Blue hour-11

波音に誘われて

 夕食のあと、浴場が空いていたので汗を流すことにした。このペンションの浴場は、男湯と女湯に別れていることはなく、代わりに入浴中はドアノブに『使用中』の札を下げ、中から鍵をかけることができるようになっている。だから、他人と鉢合わせることもない。家庭用ほど狭いわけではないので、連れと入ってもいいし、もちろんひとりで入ってもいい。僕と優空は一緒に入っていたっけ。人目にさらす水着になるのは恥ずかしいのに、入浴は一緒かと希都たちには笑われていたけど。
 脱衣所で汗が染みこんだ服を脱いで、それはビニールぶくろにまとめておく。浴場はひのき作りになっていて、その香りがこもった湯気が立ちこめている。桶にすくった熱めのお湯で軆を流して、それから澄んだ湯船に浸かる。湧き出るお湯は湯船から常にあふれて流れて、同じお湯がずっと浴槽に溜まらない仕組みになっている。温かいひのきにもたれ、息をつきながら、ずいぶん砂浜で泣いてしまったなあと思う。
 あの海に来るときには、隣に優空がいるのが当たり前だった。これからは、優空が隣にいないことが当たり前になっていくのだ。この海でだけじゃない。部屋でも、買い物でも、ベッドでも、優空は隣にいない。もう半年以上経ったのに、その現実に心はついていかない。ついていきたくないような気持ちもある。優空の不在を受け入れたとき、僕は本当に彼女を喪ってしまう気がする。
 湯船を上がると、ミニボトルで持ってきたいつものボディソープやシャンプーですっきりする。シャワーはないので、カランから桶にお湯を溜めて泡を落とす。それから、もう一度熱い湯船に浸かって、めぐる水音にしばし耳を澄ますと、僕は風呂を上がった。
 部屋に置いてあった浴衣を着ると、髪はタオルで拭いただけで浴場を出た。広間を通りかかると、希都と瑞奏ちゃんがおみやげコーナーにいたので、足を止める。そういえば、僕も職場にお菓子を買っていかないと。そう思い、おみやげコーナーに向かうと希都が「お、風呂入ったんだ」と僕に気づいてにっとしてくれた。
「うん。汗かいてたしね」
「俺も海の家のシャワーだけじゃ海水落ちてないよな。入らなきゃ」
「今、空いてるんじゃないかな」
「瑞奏、先に風呂入る? 俺が行っていい?」
「んー、あたし入る。これキープしといて」
 瑞奏ちゃんは選んだお菓子の箱を希都に持たせると、「はあ、遊んで食べて眠くなってきた」と言いながら部屋のある二階への階段に向かう。浴衣や洗面用具を取りに行くのだろう。僕たちはそれを見送り、「希都はどれにするの?」と僕は希都に向き直る。
「俺は毎年饅頭って決まってるんで」
「そっか。僕はこのゴーフルが多いけど……違うのにしてみようかな」
「饅頭うまいぞ」
「じゃあ、そうしようかなあ」
 白餡の饅頭の箱を手に取りかけ、「そういえば」と僕は希都に顔を向けた。
「前に、希都が話してたよね。瑞奏ちゃんが『今は結婚してるヒマはない』って言うって」
「言いますね」
「あれ、あんまり気にしなくていいかも」
「気にするだろ」
「昼間、焼きそばとか待ってるときに瑞奏ちゃんと少し話したけど、結婚は希都以外考えてないって言ってた」
「マジで?」
「うん。結婚したら子供をすぐ作りたいから、今できることをやっておいてるって感じだった」
「子供? 瑞奏が子供とか考えてんの?」
「考えてるみたいだよ」
 希都はまじろいたあと、何だかにやにやとした笑みをもらしかけて、何とか我慢する。それに僕は思わず噴き出してしまい、「三十歳になったらすぐそういう話していいのかも」と言う。
「そっか。来月にはあいつ三十になるんだよな」
「じゃあ、そろそろ希都も素直に伝えていいと思う」
「サンキュ。てか、昼飯待ってるあいだにえらくこみいった話したな」
「優空はウェディングドレス綺麗だったろうねって話の流れで」
「それは確かに。真永のタキシードは笑いそうだけど」
「自分でも似合わないだろうなと思う。希都はかっこよさそうだね」
「そうか? 瑞奏はウェディングドレスより白無垢っぽいよな」
「じゃあ、希都は袴か」
「どうしよ。悩むな……」
「いっぱい悩みなよ。そういうのが、大変だけど楽しかったりするし」
「おう」と希都がうなずいていると、瑞奏ちゃんがポーチや浴衣を抱えて戻ってきた。「まだお風呂空いてる?」と訊かれて、「たぶん真永のあと誰も行ってないな」と希都が答える。「じゃあさっぱりしてくるっ」と瑞奏ちゃんは浴場に行ってしまい、「一緒に入らなくていいの?」と僕が訊くと「一緒に入って、真永と優空ちゃんみたいにほのぼのできるか分からん」と希都は肩をすくめた。
 僕はまた笑いつつ、饅頭の箱をひとつ抱えてレジも兼ねている受付に行こうとする。けれど、キーホルダーが並んでいる回転する台のところで立ち止まった。ちょっと探してみると、去年瑞奏ちゃんが優空のおみやげに買ってくれていた貝のキーホルダーがある。本物の貝だから、ひとつずつかたちは違うけど。
