って日陰なだけで猛暑の外に較べれば涼しい。食堂も混みあい、ここで食べるよりテイクアウトして砂浜で食べるほうがいいかなと思った。とりあえず何か飲みたいな、とカウンターに近づいて「すみません」と鉄板でフランクフルトを焼いているスタッフの女の子に声をかけた。
「はいっ、いらっしゃ……あ」
その二十代半ばくらいの女の子は、僕の顔を見て何やら手を止めた。その所作の意味が分からなくて僕が首をかしげると、「あっ、すみません」と彼女は何やら謝って、「ご注文ですか?」と笑顔になる。少し気になったものの、「レモンのチューハイを」と言うと、「おふたつですよね」と当然のように言われて僕はとまどう。
「いや、えと……ひとつでいいですよ」
「えっ。あ──そうですか。ごめんなさい」
少し考えて、毎年この時期には僕は優空とここに来ていたわけで、もしかして憶えてくれていたのかなと思い当たる。でも、彼女は亡くなりましたなんてわざわざ伝えるほどの相手でもないし──「はい、どうぞ」とその子も気になる様子は見せず、僕に水滴のついた缶チューハイをさしだす。僕は財布から代金を取り出して支払うと、きんと冷たいレモンチューハイを受け取った。
着替えたら希都も瑞奏ちゃんも食堂に来るはずなので、僕はカウンターだけ離れて缶のプルタブを抜いた。さわやかなこの味を飲むとどうしても優空を思い出すのに、お酒というとレモンフレーバーばかり飲んでしまう。
「フランクフルトのお客様!」とさっきの女の子の声がして、気づかれないように彼女を眺めた。髪の長さが優空と同じくらいだけど、毛先を梳いて整えていた優空と違って、遊ぶように跳ねている。ころんと丸っこい瞳が印象的で、素肌も小麦色だ。僕のほうはぜんぜん彼女に見憶えがないので、それだけ優空しか見ていなかったのだろう。別れたとは思われたくないなあ、と目を伏せて冷えたチューハイで喉を潤していると、不意に「真永」と希都の声に呼ばれてはたと顔を上げた。
「もう飲んでるのかよ」
「喉渇いてたから」
「まあ俺も飲むけど。瑞奏は?」
「ビール!」
「俺もビールでいいや。真永は食わないのか?」
「いや、食べるよ。ここ混んでるし、テイクアウトしてシートで食べようかなって」
「だなー。瑞奏、シートで場所取ってきてくれよ。あとこのパラソル」
「えー、あたし? あたしがチャーハンと焼きそばで迷ってるあいだに、希都が敷いてきてよ」
「はいはい。俺、焼きそばにするからチャーハンにすれば? 取り皿もらってさ」
「やったっ。真永くんは何にする?」
「お好み焼きにしようかな」
「お、いいね。じゃあ、あたしと真永くんで、パラソル目印にしてフード持ってくわ」
「了解」
希都はさりげなく瑞奏ちゃんのバッグを引き取り、食堂を出ていってしまった。
そんなわけで僕と瑞奏ちゃんは、さっきの子とは違う大学生くらいの男の子のスタッフにフードとドリンクを注文した。その子は別に、僕の隣に優空がいないことが気になるようなそぶりはない。あの女の子はまた鉄板に向かって、肩にかけたタオルで汗をぬぐっている。
フードが用意できるまで十分くらい待つということで、僕と瑞奏ちゃんはちょうど空いた席があったのでそこにいったん落ち着いた。カウンターからやや距離があったのもあり、女の子のちょっとおかしな様子について瑞奏ちゃんに語ると、「どの子?」と瑞奏ちゃんは楽しそうにカウンターのほうに首を伸ばした。
「鉄板で料理してる子」
「ふうん。いくつだろ、ちょっとガキっぽいねえ」
「はは。十年もほぼ毎年来てたんだもんね。スタッフさんからしたら憶えるのかも」
「そう? あたし、客なんてクレーマー以外ぜんぜん憶えられないわ」
「瑞奏ちゃんはモールの受付みたいなものだから、そりゃ憶えきれないよ。大変だよね」
