Blue hour-14

君を失った日

 聖空さんはドアを引き、「ただいまー」と中に声をかけた。ローストチキンの香ばしさが真っ先に鼻をくすぐる。それから、僕の部屋からは蒸発しつつある、優空がまとっていた匂いがした。ドアを閉めて、冷たい風を遮断しただけで凍えた心臓がやわらぐ。
 ぱたぱた、と足音が近づいてきて、顔を出した女の人──優空の母親に、僕は慌てて頭を下げる。
「真永くん。久しぶりね」
「ご無沙汰していてすみません。いろいろ、気持ちを整理できなくて」
「いいんですよ」とおかあさんは微笑み、僕の言葉を物柔らかに制す。
「来てくれてありがとう。中に主人もいるので」
「あ、これ、優空は花とか喜ぶか分からないんですけど」
「綺麗。飾らせてもらいますね。真永くんも、優空に会ってあげてください」
「……はい」
 靴を脱いだ聖空さんが、「こっち」と誘導してきたので僕はあとを追う。左手はリビングに通じ、右手には和室がある。その肌寒い和室に通された僕は、優空の仏壇と向かい合った。
 遺影の優空は、まだふくらみがあって元気な頃の写真だった。陽射しが射しこむ柔らかい明るさの中で、はにかむように咲っている。僕はのろのろと仏壇の前に座り、しばらく、その遺影を見つめた。
 乳癌。手術。悪性。危篤。優空を襲ったいろんな過酷な現実がくるくるよみがえる。それをひとり背負って逝ってしまった優空が、改めていじらしく思えた。本当は、咲えなかっただろう。泣きたかっただろう。でも、優空は安らかな顔で僕たちに何も負債を残さなかった。
 あの最期から一年。一年、優空の瞳にも声にも温もりにも触れていない。優空が死んだのに、僕は一年も生きた。このまま、優空は過去になっていくのだろうか。きっと消えることはないのだけど、古びていくのか。優空の死に顔はいまだに鮮明で、薄れていく気はしない。ただ、あの顔を思い出しても、こんなふうに涙がこみあげる衝動はおそらくなくなっていく。
「友達、が」
「うん?」
「優空のことで泣きたくても、泣けなくなる日が来るって」
「……泣けなくなる」
「忘れるわけじゃないけど。優空が亡くなったことが当たり前になる。遺されても生きていくってそういうことだって」
「………、そうかもね」
「でも、そんなの、まだずっと先です。優空が死んだなんて、そんなの、受け入れられない」
 聖空さんは嗚咽をこぼす僕の隣にしゃがみ、「真永くんはひとりじゃないよ」と肩を優しくさすってくる。
「私も、おとうさんもおかあさんも、優空がもういないなんて信じられない」
「聖空さん……」
「病院に行けば、まだあの子はそこにいるような気もする。きっと、看取れなかったせいだけど」
「……僕もです」
「ひとりで耐えなくていいんだよ。私たちは、真永くんの味方」
 僕は滲む視界に聖空さんを映し、「ありがとうございます」と鼻をすすった。聖空さんは微笑すると、ティッシュを持ってきて僕に渡す。僕はそれで涙をぬぐうと、深呼吸して、静かに優空に線香をあげた。立ちのぼる独特の匂いの煙を見つめる。それから、「おとうさんとおかあさん、待ってますね」と立ち上がった。
 食事の時間は思ったより穏やかに過ごせた。優空のことを話しても、痛ましい沈黙が入って気まずくなることもない。さっき聖空さんに出逢いがなかったかを訊かれたけれど、おとうさんも「もし、新しくいい人が現れたら気兼ねはしなくていいんだよ」と言ってくれた。「まだ優空を想っていたいので」と僕が答えると、「本当に優空はいい人を見つけたんだなあ」とおとうさんはしみじみと目を細めた。「何かあればいつでもこの家においで」とも言ってもらって、それには素直にうなずかせてもらった。
「そういえば、優空と梨苗が文化祭で一緒に作った漫画の冊子って、残ってたっけ」
 食後には、僕が持ってきたシュークリームがデザートになった。それを食べながら聖空さんがそう言い、おとうさんとおかあさんは顔を合わせる。
「優空の部屋にあると思うよ。確か卒業アルバムとまとめたかな。どうして?」
「真永くんに見せたら、優空怒るかな」
「え」と僕がまじろぐと、「真永くんならいいんじゃないか」とおとうさんがあっさり言う。
「そうだよね。真永くん、帰る前にちょっと優空の部屋に行ってみる?」
「優空、ほんとに怒らないですか」
「私は別に恥ずかしいものでもないと思うし」
「はあ。じゃあ、見てみたいです」
「ん。よし」