「それ、瑞奏が優空ちゃんに買ってたな」
「優空、ポーチにつけてたから。今は部屋にあるよ」
「そっか。瑞奏、熱心に選んでた」
「………、優空の周りの人はほんとにいい人ばっかりだったな。友達も、家族も」
「彼氏もだろ」
 僕は希都に照れ咲いして、貝のキーホルダーをひとつひとつ見ていき、一番綺麗だった桜色の巻貝を選んだ。それと饅頭を買うと、貝のキーホルダーは希都に差し出す。希都が首をかしげると、「優空と僕から、瑞奏ちゃんに」と僕は微笑む。
「瑞奏ちゃんは優空の友達だよ。いつも優空と僕を祝福してくれてたんだから」
 希都は僕を見つめ、「お前やっぱいい奴だわ」と笑んでキーホルダーを受け取った。僕も咲ってみせて、「先に部屋で休むよ」と希都の肩を軽くたたくと階段に向かった。
 部屋に戻ると、明かりをつけて少し開けた窓に網戸をかけ、ベッドに仰向けになった。髪がまだ湿っているので、まくらにはタオルを敷く。昼間遊びまわったわけではなくても、泣き疲れているみたいで、軽く頭痛がして軆が冷たいシーツに沈んだ。冷房つけないとまた汗かくな、と思っても、まだ窓からの風が涼しい。
 空中に目が彷徨う。優空のすがたを探してしまうみたいに。ベッドサイドに腰かけて、僕の髪を梳いてくれた指を思い出してしまう。去年は来れなかったけれど、その前まで僕たちは毎年ここで夏を過ごした。
 病気になっても、優空は咲って僕との未来の話をしてくれたけれど、本当はすごくつらかったのかもしれない。そこに自分がもういないことを、彼女は悟っていたのではないか。だとしたら、何でもっと「今」優空が生きていることを大切にしてあげられなかったのかと感じる。確かに、僕がバカみたいに優空との未来を信じているのも、彼女の支えだったかもしれないが、もっと惜しむように愛することも必要だったのではないか。僕の脊髄に優空を刻みつけるべきだった。傷つくぐらいに、損なうぐらいに。その痛みを一生背負うことは、僕にはむしろ光だったような気がする。
 そんなことを考えるうちにうつらうつらしてきて、そのまますうっと意識が暗闇に飲まれていた。潮風の匂いが鼻をくすぐる中で夢を見た。
 砂浜で優空が横たわっている。あの死に顔だったから、もう息はしていないのかもしれない。それでも僕は、優空の軆を引っ張って渚から引き離そうとする。海は暗く荒れていた。大きな波が何度も優空をさらおうとする。それに逆らって、僕はいくらしりぞいても延々と続く砂浜を行く。やがて海が満ちてきて、波が鰐の口のように襲ってくる。そしてついに打ち寄せた波が優空の脚に絡みつき、ずるりと飲みこんでしまう。
 僕は追いかけようとしたけど、優空を食べてしまった途端、海は凪いで波も小さく泡立つだけになった。突っ立った僕は、握りしめていた優空の腕がすりぬけていった手を見下ろして、泣き出す。優空を喪った感触がはっきり残る中、はっと目を覚ますと、明かりもつけっぱなしのひのきの部屋で、ナイトテーブルのデジタル時計は午前四時になろうとしていた。
 息を吐いて、ゆっくり身を起こした。頭痛はおさまっている。でも、心が澱んで気持ち悪かった。優空をあんな不気味な海にさらわれてしまうなんて。でも、優空が旅立った途端に海が凪いだということは、彼女が天国に送られたということだろうか。分からないけど、せめてそういう暗示だったと思いたい。
 ベッドを降りると窓辺に立って、波音が聴こえてくるのに気づいた。夢の中では迫る波が恐ろしかったけど、その音は優しく奏でられている。しばし、そこにたたずんでぼうっとしていたけども、夢が怖くて眠る気にもなれず、僕は鍵を手にして明かりを消すと、部屋を出た。
 廊下は非常燈以外は真っ暗で、足元に気をつけながら階段を降りていく。すでに起きて働いている人がいるのか、どこからか物音がしたり、朝食らしき匂いもした。外に行くなら部屋の鍵は返さなくてはいけないのだけど、ロビーには誰もいないので、放って置いていくより持っていくことにする。
 玄関の押し開きドアはさいわい開いて、僕は足音を殺して宿屋街の夜道を歩く。ペンション同様、かすかな音はちらほら聞こえても、ほぼ静まり返っている。日中に較べたら冷めた風が頬を撫でていき、空はどこまでも暗く、月や星がくっきり見えた。
 海に到着すると、夜明け前のそこに人影はなかった。さく、さく、と足音を名残らせながら波打ち際まで歩き、月の光で、波が押し寄せて砂を染め、引いて砂に染みこむのを見つめる。透明な波は僕の靴の爪先を濡らすだけで、あの夢の中の波のように絡みついて引きずりこむことはない。潮風の香りに、何だか息がつまりそうになる。
 ああ、この音も、この匂いも、優空と結ばれたときと同じだ。この海は何も変わらないのに、僕と優空は変わってしまった。後戻りできないほど、変わり果ててしまった。

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