Blue hour-12

青の時間

 また涙がこみあげ、目をこすったときだった。不意にさくさくと足音が聞こえて、はっと振り返る。堤防の階段を降りたところに、人影がある。シルエットが優空に似ていて一瞬どきっとしたけど、いや、そんなはずはない。
「はっはっ」という息遣いが聞こえたかと思うと、いきなり「わんっ」と犬に吠えられてびくんとした。よく見るとその人は犬を連れていて、「こらっ、リュカ」と女の子の声も続いた。「すみませんっ」とその子は僕に頭を下げ、「い、いえ」と僕は動揺しながらも答える。
「……あれ、」
 犬に引かれるままこちらに近づいてきたその子が、月光で僕の顔を認め、同時に僕も彼女を認めて「あ」と声をもらした。あの子だ。昨日、海の家で鉄板に向かっていた女の子。彼女はやっぱり僕の顔を憶えているのか、「おはようございます」と会話を続けてきた。
「おはよう、ございます。えと、散歩ですか」
「はい。この子──うちの宿の名物わんこの」
「宿……の、方なんですか」
「そうです」
「海の家の人なのでは」
「海の家もやってます。夏は私、海の家が担当になるので。夏以外は実家の宿を手伝ってます」
「そう、ですか」
 ぎこちない僕を彼女は見つめてきて、「気に障ったら申し訳ないんですけど」と前置きする。
「毎年、彼女さんとご一緒でしたよね」
 どきんと彼女を見た。垂れ耳の犬は、彼女が僕と話すのを見取ったのか、足元でお座りをしている。
「えと、詮索したいとかじゃなくて。すごく、憧れてたので」
「えっ」
「おふたりがここでふたりで夕焼けをずっと見てるの、毎年海の家を片づけながら見かけてたんです」
「……そう、ですか」
「すごく仲がよさそうで、私も彼氏とあんなふうにロマンティックにできたらいいのになあとか思って」
「彼氏さん、いるんですね」
「私たちはもう、ほぼ冷めちゃってお別れ秒読みですけどね」
「……好きなら大切にしたほうがいいですよ」
「好き……なの、かなあ。どうなんだろう。お互いから自由になったほうが幸せかもしれないです」
 彼女がちょっと無理をしたように咲うと、犬がじっとそれを見つめている。うつむいた僕は、隠すことでもないか、と思って彼女を見直した。
「僕の恋人、亡くなったんです」
「えっ?」
 彼女がぎょっと目を開く。
「三年前から、病気だったんですけど。去年の暮れに」
「そ、そうなんですね。ごめんなさい、私──」
「いえ。知らなくて当然ですし」
 僕はあやふやに咲ったあと、無造作に脚で首を掻く犬を見て、「わんちゃん、触ったら怒りますか」と訊いてみる。
「あ、大丈夫ですよ。さっき吠えたのは、いつもこんな時間には誰もいないので、びっくりしたからだと思います」
 僕はうなずいてしゃがみこみ、その犬がどうやらビーグルだと気づいた。リュカ、と呼ばれていたっけ。リュカは僕が自分と同じ目の高さになると、濡れた鼻先をこちらに近づけてくる。そっと頭を撫でると、すべすべした毛並み越しにも温かかった。リュカは僕の手を舐め、くすぐったくてつい笑ってしまう。
「かわいいですね」
 僕がそう言って見上げると、彼女は「この子、男の子ですけどね」と小さく微笑む。リュカは僕に撫でられてぱたぱたと尻尾を振ってくれる。こんなふうに、体温というものを感じるのは久しぶりな気がする。彼女は海を見やると、「そろそろ、ブルーアワーですね」とつぶやいた。
「えっ」
「ブルーアワー。それを見に来たんじゃないんですか?」
「いや、単にちょっと眠れなくて」
「そうなんですか。ええと、夕暮れのほんの一瞬をマジックアワーっていうのは知ってます?」
「それを彼女と見てたので」