「まあねー。ほぼ見た目で人事異動されたし」
「瑞奏ちゃんみたいな感じの人がインフォにいると、優しそうって思いそう」
瑞奏ちゃんはけらけらと笑い、「優しくないよー」とビールを飲む。
「仕事中は金もらってるんで優しくしてるけど」
「希都が制服も似合ってるっていつか言ってた」
「あいつ、あたしの制服すがたは見たことないでしょ」
「疲れるとたまに見にいってるらしいよ」
「何それ。まあ、声かけてきてもこっち仕事中だから困るけど。うわ、あんな猫被ってんの見られてんの?」
「みたいだね」と僕はチューハイを飲み、「見られたくないなー」と瑞奏ちゃんは仏頂面になる。
「職場の人はみんな、瑞奏ちゃんは育ちいいよねって言うからしんどいわ。よくねえし。親とは仲悪いくらいだし」
「そうなんだ」
「そうなんだよねー」
「僕も家はあんまりよくなかったよ。だから、学生時代はすごく暗くて。優空に出逢って変われた気がする」
「あたしも希都といて、多少は丸くなった気がしないでもない」
「希都と何年になるのかな」
「この春で七年。最初はこんなに続くと思わなかったなあ」
「希都が今は結婚してるヒマがないって言われるって言ってたけど、そういう願望はないの?」
「あるに決まってんじゃん。だから、二十代のうちに友達と遊んだりゲーム徹夜したりしてるの。ずいぶんふたりで過ごさせてもらったし、結婚したら子供はすぐ作れるようにね」
「安心した。希都と瑞奏ちゃんには、結婚して幸せになってほしいや」
瑞奏ちゃんは頬杖をついて僕を眺めたあと、「優空ちゃんのウェディングドレスは綺麗だっただろうねえ」と遠い目になる。
「……うん。着せてあげたかった」
「真永くんと優空ちゃんこそ、結婚しようってなかったの?」
「あったよ。それ前提の同棲だったし。ただ、病気でばたばたしちゃったのはあるなあ。だからこそ急がなきゃいけないなんて、そんなのは、思いたくなかったのかもしれない。優空は元気になるって、信じてたよ。一生残す写真とか撮るんだし、顔色とかよくなったほうがいいよなとか……何でそんなの気にしたんだろうね。よく考えれば、化粧もプロにやってもらえるのに」
「優空ちゃんが一番綺麗なときを想い出にしたかったんだね」
「そう、だね。くだらないこだわりだったかな」
「そんなことないよ。女からしたらそこまで気遣ってくれるのは嬉しい。たとえばさ、太ってるときに記念写真は撮りたくないじゃん。だから、真永くんは間違ってなかったと思う」
「ありがとう。せめて優空にプロポーズはできたから、それはよかったかな」
「プロポーズしてたの? 優空ちゃん、OKしてくれた?」
「うん。僕と結婚できるなら、長生きしなきゃねって……言ってくれてた。亡くなったのはその数日後だよ」
また泣きそうになって鼻の奥がつんとしたものの、目をこすって抑える。「優空ちゃん、幸せだったんだね」と瑞奏ちゃんはしみじみとつぶやく。
「あたしも希都といるとそうだから結婚したいと思うけどさ。結婚したいぐらい一緒にいて落ち着く人と出逢えるって、すごく幸せだと思うの」
「……うん」
「優空ちゃんは、ひとりぼっちで亡くなったわけじゃないんだ。ちゃんと、真永くんと一緒にいたいって思ってから、亡くなったんだよ。真永くんの存在が、本当に嬉しかったと思うよ。生まれてよかったなあって思えるくらい、嬉しかったと思う」
僕は瑞奏ちゃんを見て、泣き笑いみたいになりながらうなずいた。生まれてよかった。優空がそう思ってくれていたのなら、僕も嬉しい。こんなに早く死んでしまうんだとか、もう生きることができないんだとか、そんな闇に堕ちることなく、生まれてよかったと自分を受け入れて逝ったのならさいわいだ。僕と出逢ったことが優空にそう思わせたのなら、僕もこの世に生まれて、そして優空に出逢えてよかった。