 そんなわけで、シュークリームも食べ終わると、僕と聖空さんは二階の優空の部屋に向かった。この部屋に来たことがあるのは数回だ。聖空さんは明かりをつけ、すると、まださほど片づけた形跡はない、変わらない光景が浮かび上がった。聖空さんは本棚を見ていき、「あった、卒アル」と僕も以前見せてもらった卒業アルバムを見つける。
「高校時代、優空って髪が長かったんですよね」
「知ってるんだ」
「そのアルバム見せてもらって。何か新鮮でした」
「はは。あの子ねえ、大学のときに髪ばっさり切ったんだよ。あ、これかな」
 聖空さんは卒業アルバムの隣にしまわれていた小冊子を引き出し、僕に差し出した。見憶えのある、梨苗ちゃんの絵が表紙になっている。屋上らしき金網の手前に夏の制服を着た男の子の背中がある。
「小説を読まれたら、あの子嫌がるのかもしれないけど。これならいいと思う」
「聖空さんは、優空の小説って何か読んだことは」
「ない。たぶんあのPCの中に入ってるんだろうけど、立ち上げられないの。パスワードで」
 聖空さんはつくえに載るデスクトップPCをしめし、小説も読んでみたかったけどな、と思いつつ、僕はホチキスで止められただけの簡易な小冊子をめくった。
 そんなにページはぶあつくない、教室になじめず屋上で時間をつぶす少年の話だった。学校の屋上には幽霊が出るといううわさがあり、ある日、主人公の前にうわさ通りの少年が表れる。もしかして。まさか。そんなふうに思っていると、ここから飛び降りて死のうと少年が持ちかけてくる。同じく疎外感を抱える主人公は、うなずいて金網を越える。手をつないで空中に浮いた瞬間、少年の手は主人公の手をすり抜ける。そして、ひとり堕ちていく少年に主人公は微笑み、すうっとそのすがたを消す──
「……怖いですね」
「怖いよね。優空が原作って意外だった」
「主人公が実は幽霊だったんですか」
「そう。屋上に来た人を道連れにしてる地縛霊」
 僕はもう一度、小冊子をぱらぱらとして、優空が幽霊として現れるならどこだろう、と考えた。病院だろうか。僕との部屋だろうか。この家だろうか。幽霊でもいい、会えるなら会いたい。道連れにしたいならしていい。けれど、優空ならこんな悪霊のような真似はしないのだろう。
 小冊子を元通り本棚にしまうと、そろそろ帰ることにした。時刻は二十一時をまわっている。おとうさんとおかあさんに挨拶して、夜道をひとり帰すのも危険なので、聖空さんとも玄関で別れた。食事のときシャンパンをもらったので、帰りの電車では何だかふわふわしていて、扉に肩をもたせかけた。
 流れる夜景を眺め、優空を亡くしたのは僕だけじゃないんだな、と思った。優空の家族も、僕と同じぐらい彼女の喪失に傷ついている。ひとりじゃない。僕は優空の家族と、優空が生きていたことを共有できる。出逢いとか。新しい恋人とか。そんなのより、僕は優空の家族が僕を認めてくれていることのほうがありがたかった。
 いつもの町に到着すると、足元に気をつけながらアパートに戻り、明かりもつけずにリビングのソファにどさっと座った。
 もう、真永。くつろぐなら、ちゃんとスーツを着替えてからにしなさい。
 そんなことを言って、僕の頬をつねる優空はいない。暖房を切って冷たい空気に、ゆらゆらと視線が泳ぐ。もうすぐクリスマスが終わる。一年前の今頃は、通夜も終わり、柩に入れて優空に持たせるものを選んでいた。優空は僕が持たせたものを、天国で大切にしてくれているだろうか。
 読ませてもらった漫画を想い、優空は寂しくないのかな、とぽつりと思う。僕は優空がいなくなって寂しい。優空は向こうで寂しい想いをしていないだろうか。あの漫画の主人公は、やっぱり寂しかったのだろう。だから、屋上にふらりと現れた人を惑わせて道連れにした。僕がこんなに打ち沈んで泣いていても、優空は現れて連れていかない。それは、優空が天国で心穏やかに過ごし、僕を忘れているということなのかもしれない。
 不思議とそれを哀しいとは思わなかった。むしろ、優空が天国でなごやかに暮らしているのなら、それでいい。僕は優空を喪って、こんなに痛いから。優空もこの痛みを味わっているなんて、なのにそばにいてあげられないなんて、耐えられない。優空だけでも、今、すべてを忘れて幸せなら──僕ばかりが、心を痛めているほうが、ずっとずっとマシだ。

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