「夕方ではマジックアワーのあとがブルーアワーです。夕方が終わって夜が始まる、その一瞬の空が深く青くなる時間」
「深く青く」
「明け方は、ブルーアワーからマジックアワーになるんです。夜明け前の深い青の空がブルーアワー。そして夜明けが始まってマジックアワーです」
「朝と夕方、逆なんですね」
「はい。どんな暗い夜になっても、空が青くなりはじめて、魔法で朝になるって素敵じゃないですか?」
 僕は水平線を見やる彼女を見たあと、リュカの喉を撫でた。リュカが黒い瞳を気持ちよさそうに細める。彼女の言葉を反芻し、僕にもそんな時間が訪れるのだろうかと思う。今、僕は夜の魔法にかかって真っ暗闇にいる。しかし、そんな時間帯はやがて終わる? 僕の心にも、深い青のきざしが射して、朝の魔法で闇が飛び散るときが来るのだろうか。
 リュカがその場をぐるぐるまわりはじめて、「あ、おしっこしたいやつだ」とそれに気づいた彼女は、「じゃあ、また来年に」と僕に頭を下げてその場を立ち去った。リュカは岩場まで行くと、片足を上げて小便していた。僕はそれを見守り、また来年か、と息をつく。まあ、たぶん希都たちに誘われて来るだろうか。そのとき、僕の心は──
 ふと空の明度が変わった気がして、海を向いた。艶やかなほどの青が立ちこめ、海も染めている。太陽がすぐそこまで来ているのが分かる。でもまだぎりぎり昇っていなくて、空は深い。やがて太陽が昇りはじめ、いつも夕方に優空と見ていた金色の空が広がっていく。いつも、この空から青へ、青から闇に堕ちていくのばかり見ていたけれど、夜の時間が終われば、闇から青、そしてこの透き通った朝焼けになるものなのか。そして空はオレンジに染まり、雲にはピンクが滲む。どんどんそれが広がり、太陽で白んでいきながら、いつのまにか突き抜ける空色に包まれる。
 僕はその空に惹きこまれていて、気づいたらまた海辺にひとりになっていた。でも、そろそろやってくる行動の早い人もいるだろう。浴衣のままの僕は、鍵をなくしていないことを確認すると、宿屋街を歩いてペンションに戻った。
 ペンションのスタッフが歩きまわっていて、僕はちょっと外にいたとだけ言って、朝食まで部屋にいることにした。希都たちは起きたかなと思いつつ、着替えをして荷物をまとめはじめる。朝食は確か七時からだったので、五分前に部屋を出ると、階段をおりていく希都と瑞奏ちゃんの背中を見つけた。「希都」と声をかけると、ふたりは振り返って「おはよう」と笑顔を向けてくれる。
「おはよう」
「眠れたか?」
「一応。明け方には少し散歩してた」
「そうか。ま、眠かったら帰りの車でも寝れるよ」
「うん。ありがとう」
 僕たちは一階の食堂に向かうと、他の宿泊客も周りのテーブルでざわつく中、塩焼きの魚や和え物、ごはんに味噌汁といった朝食を食べた。誰かと一緒に食べると、だいぶ味が分かる気がする。
 食後の香ばしい玄米茶を飲んでいると、「真永くんには言わないの?」とふと瑞奏ちゃんが希都を見た。「いや、言うけど」と返す希都に僕が首をかたむけると、正面に並ぶふたりはこちらを向く。「真永」と改まって希都に呼ばれ、僕はまばたく。
「何?」
「いや、そのー……あ、昨日言ってくれたじゃん。瑞奏もさ、結婚のことちゃんと考えてるって」
「うん」
「そのことをだな、昨日の夜、瑞奏とも話したんだ」
「あ、そうなんだ」
「それで──来月の誕生日になったら、プロポーズするからなって予約した、というか」
 きょとんとしてしまったものの、「ある意味すでにプロポーズだよね」とくすくす笑う瑞奏ちゃんに補足され、ようやく僕も飲みこめてくる。