「焼きそばとチャーハンとお好み焼きのお客様!」
そんな声がして、「おっ」と瑞奏ちゃんが立ち上がり、カウンターに向かって手を挙げた。カウンターから店内をきょろきょろしているのは、さっきの女の子だ。
僕も椅子を立ち、瑞奏ちゃんとカウンターに向かった。女の子は今回も何やらまばたきをしたものの、特に何か言ったりはせず、「お待たせしました」と立ちのぼる湯気が香ばしいフードをさしだす。「取り皿ってもらえる?」と瑞奏ちゃんが訊くと、「紙皿でよければ」と女の子は紙皿を何枚かつけてくれた。代金を支払うと、「よし、希都を探しにいきますか」と瑞奏ちゃんはチャーハンと焼きそばを持ち、僕はお好み焼きと三人ぶんのドリンクの缶を腕に抱え、ふたりで食堂を出た。
砂浜を見渡すと、「あ、たぶんあのピンクと白のパラソルだ」と瑞奏ちゃんがすぐに声を上げた。暑い日射の中を水着ですたすたと歩き出す瑞奏ちゃんに僕もついていく。希都はフロートマットにペダルで空気を入れていて、僕がビールを渡すと「サンキュ」とすぐにプルタブを抜いてごくんと飲んだ。瑞奏ちゃんはシートに腰をおろし、「いただきまーすっ」と割り箸を割る。
「うわ、湯気熱っつい。かき氷も買えばよかったなあ」
そう言いながら瑞奏ちゃんはまず焼きそばを頬張り、マットが仕上がった希都も「俺のぶんちゃんとよこせ」と取り皿に焼きそばを移す。僕はそんなふたりに微笑ましくなりながら、ソースが香ばしいお好み焼きを食べて、その熱さに舌を火傷しかけた。
食事が終わると、希都と瑞奏ちゃんはマットと共に海に向かった。僕は荷物番をして、肩に優空の重みがないことに哀しくなり、パラソルの陰なのでちょっと泣いた。優空はもうこの海に来れないのに、僕はこの海に来ていること、そのすれ違いに心がきしむ。
押し寄せる波音が心に迫る。優空と聴いた豊かに潤う音色。想いが通じたときも、この音が耳元に流れていた。
日中ははしゃぐ人がいっぱいの海辺も、夕方にはみんな帰路に着いたり夕食に行ったり、驚くほどひと気がなくなる。今日もあっという間にその頃になり、「真永は少し夕食遅れるって伝えとくな」と着替えた希都と瑞奏ちゃんはひと足先にペンションの夕食に向かった。僕は残してもらったシートに座り、よく晴れた青空が緩やかに桃色と橙々色に溶け、金色に透ける一瞬のときをじっと見つめる。
あのとき、僕は確かに優空の手をつかんだのにな。どうして今、僕はひとりで、彼女が隣にいないのだろう。認めたくない。そんなの認めたくない。優空が死んだなんて、僕はまだまともに受け入れられていない。
涙が滲んで景色がひずむ。何度もぬぐっているうちに、空は深い青に染まって暗くなっていた。僕はこれから、そんなふうに人生の夜を過ごすのだろう。ただし、朝が来る保障はない夜。この闇が明けるなんてとうてい思えない深い夜。それでも僕は生きていけるのだろうか。
あるいは、この満ちてくる波に飲まれてしまえば、楽になれるのか。優空のところに行けるのだろうか。分からない。ただ、そんなことをしたら優空が怒るのは分かった。
海面に月が映っている。その陸離と伸びる光の道を行けば、永遠に幸せな国に行けるという、幼い頃に読んだ絵本を思い出した。永遠の幸せ。それは僕にはずっと優空の隣にいられるということだ。しかし、生きている限り優空の隣には座れない。なのにそれでも生きていくなんて、何でそんな残酷な道を歩いているのだろうと、僕は膝を抱えて嗚咽を殺した。
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