「希都と瑞奏ちゃん、結婚するってこと?」
「そう、だな。いつっていうのはこれからだけど」
「指輪ももらってないしねー」
「来月までに用意します」
 瑞奏ちゃんに頭を下げる希都を見つめる。結婚。思わずぽかんとしたものの、はたとして、「おめでとう」と僕は自然と笑みになる。「おう」と希都はわずかに照れた微笑を浮かべた。
「何か、すぐ行動に出たね」
「これまでが我慢してたんだっつうの」
「そんなに気にしてたんだ、あたしの『結婚してるヒマない』って」
「いや、気にするだろうが」
「二十代のあいだはって意味だったのに」
「それでも、何というか、早くつかまえたい男としてはへこむだろ。真永ならどうだよ」
「僕は──優空には、その場でうなずいてもらったからなあ」
「だろ。男はその反応を期待するだろ」
「あたしも夕べは『来月待ってる』って答えたじゃない」
「そうだよ。だから嬉しいよ」
 正直に認める希都に僕は咲ってしまいつつ、「結婚式には呼んで」と言った。ふたりはうなずいてくれる。希都が結婚。幼い頃から一緒だった親友のお祝いに、僕もじわじわ嬉しくなってくる。自分は優空とそこにたどりつけなかったことが、かすかに胸を傷つけるけど、それは希都たちに押しつける感情ではない。優空だって、このふたりの結婚ならおめでとうと咲っていたはずだ。
 それから僕たちはペンションをあとにして、潮風を抜けてお盆のラッシュの高速道路に乗って、帰路に着いた。行きは僕が泣いてしまって沈痛な空気だったけれど、帰りは希都と瑞奏ちゃんが婚約ということで車内は温かい雰囲気だった。いつもの町に帰ってくると、僕は駅前で車を降りて、トランクを開けてくれた希都に「ほんとにおめでとう」ともう一度伝える。「うん」と微笑んだ希都は、「真永と優空ちゃんにあやかったからな」と続ける。
「僕と優空」
「あの海でつきあうようになったんだろ。だから俺も」
「はは、そっか」
「優空ちゃんにも聞いてほしかったよ。ほんとに」
「聞いてるよ、きっと」
「そうか?」
「うん。優空も喜んでくれてると思う」
「……そうだな。サンキュ」
 希都は僕の肩を軽くたたくとトランクを閉め、運転席にまわった。「また飲みにいこうぜ」と言って希都は車に乗りこみ、僕はそれを見送る。ロータリーをまわって車が見えなくなると、ゆだる暑さの快晴を見上げて、ざわめきの中にちらつく蝉の声に気づく。
 空には淡い水色が透き通っている。海で見た深い青がよぎり、僕の心もいつか夜明け前を迎えるのだろうかと思う。そして、夜の魔法が金色に溶けて、あの空のように晴れやかな気持ちになることもあるのだろうか。
 分からない。まだ分からないけど。優空は僕が泣き暮らすより、それを望んでいるのかな。
 もっとそばにいたかった。結婚したかった。でもそんなもう叶わないことにすがっていても、僕は前を向くことができない。幸せにはなれない。
 優空を亡くして、僕にはもう幸せなんてありえないと思っていた。そんなものはいらないとも思った。でも、時間は過ぎていく。夜は朝になってしまう。だから、僕もいずれは、この目に新しい光を見るのかもしれない。
 まあ今はそんなきざしもないけど、と苦笑して、優空と暮らした部屋に向かって歩きはじめる。
 僕が結婚しようと言ったときの優空の笑顔が脳裏に浮かぶ。長生きしないとねと彼女は言った。もし新たな光を心に宿したとしても、優空は僕の心の隣で生きていると思う。結ばれることはないけど、僕は結んでいく。だから、生きていくことが苦しくないように、少しずつ、僕も夜が刻々と終わっていくのは受け入れないといけないのだろう。

第十三章へ

error: